利他的感情の充足という利己主義
社会課題に解決に向け、積極的に活動する個人に対し、以下のような投げかけが向けられることがある。
「それは結局のところ、自己満足なのではないか?」
「行動する自分への自己陶酔ではないのか?」
こういった投げかけは、多くの場合、適当な言いがかりであると考えるが、こういった投げかけも真摯に受け止めてみれば、意外にも重要な問題提起であることがある。
これは、社会的な個人の動機に関する問題であるが、そういった個人の動機を単純に羅列するならは、どういったものがあるのだろうか。
もちろん、食い口としての活動でもあるであろうが、その活動を選んでいる以上、社会を”より良い場所にしたい”という思いがあるはずである。言うなれば、「利他的感情」である。
それでは、利他的感情を充足させることが、社会的な個人の根本的な動機なのだろうか。これこそが、上記問題提起の論点である。
私たちが行うべきは、ここに存在する社会を”より良い場所”にすることである。しかし、これは利他的感情を充足させることと同義ではない。私たちの感情はある程度現状に即したものであり、大きく重なる部分はあるものの、全く同じということはあり得ない。
私たちは、利己主義、つまりは内向きの目的のために行動する際、目的について深く吟味する必要はない。基本的に、自分が目指したい姿を目指せばそれで良いのである。なぜなら、それに自体が利己的なものであり、自己満足であることこそが利己主義の定義であるからだ。
しかし、利他主義は、外向きの目的を持つものであり、自己満足ではない。自己満足ではなく、実質的に他者に利することが、利他主義の定義となる。現状を鑑みずに利他的な感情を充足させようという試みは、利己主義に基づく行動である。
ここにおいて、「利他的感情の充足」と「利他主義」は乖離する。利他主義を実践する際、目的設定は公共の福祉に基づいて行われる。そのため、どのような社会が公共の福祉にかなうのか、論理的に思考せねばならない。私たちの美的感性やバイアスは、公共の福祉に優先されることはないのだ。
私たちは、目的設定について論理性を優先して思考することを求められる。内向きの目的であっても、目標設定については論理的に考えることが必要である。しかし、それは根本的な自己満足のための論理性である。
外向きの目的は、論理的に形成された目的を達成したいという感情から達成されるのだ。これこそ、利他主義が持つ特性であり、美しさである。