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強兵の戦いの果てに

ワールドカップが終わった。アルゼンチンが優勝し、メッシが待望のワールドカップを手に入れた。日本時間24時から始まったアルゼンチンvsフランスの決勝を、私はテレビの前で見ていた。

試合は、見たことがないほどの打ち合いだった。4年前のロシアワールドカップでのアルゼンチンvsフランスの衝撃的な試合を上回るセンセーションが詰まった試合だ。

2-0で前半を折り返したアルゼンチンのサポーターは、この時点でアルゼンチンの優勝をほぼ確信していただろう。しかし、フランス代表はこれでは終われなかったらしい。23歳のエムバぺが、数分で2点を返す。フランスのチーム全体の動きが鈍く、相手の勢いが止まらない状況で2点を返したのだ。エムバぺの細い体がアルゼンチンDFを置き去りにする姿には、空中から海へ飛び込む海鳥や、田舎の風景を二分するリニアや、宇宙を無音で飛び回る宇宙船のような異物感ないしスタイリッシュを感じた。ピッチの上で異物が高速で移動し、ボールとともにダンスを踊っていた。それはアルゼンチンDFにとって純然たる脅威であっただろう。試合の状況を全く無視した合理的パフォーマンスは、近代社会が前提としてきた合理的な利益追求者の姿を体現しているように思えた。西洋文明が夢想した存在である。2022年のサッカーグラウンドにて、ようやく人類の完成形が見つかったのかもしれない。しかし、相手であるアルゼンチンには「神の子」がいる。いや、”いた”のかもしれない。

2-2で後半へもつれ込んだ試合は、さらなる熱狂を生み出すことになる。チャンスは、アルゼンチンFD3枚の溶かしたチョコを混ぜるように滑らかなパス交換から始まった。そこから生まれたシュートは、なめらかな動きのままアルゼンチンの10番の前にこぼれる。メッシである。メッシである!

多メッシの才能、人間性、そのすべてがこれだけのサッカーファンを引き付け、そのサッカーファン一人一人の思いが神秘的な偶像としてのメッシを形作っていた。多くのサッカーファンが、この試合でのメッシの決勝点を期待していただろう。しかし、それと同時に、そんなによくできた話は、この世界ではありえないと思っていた。この瞬間までは。

これは運命だったのだろうか。試合が始まったときから、もしくはそれよりもずっと前から、これは決まっていたのかもしれない。

メッシによる3点目。延長後半という時間もあり、これで勝負ありなはずであった。「神の子」がもう一つ上の次元へ行くための試練は、これが最後だと思っていた。

またもやエムバぺだ。コーナーキックのこぼれ球を拾ったエムバぺが、ペナルティエリア外からシュートを放つ。そのシュートがブロックをしていたアルゼンチン選手の腕に当たる。サッカーではよくあるワンシーンでも、この試合で、この時間で、この展開で起こるとこんなにも感動するものなのか。

エムバぺの「怪物」という呼び名には違和感があった。確かに、エムバぺは非人間的な身体能力を持ち、非人間的なメンタリティを持つ。しかし、それだけでなく、金属球が周囲の全てを映し出すような魅力を持っている。「怪物」という言葉は、その魔訶不思議な魅力にはそぐわない。なるほど、「怪物」としての邪悪な雰囲気は、エムバぺの表面的な魅力に覆い隠されているのである。

アルゼンチン 3-3 フランス で延長が終了。PK戦で決着が決まる。PKはメンタリティで決まる。このレベルであれば、ゴール隅に蹴り込むことは容易である。しかし、ここまで戦ってきた仲間の視線を自分の背後に、世界中の数億人のサッカーファンの期待をキーパーの背後に、その状況で冷静と情熱を保てる選手は多くない。その均衡が破れれば、画面越しでもその選手の心理状況は良く分かる。結果は、4-2 でアルゼンチンが勝利。ワールドカップを手に入れた。

この試合結果は、もちろんエムバぺとメッシのパフォーマンスだけで作られたものではない。両チームの各選手の献身があったからこそ、この結果が生まれた。名前を挙げるのであれば、全く気を緩めないデ・パウル。速攻時の中盤選手の鬼気迫る飛び出し。アルバレスのオフザボール。途中出場のラウタロの正確なボールタッチと的確な球離れ、ディ・マリア超うまい。マルティネスの最低で最高なセービング。足が痙攣するまで走り続けたヴァラン。実力と勝負強さを見せたコロムアニ。メッシからボールを奪い、2点目につなげたコマン。最後までボールをさばき続けたラビオ。その他すべての選手が泣きたくなるほどの運動量とプレーを見せてくれた。そして、両チーム監督の名采配も試合を盛り上げた。デシャン監督は、調子の上がらないフランス代表を、若手4枚の4トップにすることで立て直した。メッシ中心のチーム作りから、的確な選手交代をしたスカローニ監督。

