映画「ジョーカー」を見た
ジョーカーは多くの人からの承認が欲しかったのではないか、またその目的はラストにて果たされたのではないかと考えた。
※映画ジョーカーのネタバレ、独自の考察と感想文
ジョーカーを見た。率直な感想は、「哀しい」「可哀想」だということ。見た後の、後味は悪くなかった。でも人によっては、後味が悪かったりそもそもジョーカーのとった行動について、納得がいかないかもしれない。でも私は、ジョーカーに少なからず同情や共感を覚えた。ただ不思議なのが、ジョーカーのことを嫌いでも好きでもないということ。自分が確実に共感して、確実にやりたいことを成し遂げてくれる主人公なら、見ていて「好き」って感情が芽生えるはず。でもそれは特になかった。憧れとかもない。ただ、自分がやりたいということを自由にやっていいんじゃないか、と発起させられる気持ちは残った。
私は、生まれも育ちも粗悪な、悪者に弱い。共感と同情を覚えてしまうから。私の家庭も、普通ではなかった。私は昔からそれが普通だと認識していたけれど、友達の家庭を見るたびに、自分の家はあらゆる面で普通ではないのだと悟った。また、20歳になったときに母が全てを話す、と私に話した、私の過去及び家族の在り方、母と私が過ごしてきた時間は歪なところがかなり多かった。実際、今わたしはうつ病(おそらく)を発症して、社会に溶け込めず馴染めずいつも浮いているような感覚を覚える。普通のことが普通にできない。そして、衝動的に、死んでしまいたいと思ったり、あるいは、ゆったりと、眠りについて目が覚めなければいいのに、と、思うこともある。今のところ憎むべき人はいない。特定の誰かを殺したいという願望はない。それに、通り魔のように誰でもいいから殺してみたいという気持ちもない。何故なら、その殺した見ず知らずの他人が、私のような苦悩を持って生きている存在かもしれないし、幸せな生活を送っていたり、やっと崩壊していた家庭を立て直したばかりの、明るい未来がある人かもしれないからだ。誰の命にも、その命を尊ぶ人がいる。誰にも望まれてない命だったとしても、その人はまだ死ねないまま生きている。彷徨っている。その邪魔はしたくない。悩んだ末に、または年月と共に、明るい未来を目指せるかもしれないからだ。
ジョーカーの家庭は、母と二人で、貧しかった。ジョーカーはずっと、コメディアンになりたかった。その理由は、あるコメディアンの番組に視聴者として閲覧しにいった時に、コメディアンへの愛を叫んだところ、気に入られ、その場にいた視聴者から認められ、笑ってもらえたから。そして、そのコメディアンに抱きしめられ愛情を感じたからである。
ジョーカーはピエロの仕事をしながらも、コメディアンを目指している。
だけど私は、ただ自分に愛情を与えてくれた人がコメディアンだったから、多くの人に認めてもらえた場がテレビだったから、彼はそこに執着し、コメディアンになりたいと履き違えたのだと思う。本来の望みは、多くの人から容認されることと、愛情を与えられることだ。特に、人から認められたいと思う気持ちは強かったに違いない。何故ならジョーカーは、ピエロの仕事をしている間も、プライベートでも、人から無遠慮に、理不尽に殴られたり蹴られたり虐げられていたからだ。それに世の情勢も決して良くはなかった。
ジョーカーが快楽殺人者でないことははっきりとわかる。それは、罪のない子供を殺していないこと。自分に優しくしてくれた同僚を、殺さずに生かしたところにある。でも、自分が心の病を背負い、特に、脳の損傷で障害ーーー人前で笑いを堪えきれず、一度笑い出すとどんな場面においても笑いを止めることができない障害、の原因となっていた母は殺した。(物語終盤でわかることだが、母は精神疾患を患っており、ジョーカーに幼い頃虐待を加え、結果、脳の損傷が起こっていた。しかし母は妄想性の疾患を抱えているので、ジョーカーの障害の理由を自分だとは思っていない、心底から)
ジョーカーには理性がある。
