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金木犀の通学路

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わたしはのん気にのんびりとその家での暮らしを続けた。意地悪されるわけでも食事を制限されるわけでもなく、自由にお風呂に入ったり、欲しいものも買ってもらえた。組長の息子である絆(いかにも、って名前)とは、暇な時に一緒に散歩したり、おしゃべりしたりで、普通の若者同士みたいな交流をしていた。抱かれることにも慣れた。特に苦痛ではなかった。ただ私を抱いて、性欲以外の何が満たされるのだろうかと不思議には思ったけど。
でも絆を恋とか愛とかで想う気持ちは育たなかった。友達に似た感情は少しあったけど、いくら抱かれても私にはやはり愛とか恋とか誰かを求めるとか大事に思う感情は解らないのだった。
逆に絆はある程度本気で私を好きになっていってくれていると感じた。最初は面白半分の所有物的な興味かもしれなかったが、段々と男の部分を見せるようになって、私に対してイラついたり愛おしそうに見たり、変化していった。私はそれを終わりの予告に捉えた。人はずっと同じ気持ちで同じように感じて生きていけない。求めるものも変化していく。それは終わりを意味していた。
 私はその家での大半を、やはり本を読むことに費やしていた。読みたい本は、その家の下っ端の人が買ってきてくれたり、絆と無意味に運転手付きの高級車で本屋に行って買ってもらえたので本に不自由することはなかった。絆も少しだけ読むようになり、読んだ本について語ったりできた。変だけど平和だった。そこだけ切り取れば。
そういえば最初に感じた違和感、洋風なのに畳であったりシャンデリアなのに和風のインテリアだったりした理由はすぐにわかった。ちょっとしたカラクリで、壁の操作をするだけで賭博場になるように出来ていただけのことだった。普段は隠すためにあの違和感が出ていたのだ。賭博が開かれているときたまに見に行くこともあった。特に怒られたりしなかった。サイコロや花札や麻雀や、お金も動くけど、それ以外の意味も含まれている時があるのが薄々理解できた。いずれ絆もあんなものの中心になったりするのだろうか。今は似合わないような気がするけど、将来が決まった家に生まれるってとこは私と似ているのかもしれない。
絆の家の庭には金木星の木が植えられていた。大きい庭で、池もあって、いろんな高級そうな木が植えられていて、手入れもされていた。私は金木星の木の下で本を読むのがお気に入りだった。金木星の花の匂いが狂うほど好きだったからだ。世の中の匂いの中で、少なくとも16年の人生の中では金木星の花の匂いが一番好きでたまらなかった。
 幼い頃、ばあちゃんの家で暮らしていた時がある。私はいろんな人に転々とあずけられ、ばあちゃんにあずけられることも多かった。そしてばあちゃんの家から小学校に少しだけ通った。学校にちゃんと毎日通ったのは、そのばあちゃんに預けられている時だけだった気がする。そしてその通学路の途中に、金木星の木があった。私はいつも花びらを小さな手のひらいっぱいに積み、持って帰った。この素敵な匂いをばあちゃにも届けたかったからだ。じいちゃんとばあちゃんが大好きだったから、素敵なものを届けたかった。大事にお世話してくれてありがとう、と思っていた。家に帰る頃には手の温度と握りしめる強さで、花びらの様子はだいぶかわっていたけど、少しの匂いは届けられると思っていた。残念なことにばあちゃんの反応は記憶にない。でも金木星の花の匂いを超えるものはこの先ないだろうくらいの自信はあった。そして大人になったいまでも好きだ。

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