日常【小説】
ずっと脳の中が揺さぶられているかのような錯覚を覚えたのは久しぶりのことで、上体を起こすと私は半裸だった。隣で背を向けて肩甲骨を剥き出しにした体格の良い男とどんな寝方をしたか覚えていない。そう、やらかしてしまったのだ。またお酒で。あれよあれよと注がれるままに飲んでいたら焼酎だの梅酒だのワインだのウイスキーだのお馴染みカクテルだのごちゃ混ぜにそれはもうパーティのように飲まされて意識がふらりとしていた所に肩を貸してくれた青年。それは覚えている。しかし顔などよく覚えておらず、視界の中でまるで霧がかかったかのように顔の部分だけマーカーでグチャグチャと線が引かれて思い出せない。私はその顔なしを、起こすまいと痛む頭を抑えながら布団をやんわり押しのけ冷たいフローリングに足の指先を下ろした。念の為後ろを振り返り起きていないかを確認した。微動だにしていなかった。
何故か知らない部屋のはずなのにトイレの場所を当てた私はドアノブを雑に下ろすとトイレに一旦閉じこもる。そして頭を抱える。まったく、どうしたらいい。またやってしまった。酒に溺れて欲に溺れて見知らぬ男と……なんてのは割と頻繁にあることだった。ため息を吐きながら男を起こさぬようにゆっくりとトイレペッパーのシングルを引っ張る。別に用を足したかったわけではないので、それを水に流して終わり。ふと顔を上げると今どき珍しく扉の内側にカレンダーが貼ってあった。見ると女の影がわかりやすい、いかにもファンシーで、けれどチープで百円均一でも購入出来そうな壁掛け型のカレンダーがあった。今日は何日だ、クソ、スマホをベッドかカバンに置いてきたかも。記憶を辿ると確か20日前後……23日だ。指で数字と空白をなぞる。私が今日が23日であるということに気づけたのは、そもそも呑気に寝てられるのが金曜日か土曜日しかないことと、23日に赤丸がしてあったからだ。ああ、そういえば今日23じゃん。カレンダーは基本的に空白だったけれど、7日にも赤丸がされていた。なにか大切な日なのだろうか。その時頭をズキンと雷が走ったかのような痛みが襲い、私は小さく唸った。ほんとうにやってしまった。仕方なくジャージのゴムを引っ張ると、私は下着を履いてトイレの扉をゆっくりと後ろ手に閉めながら廊下に出た。
玄関を見ると並べられた靴は三足。オフィス用のヒール、動きやすい真っ黒なスニーカー、先の尖った白い靴。うち二足は男物だった。明らかに私の足のサイズに合わない。人の靴棚を見る気には当然なるわけがなく、廊下から磨りガラス付きのワンルームの部屋へ続く扉を開くと男はまだ寝ていた。寝袋のように膨らんだ布団の一部が、昨日の過ちを夢でないと言い張る。頭痛薬を探して戸棚を漁り、一気に二錠を飲み干した。グラスは適当なものを使う。窓の外はまだほの明るい。時計に目をやると4時だった。夏はこの時間でももう日が昇りかけていることが大半で、私は慌てて上半身裸な状態を抜け出すべく脱いだ衣類を着た。しっとりとそれは濡れていて、悩んだ挙句、ハンガーにかかっていた薄手の真っ黒なパーカーを手に取り、羽織った。ジッパーを限界まで上げて締める。そして私はこの状況から抜け出すべく、準備を始めるのであった。
さあ、どうしようか。床に散乱していたビニール袋を手に取ると、要らないものをとりあえずその中に突っ込んでいった。男はその間も微動だにしない。それが唯一の救いだった。頭痛が走る。汗が滲む。
そして全て終わりうんと伸びをすると、夜が完全に明けてしまう前に私はベッドで眠る男に小さく別れを告げようと縁に乗り上げた。シングルの狭いベッドが軋む。男の肩を引く。心臓が大きく鳴る。鼓動が早くなる。汗ばんだ額や目元を拭うことすらやめて、男を仰向けにした。ああ、やっぱり。やってしまったのか。私は露ほどの期待が裏切られたことに対し内心溜息を吐き、そして同時に高揚感に飲まれた。男を食べたのだ、今日も。鬱血した箇所以外は白くなった男のひんやりした腕や肺の辺りを触り、それから脇の下に手を入れて持ち上げると、浴槽へ運んだ。単純、短絡的?、計画的?、欲望。それが欲望であるのは確かだった。浴槽になんとか突っ込むと、それから私はビニールシートを全面に貼り、いつもの日常に戻る。月に二日だけの暇なOLの楽しみに付き合ってくれてありがとう。そう死体に告げてから、慣れた手つきで解体を始めた。
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