さべつとぼうりょく

まじめな話をしてしまう。
アカデミー賞におけるウィル・スミス氏のクリス・ロック氏への暴力事件についてだ。

ウィル・スミス氏の暴力の是非はひとまず置いておくとして、まず大前提としてクリス・ロック氏の発言はまごうことなき差別であって、けして容認してはならないものだ。
この暴言について、氏と、賞の主催者である米映画芸術科学アカデミーは反省して謝罪すべきである。

そして米映画芸術科学アカデミーには、彼をプレゼンターとして起用した責任がある。クリス・ロック氏の発言が団体としての総意ではないのならば、その旨をすみやかに宣言するべきだ。そのうえで彼に対する処分を公表しなければならない。
最低限、それが為されるまでは、発言は起用者の責として負うべきだ。

また関係者は、この差別行為に対してクリス・ロック氏と主催者である米映画芸術科学アカデミーに非難の声をあげなければならない。アカデミーを権威として扱っていたひとたちはなおさらである。これを許容しては、現代社会が築き上げてきた倫理が破綻する。

ウィル・スミス氏の暴力について、個人的な見解を言うなら、自分も同じ場所にいたなら同じ行為をしたであろうと思われる。その行為を称賛したい気持ちもある。
ただ、それは許されてはならないものだ。
暴力は許してはならない、というのは揺るがない前提で、その倫理は絶対に崩されてはならない。
クリス・ロック氏の発言がまごうことなき差別であってもだ。

しかし。しかしながら――。
ウィル・スミス氏の暴力の是非が問われるには、それを誘発した差別行為が「正しく断罪される」という社会がなりたっていなければならないのではないだろうか、と強く思う。
差別行為が正しく断罪されない未成熟な社会であれば、未開の文化のころのように私的制裁は必要だと社会に認められてしまうだろう。

社会が差別発言の正しく断罪することによって、そして差別発言が正しく断罪されるものであると信頼されることによって、その後の暴力も暴力として裁かれるべきものとなる。
わたしは、そうした世界を望んでいる。

だから、わたしは、まずこの場で、クリス・ロック氏の差別発言について、彼と、米映画芸術科学アカデミーを強く非難する。

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