スンドゥブは咀嚼、消化、され体と融合する。
新年明けて、はじめて実家に戻った。お昼ご飯に、母親が作ったスンドゥブを食べた。この韓国料理は、どこの国の母親が作ったとしても、家庭の味になるだろう。そんな美味しさが舌にまだ残っている。その赤さが、その熱さがそう思わせるのだろうか。世界に春が来たら、下関からフェリーに乗って韓国に土鍋を買いに行きたい。
山口県にルーツがある新造家の家庭の味に「瓦そば」がある。これはパリパリに焼いた茶そばに、薄切りにした錦糸卵、甘辛く煮た牛薄切り肉を乗せ、刻み小ねぎ、のり、スライスしたレモン、もみじおろしをトッピングする。なんとも美しい風情がある。昔は熱した瓦の上で食べたりしたのだろうか。
Wikipediaで検索してみると、これは逸話を元に創作された料理だそうだ。
1877年(明治10年)の西南戦争の際に熊本城を囲む薩摩軍の兵士たちが、野戦の合間に瓦を使って野草、肉などを焼いて食べたという話に参考にして、1961年(昭和36年)に川棚温泉で旅館を営む高瀬慎一が宿泊者向けの料理として開発したとされる。
参照:Wikipedia「瓦そば」
食事の面白いところは、その食材がなにで、薬膳的にどんな効能があるのか。料理名がなに、その一皿の成り立ちにどんな歴史があるのか。それを知らずとも、食べれてしまうことだ。
私は食材を購入すること、鑑賞することが好きで、地方に行った時は現地の産直や道の駅に足を運ぶ。そして、見たこともない現地の食材や、その場で取れた彩り豊かな食材たちをみて「きゃ〜〜〜かわいいい〜〜〜〜やばたにえん〜〜〜〜」と、脳内に住む女子高生が騒ぎ立てる。
正直な話、東京で買った大根と、地方で買った大根の味の違いをそこまでわからない。とびっきりな何か以外は、大根だな、と思う。そもそも美味しいというのは、味覚的なオーガズムではなく、それをありがたがることが一番だと思う。食べさせていただくこと。
その土地で育ったものを食べることで、その土地と自分との間にある距離が少しだけ近くなる。無限に近く感じられるその余白に、食べることで、現地の土中、空気、水に含まれているであろう様々な要素が、染み渡ってくる。常在菌とか、その土地に多くあるなんらかの物質。大地のミネラルや栄養分を吸い、その土地の雨風を受け、その土地に降り注ぐ陽射しを浴び、その土地に暮らす人の手で育てられたものをいただく。遠くの土地からやってきた自分の体内に、その土地のものを迎え入れる。体の中では、何かが融合しているのだろう。
今日の自分を形作っているのは、今日までの日々に自分が吸収したものだ。この耳も、下も、うなじも、臀部も、脇腹も。内臓も、毛細血管も、膵臓も、耳小骨も、大腿二頭筋も。昨日までに食べたものが今日の自分を作り、三ヶ月前に食べたものが今日の自分の血肉骨となっている。
食べて、出す。その無限とも思われる繰り返しの中で、この体は維持されている。福岡伸一さんは、それを動的平衡と呼んだ。鴨長明は方丈記の中で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」と歌った。その無常の仕組みが私たちの体には備わっているというのは、いつ考えてもすごいことだ。
今日食べたものが明日の自分を少しだけ決め、三ヶ月後の自分を大きく決める。何を食べるかも、大事だが、どう食べるのかも大事だ。どんな気持ちで食べるか、誰と食べるか。そして、咀嚼すること。丸呑みをしてしまえば、ほとんど消化されずに排出される。しっかりと歯で噛み砕き、食道を通り、胃に落ちる。そこでドロドロになったものが小腸に向かい栄養を吸収され、大腸に向かい、排出される。消化しやすくし、体内に取り入れること。それは食べるだけの話じゃない。
何を体に取り入れて、どう咀嚼するのか。何も考えずに食べることもできる。食材について何も知らずに、その生産者や生産背景、料理をした人のことを知らなくても、食べることができる。何も知らなくても、胃の中に落ちてくる素材は一緒だろう。しかし、背景について知ると、咀嚼により時間がかかるのだと思う。味わうという行為は、知的欲求だ。対象物を、単なる物理的な集合体から、観念として扱う。体を使って、五感を使って、対象について知ろうとすること。それが咀嚼なんじゃないかと思う。