パンの耳の恩義
心の引き出しは手付かずで煩雑になっているものだなと思う。
普段は引き出しから何かを取り出そうと思っても見当たらないのに、探してもいない時にふいに顔を覗かせてきたりする。愛嬌があるような憎たらしいような、なんとも言えない引き出しだ。たまには整理をしてあげなくてはいけない。
今朝はパンを食べた。いつも同じ食パンだ。
子供の頃から毎日朝は食パンだ。
子供の頃と違うところといえば、8枚切りが6枚切りに変わったこと、マーガリンとバターは違うものだと知っていること、マーガリンは厚めに塗ってもいいということ、ヨーグルトやサラダ、フルーツを添えてもいいということ、お供が牛乳からコーヒーへ変わったこと、だろうか。
子供の頃、母からよく言って聞かされたことがある。
「おやつは家で食べなさい。よそのお家でもらったらあかんで」
両親は共働き。学校から下校しても家には誰もおらず、三人兄妹の私たちは下校する順番もバラバラだったので家のポストに入れてある鍵で各々自宅へ出入りして放課後を過ごしていた。
自宅へ帰るといつもビニール袋に名前が書かれていて
その日のおやつが置かれているシステムだった。
チョコパイの日は大当たり、チョコレートが入っている日はまずまず、
おせんべい1枚やラムネだけしか入っていない日はハズレ。
”お兄ちゃんだから”という理由で兄たちの分はいつも私の倍だった。
子供の頃は体格差だとか、母が「女の子が食べ過ぎて太らないように」だとかを気にしてそうしていたこともわからなかったので、ただの依怙贔屓だと思っていた。
加えて食べ盛りの兄たちは、先に帰宅した時には私のおやつを持って遊びに出かけたりもしていた。
私のおやつなのに…
そんなこんなでおやつなしの日が存在したのだ。
子供にとっては由々しき事態だ。
絶望の日だ。
小学生時代はよく家の近所の友人の家に遊びに行っていた。
近所といっても山と川しかない田舎である。
子供の足では30分かかる山を登って遊びに行っていた。
仲の良かった友人を、
ここでは仮に ”はるちゃん” としておこう。
よく近所に住む友人達と一緒にはるちゃんの家で遊んだ。
シルバニアファミリーで遊んだり、64をしたり、ビデオテープに録画してくれていたミニモニを真似して踊ったりした。
はるちゃんの家は我が家と違って、
友人を家に招くことを嫌がらない両親だった。
子供が数人集まっても部屋の中が窮屈にならなかったし、少しくらい騒いでも怒られない家だった。
少し大きくなってから知ったのだが、
はるちゃんの家は自営業で工務店をしていた。
わりと裕福なお家で、お母さんは専業主婦だった。
いつもお母さんが家にいるのが羨ましかった。
はるちゃんの家で遊ぶ友人はいつも一緒だったが、家の用事や習い事で他の友人が来ない日もあった。
はるちゃんと私と、
それからはるちゃんのお母さんしかいない日。
そんな時にだけ、はるちゃんのお母さんがかけてくれる言葉があった。
「ちゃむちゃん、作りすぎたし食べてく?晩ご飯食べれんくなったら叱られるやろうから少しだけやで。お母さんには内緒にしよな」
パンの耳を揚げて
砂糖をまぶしたおやつ
いつも朝に食べる地味な食パンとはひとつも同じじゃなくて、
きらきらしていて、とても甘くて、いい匂いがした。
子供の頃のおいしいおやつの記憶だ。
高校生になると、はるちゃんとは別の学校になった。
はるちゃんは地元の進学校、私は県外の看護学校に通い、当たり前のように疎遠になった。
高校2年生の時、久しぶりにはるちゃんから連絡がきた。
「看護学校に進学を考えてるんだけど」という相談だった。
時間をつくって会いに行った。
大量の教科書を持参して。
あの時は無自覚だったけれど、
なんとなくはるちゃんと、はるちゃん家に恩義を感じていたのだろう。
パンの耳の恩義だ。
私が持って行った大量の教科書をきらきらした目で見るはるちゃんの横から、はるちゃんのお母さんが顔を覗かせて言った。
「ちゃむちゃん久しぶり。おばちゃんまた作りすぎちゃってさ。
食べてく?お母さんには内緒にしとこっか」
台所からとても甘くていい匂いがした。
大人になった今では、時々思い出して自分で作ってみることがある。
でも、あの時みたいにきらきらしていなくて、
あんなに甘くて、いい匂いにはならない。
余談だが、はるちゃんはその後看護学校へ進学し
今では看護師としてバリバリ働いている。
私はパンの耳の恩義を返せたのだろうか。