何故なら、かつて母を捨てた、と、母からの言葉で知り、父親を特定し、父親に会いにいった際、彼は父親を殺していない。普通ならそのまま殺してもいいはず。けれど彼は理由を聞いた。問いただした。殺しはしなかった。その時既に何人かの命を奪っているはずだし、憎むべき相手なのに、どこかに疑問があった。ジョーカーは真実を知りたかった。
母が入院していたという精神病院へ向かい、母のカルテを読むと、父が言っていた「ジョーカーは父の実の息子ではなく養子であること」「母は妄想性の疾患にかかっており、ジョーカーを虐待していたこと」「子供を虐待するイカれた女だったから精神病院へ入院させたこと」が判明する。直後、彼は、今まで母親に自分は騙され、そして元々理不尽に暴力を受けたり、仕事を辞めざるを得なくなった理由は母が自分の脳を損傷させたせいだと、気づいてしまった。のちにすぐ、入院している母のもとへ向かうと、その母を窒息死させ殺している。非常に筋が通っているなと思う。自分が苦労する羽目になった原因の母を、苦しめて殺す。そして父は殺さなかった。父に非はなく、悪いのは母だったから。
ジョーカーは夢のチャンスを掴む。テレビをふと見ると、自分が過去に視聴者から認められ、憧れのコメディアンに抱きしめられている映像が流され、なんと、そのコメディアンが自分の番組にジョーカーを招待すると言ったのだ。彼は藁をも掴む思いで、自分が幸せにたどり着けると信じて、コメディアンのもとへ向かう。しかし番組に出演しジョークを言ってみると、途中でコメディアンが水を刺して、笑いを取る。コメディアンがしたかったのは、ジョーカーをコメディアンにして世間に広めることではなく、笑い者にして、自分が笑いを取り、また自身がコメディアンとしての才があることを見せつけるためだったのだ。その思惑通り、観客はコメディアンの言葉ののち、笑う。ジョーカーは、自分のことを愛してくれた、認めてくれていた存在は、自分をただ利用できる価値があるから利用しただけで、愛情も、承認も、そこにはなかったのだと気づく。
そこから、ジョーカーは身の上話を始める。
コメディアンは、その話はこの番組にそぐわないと言う。
ジョーカーはそれでも話し続ける。
そして全て話し終えたあとに、コメディアンを問いただす。
「アンタは俺を馬鹿にして、笑い物にしたかっただけだ!」
つまり、自分に理不尽を働き暴力で痛めつけた他人とこのコメディアン、何が違うのだろう。一緒じゃないかと。
そしてジョーカーはテレビの生放送が続く中、躊躇わずにコメディアンを殺す。かつて敬愛し、憧れを覚え、自分に唯一愛情を与えてくれていた存在が、実際にはそうでなく、自分を裏切っていたのだから、当たり前だ。
その様子がテレビで放映されたことで、傾いていた情勢は、もはや混乱に包まれる。
ジョーカーはピエロの格好をして出演した。
情勢、多くの人たちは貧困に飢えていた。
ジョーカーの身の上話を聞き、共感した彼らはデモでは収まり切らず、街を炎で包んだ。人をたくさん殺した。無差別に殺した。
そして、ジョーカーを称賛すると、彼を主役のように車の上に立たせ、皆で歓迎した。
ジョーカーが欲しかった「みなからの承認」はそのとき、満たされた。
だからジョーカーは幸せだったと思う。
彼に共感し、街に火をつけ、人殺しをしたものたちも、幸せだったと思う。
しかし残念なのが、皮肉にも、ジョーカーの父(正常であり、むしろジョーカーを痛めつけていた母を入院させジョーカーを救った)は、ジョーカーに共感した彼らによって、無差別に殺されてしまう。子供だけを残して。父と母は死んだ。ジョーカーの夢は叶ったけれど、その一方で、罪のない人が死んだのだ。
物語はそれで終わる。
ジョーカーは結果的に夢を果たした。そして、その直前に交通事故に遭っており、町も大火災に包まれているので、彼は助からないのではないか。でも彼の目に映っていたのは、記憶の最後は、自分を認めてくれる人たちの姿だった。愛情を与えられることはなかったが、彼は満たされていたと思う。
夢は叶ったのだから。
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