だけど、逆算の寂しさなんて
30代って20代の経験をへて良くも悪くも物分かりが良くなり、“都合のいい女”としての需要が一定ある気がしてる。それを会社の先輩に話したら、「それも40手前で終わるよ」とのことで、人生にはまだ見ぬフェーズがあるらしい。
離婚して5年。「もう一度結婚したいと思う?」とたまに聞かれるけど、これに関してはもう「その日によるなぁ」としか言いようがなく、もうちょっと気の利いた返しができないのかよ、と思う。
ひとり最高〜!っていう日もあれば、誰か隣にいればなぁと思う日もある。問題なのはひとり最高〜!の勢力が年々強まっていること。誰か隣にいればなぁの勢力、もっとがんばれ。
ちなみに、誰か隣にいればなぁ思うのは、家にピザのチラシが入っている時や、なんとなく恋人やファミリーで過ごす雰囲気が未だにある(?)クリスマスと正月。これもシーズンを過ぎれば忘れてしまい、アヒルすぎるのですが…。
興味深いのは、そんなことを言いながら、ちゃっかりマッチングアプリなんかはやってたりするところ。わたしはパートナーが欲しいのか……?もはやわからない。
アプリをやっていて思うのは、これってほぼ転職エージェントじゃない?ということ。“今すぐの転職を考えていなくても、自分の市場価値を知るきっかけになりますよ!”というそれ。
どういう人とマッチするかしないかを知って満足の節がわたしには少なからずある。もちろんいい人に出会えたらいいなって気持ちもあって、どっちも嘘じゃないんだけど。
ただ、こんな俯瞰した使い方をしてたら上手くいくもんもいかない。それは本人が一番よくわかってる。”わかってる”と”やれる”の間にある壁の高さったらないよ。
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未練はないけど、たっぷりの後悔を抱えて
何年か前に書いた離婚エントリ(そんなカテゴリがあるのかはわかりません)が今もぽつぽつ読まれており、通知が届くたびわたしは、あの頃の未熟さを思い出し胸がきゅっとなる。
物事を前に進ませるのは、正しさや冷静さじゃない。エゴだったり傲慢だったり、ある種の不純さが必要。最近よくそう思う。
あの日の結婚も、きっと愛だけでは停滞してた。決して肯定するつもりはないけど、彼の覚悟を求めた私のエゴが少なからずあったから。
という彼の別れ際セリフは、その時も今も、きっとこれからもわたしの支え。
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30代で独り身だと「今はそれでも楽しいかもしれないなど、老後が寂しい気がする説」も浮上してきて、これに関してはわかりすぎて首がもげそうです。でも、だけど。「寂しさのためのパートナーなんていらない」どうしたって今の私はそう思ってしまう。
甘いかもしれないけど、未来から逆算する想像力より、後悔しないように選択する慎重さより、今心が動くことに身をゆだねる素直さと自由さで、もうちょっとだけやっていきたい。
やっぱり違ったな失敗だったなって、たとえ後悔したとしても、「あのときの自分には、この道だったんだよね」って、そう思えたらはなまるだ。
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