夕泣き
2
地元の知り合い、つまり仲良くはないのに同級生というのだけの女の子から連絡が来たのは昨日だった。
「ハルちゃん、学校も行ってないし、暇でしょ。私がバイトしてる店の女の子が足りないから明日とりあえず来て」とその子、アミは言った。
私が断ることは前提に入ってない話し方だったが、それは当たっていた。私は毎日ただ生きているという以外何もしていなかったし、お金も友達も少なかったからだ。
でも自分に足りないこと知らないことのすべては経験してみたい、知ってみたいというスタンスでいた私はすぐに了解の返事をした。
自転車で、教えられた店がある繁華街に向かいながら、私はやっぱりどこか無感情だった。
化粧の仕方もわからない、そういう店で着るような服も持っていない、お酒の作り方も詳しくは知らないっていうのに、なぜ私は普通に飛び込んで行こうと思えるのだろう。
ここだろうと見当をつけた店のドアに「リニューアルオープン」と今日の日付が書いてあるポスターが貼ってあった。リニューアルオープンがいまいちどんな意味を持つのかわからなかったが、そのために私が呼ばれたであろうことと、それは忙しいってことなんだろうと思った。
とりあえず「こんばんは」と私はドアを開けてみた。中にいた男女が一斉に私を見たので私は何も言えず佇んでいると、その中にアミがいたらしく、すぐに私のところに来て「こっち来て」と小さいトイレに連れていかれた。
アミは私の全身を黙って観察した後、入口のクローゼットらしき扉を開けて何かを探そうとした。
そこにわたしたちより年上の女の人がやってきて、私を一瞥し、アミと話しながら一着のワンピースを取り出した。それはショッキングピンクの、ド派手なボディコン服のように私には見えた。その時代錯誤の趣味の悪い服に、嫌な予感がしたが、残念なことに当たり前に私に手渡されてしまった。
「これに着替えて・・・それから」とその年上の女の人は自分の小さいポーチから口紅を出して私に握らせた。
「今日はせいぜいそれくらいしかできないね。時間もないし」と言って、ドアを目の前でガタンと閉めた。
狭いトイレに閉じ込められた私は仕方なく、来ていた服を脱いでそのショッキングピンクのワンピを来てみる。鏡を見ても、どうしても変にしか見えない。口紅も塗ってみたが、本当の塗り方なんて知るわけもなく、色は濃いピンクだった。まるで自分の意思は、趣味は、気持ちは無視だ。でもこれが何かの始まりに過ぎないと思うと、拒絶する気は抑えられた。
トイレから出るとアミに連れられて今度はカウンターの裏のドアの向こうに連れていかれた。
「ママ、昨日言ってた私の友達です」
アミが後ろを向いてお菓子を皿に盛りつけている年配の女の人に私を紹介した。そうか、こういうところにはママがいて、一番偉いのだ。
ママは研ナオコに似ていた。ベリーショートで細くて、ギラギラしたドレスを着ている。歌はうまいのだろうか。
頭を下げて挨拶する私に、ママは「名前、何にする?」と聞いた。
私が返事に困ってオドオドしていると、ママは、隣の猫の額ほどのキッチンスペースで何やら火を使っている女の子を振り向いた。
「弥生、この子に源氏名を付けてあげて」
そういうとママはお菓子の皿を持って裏を出て行ってしまった。
その狭くて裏と呼ばれる空間は、簡単な調理をしたり、洗い物したり、女の子が煙草を吸うところとして機能している場所のようだ。
アミもママに付いて出て行ってしまったので、私は弥生さんと二人になる。
弥生さんは煙草に火をつけながら私の顔を、体を、ゆっくり見た。
「ゆりは?」
「ゆり、ですか?」
「うん、色が白いから」
断る理由も思い浮かばず、私はそのときから「ゆり」になった。
こうして、私の水商売人生の始まりは、ショッキングピンクのワンピースと口紅だけの化粧と、ゆりという名前で始まった。歳は如何にもって感じで18歳を名乗った。
弥生さんはちゃんと20歳で、大人で、私よりずっと世間を知った大人の女の人だった。それに、私に名前をくれた。嘘でも、ここにいる間の私は本来の私ではく、ゆりという違う女の子でいられる。そう思うと何となく未来が明るいものに感じてきた。
弥生さん、弥生さん、と私は勝手に弥生さんの後を追い、慕った。弥生さんは言葉では言わなかったけど、そんな私を疎く思ったりせずに、どこにでも一緒に連れて行ってくれた。ナイトと呼ぶホストまがいの店などを教えてくれたのも弥生さんだ。私は弥生さんの本名がゆかりと知って、大人になるまで忘れなかった。
弥生さんがいなくなったのは、私が店に入ってまだ一か月くらいの時だったと思う。
何も聞かされず、連絡先も知らなかったので私は急な消失に愕然とした。
ゆかりさんを知る人に行先を聞いたが、みんな曖昧に教えてくれなかった。
私はなぜか捨てられた小さな子供のような気持ちになった。
数か月後、弥生さんは店に戻ってきた。風俗に出稼ぎに行ってたの、と歯茎が目立つ笑顔で教えてくれた。ブラジャーから札束を覗かせ、私に見せてくれた。
そんなことより私は。「弥生さーん」とすがって泣きそうに嬉しかった。誰か甘えられる人が、指針となる人がいないと、私は不安で飛ばされそうになってしまう。どんなに弱くても、男にだらしなくても、私は私に名前をくれた弥生さんを支えに、当分はこの夜の繁華街を生きることしかできないと思った。
私はグングンと成長した。年よりずっと幼く見えてしまう私は、大人ぶりたいこの年でさえ、小学生にすら見えてしまうことが度々あった。とにかくあどけなさが抜けない容姿。妹さえ羨ましく思えるほどのロリータルックス。
初体験の男の子は同い年の同級生だったけれど、私の幼い外見をことごとくバカにした。成熟した女がどれほど魅力的かを屈辱的に自慢された。この経験はある程度の年齢になっても私の心に影を残してくれた。
私はとにかく、まずは年相応に、そして成熟した女の人に見えるように努力を重ねた。
ヘアスタイル、化粧、知識、話し方、態度、服装。弥生さんにはもちろん、意地悪な店の女の子たちにも頭を下げて教えてもらった。ぷっくりした子供特有の頬のラインはどうしようもなかったけど、とにかく子供だとバカにされないような、「女」になりたかった。
仕事も、この世界を生きていくのも、子供じゃダメなのだ。
大人の女、尚且つ魅力的な。つまり、モテない女じゃないと生きて行けなのだと私は悟っていた。この年で、そう確信させるだけのひどい出来事だけは年齢以上に経験させられていたから、私はこの世界で自分を生かせるために、急激に女になっていくしかなかった。
数か月後、以前の私を知る人は私を見て驚くようになる。急に男の人が優しくなった。まだまだ間に合わせのはりぼてのようだと自分で分かっていたけど、それはそのうち段々と吸収して馴染んで行くものだと思って気にしないようにした。
そして相変わらず私は弥生さんにべったりだった。
今思えば弥生さんはロクなことを教えてくれていた。酒や荒んだ男関係や金遣いやだらしなさを。私はそれをとても優雅で甘くて底のような堕落だと感じて新鮮さに夢中で従った。
ナイトパブと呼ばれる男目当ての飲み屋で給料の大半を注ぎ込むことや、ばかばかしい理由で男と血を流す愛憎劇や、若さゆえに健康なんて少しも考えない生活、すべてが充実しているとしか思えなかった。この暗くて怖い闇の世界でイミテーションの輝きを、私は16歳で知った。