圧倒的スターたちのクオリティは、最高峰の選手たちの献身、両監督の諦めない心と賢明な思考の上でこそ成り立つものだったのだ。

さらに言えば、今回の冬開催されたカタールワールドカップという特殊な条件も試合に影響した。熱波の厳しいカタールの夏を避けるため、冬開催されたワールドカップであったが、シーズン中の開催ということもあり、けが人が続出した。日本代表でも、怪我により守田や富安などの選手の試合出場に影響が出た。フランス代表は、カンテ、ポグバ、ベンゼマというチームの主軸選手が参加不可となっていた。どの選手も世界最大級のクオリティを持つ。大会は過密スケジュールであった。決勝を中三日で迎えたフランスは、体力面で圧倒的に不利であった。準決勝の クロアチアvsモロッコ の試合でも、中日が重要な要素であることは明らかであった。これらは、FIFAの政治的な開催地決定や、商業主義的なスケジュール決定として非難されるべきものである。それ以外にも、カタール開催ということに批判が向けられており、スポーツに政治を持ち込むべきではない以上、その前の場においてそういった問題が限りなく少なくなるようFIFAないし各国サッカー連盟は努力すべきだっただろう。この点については、一サッカーファンとして恥ずかしく思うし、何かしらの改善策の一部になれたらと思う。

しかし、こういった状況がフランス代表を苦しませ、結果としてアルゼンチン代表を味方したのは事実である。メッシは、ピッチ外のこういった状況も全て味方につけていたともいえる。


このワールドカップは、なんと1か月超短期間で開催されたものであった。しかし、このワールドカップで紡がれた物語はたった1ヶ月のうちに始まり、終わるものではない。

そして、その物語は私たち自身から始まるものなのではないか。

ワールドカップなどの世界的な大会で見る選手たちは、自分とは全く違った存在であると感じるかもしれない。しかし、全ての選手は私たちと同じような姿で生まれ、サッカーを楽しんでいた。

日本だけで数百万のサッカー経験者がいる。そして、その全員が勝利を喜び、敗北を悲しんだことがあるはずだ。ある大会では、いくつか勝ち、そして負ける。誰にでも敗北はある。そしてその経験の積み重ねの中で、自らを磨き、輝きを増していく選手だけが勝ち残る。高い壁のように感じたあのチームも、どこかのチームには及ばない。私が敵わないと直感したあの選手も、誰かの前で絶望を感じる。勝利の愉悦。敗北の無力感。試合とは、それを生み出すシステムである。そのシステムの果てに、本当の勝者がいる。

高校では、もうすぐ始まろうとしている冬の選手権を目指して努力を続ける。大学サッカーでは、全国一部を目指してしのぎを削る。その中でひときわ輝いた選手たちが、Jリーグという舞台に立つことができる。日本中のサッカーエリートが集まるその場においても埋もれることのない実力を示す選手がいる。そういった選手がヨーロッパサッカーへと旅立つ。日本とは全く違った環境に挑戦することには、色々な思いがあるだろう。その思いを乗り越え、勝利への資源とした選手がチームでの確固たる地位を確立する。そして、大舞台でチャンスを掴んでこそ、サッカーをする誰もが知るようなチームに入り、誰もが憧れる大会へ出場する権利を得る。この次元に達すれば、一般人からすれば何が優れているのか分からないほどに高次元のサッカーが繰り広げられる。才能と努力の積み重ねにより、サッカーは、全く違った姿を見せる。そして、世界最高の選手たちでも手の届かないタイトルがある。世界中の数億人のサッカー選手たちの中の頂点にいる選手たちでも、である。渇望したそのタイトルは、世界中であらゆる競争を勝ち抜いてきた選手たちでも掴めないことがあるのだ。

最後のワールドカップと宣言して臨んだワールドカップにて、メッシはその世界最高の選手が憧れるタイトルのすべてを手にいれた。文字どおり全てである。

サッカーという世界はコンプリートされた。
「神の子」は、「サッカーの神」になった。サッカーの象徴の誕生である。

メッシが私たちに見せてくれたのは、サッカーの全てである。宇宙だ。

これは誰も否定できない。事実だ。ああ。

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