【小説】同じ言葉を繰り返した
※BLオリジナル小説
「隅っこに置くなよ」
峻はそう言って、僕がテーブルの端に置いていた左腕のすぐ隣のグラスを指した。指差すのみで、彼はお節介を極めている人間ではない。だからグラスに手をかけることはしなかった。僕はそれを、ああこんな光景前にもあった気がする、と思いながらグラスを中央に引き寄せた。半分ほど入った水が揺れ、水面が曖昧になる。その光景は何でもない。氷を入れていないグラスは音を立てることなく、僕と峻のちょうど真ん中に置かれた。
「それで、話ってなんだよ」
僕は口を開きかけた。そして、閉じた。昔からコンプレックスだった分厚い唇が奇妙な形をしていないか心配になって、口元に手を添える。昔から、「何笑ってるんだ」と揶揄されることが多かったのだ。大学に入ってからはそんな幼稚なふうに容姿を馬鹿にする人間は居なくなったが。
「……水琴?」
僕の名前。峻に名前を呼ばれると、肩が無意識のうちに跳ねる。
「ああ、えっ、あ、いや、その……」
口ごもりながら視線を逸した先には、カトラリーが並んでいる。ナイフ、フォーク、スプーン。箸はない。峻はきっと、胸の内でまだ海の先に焦がれている。だから僕は言わなくてはいけないのだ。
「……あのさ、黙ってるだけじゃわかんねーけど」
オイルを使った酸っぱいドレッシングをぶちまけた、紫キャベツや玉ねぎが乱雑に切られたサラダを峻はフォークで刺してから苛々としたように口に運んだ。僕はその一瞬にしか彼の顔に目をくれることが出来ず、峻がそのサラダを味わったのか、どんな感想を抱いたのかは知り得ない。これってよく、日本にあるイタリアン料理の店で出る味だ。僕はサラダには手を付けずに、メインの肉をナイフで一口分切り分けて、フォークで運んだ。
「いや……おい、食べんのかよ」
眉間にしわを寄せた峻が呟く。
改めて部屋を見渡してみると、壁はスカイブルーとクリームホワイトが国旗のように横線で半々の色、ソファはこげ茶の革、スリッパは存在しない、部屋は土足可。むしろ、峻は靴を脱ごうとする来客を見ると慌てて止めに入る。「うちはそのまま、どうぞ」とか言って、たびたび来客に困った顔をさせた。不思議そうなその視線は次いで峻の奥にいる僕に向けられ、「弟さん?」と聞かれるのが定石だった。その時、峻はなんて答えていたっけ。
「峻、行っておいでよ。僕はこの部屋を出ていくつもりだ。もう見当もつけている。6畳のワンルーム、ここから引っ越すとすごく狭く感じるかもしれないけど、僕、ある程度狭いほうが安心するんだ。実家の飼い猫もそうだった。よくキッチンのシンクと冷蔵庫の間に埋まっていたよ。きっとあそこは冷凍庫の風が漏れて冷たいのにね。どうして好きだったんだろう。」
一息で喋って、それから口を閉ざす前に中央のグラスを引き寄せて喉に水を押し込んだ。何の特別な味もしない、僕みたいな、普通で、平凡で、ありきたりな味。本来なら誰の目にも留まらず、教室の隅で居眠りのフリをすることで休憩時間を過ごしていた僕に話しかけてきた、ひとつ前の席のキミ。峻。
「……もう決めたことだから」
峻の顔を目をようく開いて見通すと、絶句していた。口をあんぐりと開き、それから僕の視線を受けているとわかるとふいと逸らす。恥ずかしそうに、己の失態を隠すように。
峻はいつだってそうだ。僕の前でも、みんなの前でもカッコつけ。だから、腕に頭を乗せて居眠りしていた僕に声をかけたのも、最初は人気者の自分が根暗の僕に声をかけることで、周囲の人間に、そんな隅っこの人間にも声をかけるなんて優しいなあ、と言われるのを期待してに違いない。もう5年一緒にいるのだ。峻の性格は知り尽くした。
だけど僕は思うのだ。峻の後ろの席で良かったと。僕の名前が高峰水琴で、峻の名前が高橋峻で良かったと。
手に持ったグラスを注意されたばかりだから中央に戻そうとすると、ぐっと手首を掴まれた。力強く、圧を感じる。
「………」
峻は泣いていた。
目頭からぽろぽろとつゆのような淡い涙を、綺麗な涙を流していた。僕には想像もつかなかった。5年も一緒に居て、2年半は同棲までした仲なのに。まさか泣くなんて。峻の涙は、見たことがない気が、いや一度だけ見た気がする。
「行かないよ、俺。だって水琴と離れたくないから」
峻は魔法使いのようだと思う。たったその一言が、僕にそれ以上の反論をさせなかった。それだけで、充分だった。そうして、ぐちゃぐちゃな顔をして食事を置いてけぼりにして、抱き合った。峻は泣いても綺麗だった。僕はというと、分厚い唇から激しい嗚咽を上げていた。
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