見出し画像

【小説】 fleur


※注意

多方面への偏見、地雷が無い方の閲覧推奨


目を閉じているからと言って、目が充分に休めているとは限らない。ビタミン剤の入った目薬を目に向かって真上からひとつ、ふたつ、落としながら、ふと、そんなことが過った。寝ているからといって、良質な睡眠が取れているとは限らない。悪夢に魘されれば寝起きは酷い気分だし、そもそも夢を見ている時点で浅い眠りなのだから、良質とは言えない。硬くなった瞼に触れることすら怖かったが、そっと薬指で撫でてみた。薬指は、人の五指のうち最も力の入りにくい指と知っている。継接ぎの痕があった。抜糸のされていない片目を一撫ですると、そこにその人の存在を感じた。すぐ横に鏡があるが、見たくない。振り返り、寝室に戻るとその人はまだ眠っているようだった。起こさないように軽く布団を持ち上げ、裸足を入れた。腕をこちらへ広げ、枕にしていたようだ。その枕の上に不器用に、わざと帳尻を合わせるように頭を乗せると、目を閉じる気分にならずに、その人を見た。眠っている。目を閉じている、安らかな顔だ。心にヘドロが溜まる。沈殿した毒はどこへ行ってしまったのだろうか。食事をした時のように排泄されるか、居場所が分かればいいのに、と思った。その気を奮うことすら面倒で、仕方なく目を閉じた。

目が覚めたのは、午後(おそらく)だった。その人はもう居なかった。扉は閉められている。壁際に寄って、壁に耳を当てると僅かだが隣の部屋の音が聞こえる。フライパンで何かを焦がしている音がする。料理でもしているのだろう。それならば、こちらから出向こう。端切れのような布を纏い、寝室を出た。途中這いずるような足が布に引っかかり躓きそうになり、膝を叩いた。

キッチンへ行くと、その人はいた。

「おはよう。随分長いこと寝ていたね。もうお昼の12時だ。簡単なものだけど朝を作ったから、一緒に食べよう」

その人が発した言葉に対して、首を縦に振る。カウンターのような形状のキッチンからよく見える、ダイニングの椅子へ腰を下ろした。布切れが痩せ細った肩から落ちかけ、それをゆっくりと首元へ引き寄せた。

「お待たせ。さあ、朝ごはんだ。目覚めたのは昼だけど、目が覚めて初めて食べるご飯は朝ごはんで間違いないよね」

首を縦に振る。

まず、用意された水を飲んだ。カルキの味がした。水道水だ。次に、気が進まないことを悟られないように柔和な手つきで、出来るだけ自然にナイフとフォークを取る。正面でそのひとも朝食を食べているが、目を見ることが出来ない。

「フルー、僕を見て。大丈夫だよ。何も怖くない。せっかくの朝が台無しになる前に、僕を見て、僕を」

俯いたままだ。

「フルー、今日は機嫌が悪いのか? 一昨日はすまなかったと思ってるよ。だけど、あれは君にも非があった。それに、お互いを認め合い仲直りしたじゃないか。だからこうして、同じ部屋で朝食を食べているんだ。だから昨日、同じベッドで愛を誓い合って寝たんだ」

そのひとの声が怒気を含み、震えてすらいるのを感じた。慌てて、ようやく言葉を発した。

「ぼくは、フルーじゃない」

そんなことが言いたかったわけではないのに、いつもかんがえていること、胸のわだかまりの部分を口にしてしまった。目を合わせられない。

「お前は、フルーだよ。お前は可愛いフルーだ。わかった。朝食は切り上げよう。また戻ろう、あそこへ」

あそこ、と聞いて目がとうとう、光を拒み、暗闇に包まれた。頷くことも、否定することも出来ない。手を引かれ、引き摺られるようにしながら地下を降りた。早足だった。

湿っぽい地下の壁にもたれると、苔が生えている。緑で臭い不衛生な苔だ。布切れを充分に包まるように体を包んでから、いつもの椅子に座った。仕方がない。一度決めたらそのひとは決して曲げないのだ。

腕をリラックスさせるように腕掛けに下ろし、前を向いた。そのひとは、相変わらず苛々としたように部屋を忙しなく回った。一周、二周と来たところで、思いついたようにこちらを見た。

「そうだ。まずせっかくの朝食を君が台無しにしたことについて、謝罪を求めよう」

「何も言わないつもりだな。よし、わかった。じゃあ、午後に起床したことを責めよう。さて、反論は?」

「何も言わないか。謝る気がないのか。君は、罪を犯しているのに!」

大きな音を立てて、木製の机が蹴られる。机は真横に跳ぶようにして転がり、再び静寂が訪れた。怒気を隠せないのか、乱れたそのひとの息遣いが聞こえる。

「………ああ、愛してるよ。愛してるよ、フルー。僕のフルー。僕が悪かったのか、僕が悪いのか。僕が君を寂しくさせたのか」

そのひとは膝の上で涙を流した。縋りつかれたせいで布が肩をずり落ちたが、最早直すこともしなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………」

膝に顔を埋めているので表情は見えず、そのひとのワックスで整えられた茶の毛が見えている。そこに手を伸ばし、頭を撫でた。ゆっくりと、ゆっくりと。落ち着かせるように。

「ああ…………慰めてくれてるんだね、フルー。フルー、………君はこんなに良い子なのに、僕はどうして…僕はどうして…」

「でも、僕は悪くない」

そのひとは、涙を拭うと真正面から見下ろすようにこちらを見た。その目は、邪険に、恨めしそうに、悔しそうに、冷たく、こちらを見ていた。何度もこれを迎えているから慣れている。片目を瞑ると、継接ぎの糸を撫でた。抜糸をしないと、したとしても、蘇らない右目。くるぶしの折れた左足。喋ることを諦めた口。乾き切った舌。よく抜け落ちる髪。裸足。身に纏う布の端くれ。

何もかもを諦め、受け入れた。
罪はなくても、罪人だと思う人がいる限り、罪人に代わりは居ない。

「フルーだけだ………フルーだけなんだよ……」

「フルーなんだ、フルーのせいだ、でもフルーが必要なんだ、フルーが欲しいんだ、フルーになりたいんだ、フルーを助けたいんだ、手を差し伸べたい、手を差し伸べる存在になって、僕が、僕が…………」

息を呑む音がした。

「僕が…………フルーの、可愛いフルーの、ただひとりの家族だ。……兄だ」

忘れかけた母と父の顔が、水彩画のようにぼやりと浮かんで、消えた。

「フルー、仲直りだ。仲直り………指切りを。」

小指を差し出し合い、指切りをした。


ぼくはフルーではない。君の弟だよ、兄さん。
もう二度と呼べなくなった兄への敬称と、二度と呼ばれなくなったぼくの名前を頭の片隅にあるゴミ箱に放り、ぼくたちは、今日も、体を重ねた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?