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『走れメロス』寺下雅二による一人芝居@犀の角 、感想走り書き

たった今、観劇したばかりの、ひとり芝居『走れメロス』の感想を走り書きしようと思います。

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「演劇する身体は、息を吐き出し、その表面にたくさんの熱と汗とを、蓄えていく。一人舞台という逃げ場のない中で、たった一人の俳優に集まる観客の視線。幾重にもメタ的な笑いの構造によって、うまくその視線をガス抜きしているようにも感じた。舞台は、劇場内だけでなく、文字どおり扉の開放によって、街にも飛び出す。上田の街を駆け抜ける寺下さん。それをビデオカメラの映像は、劇場内のモニターにつながっている。それを眺める観客。

劇の存在も、その設定も知らない街を歩く一般人は、古代の衣装で走り回るメロスに驚きや、笑いや、好奇の目を向ける。偶発的で制御下にない通りすがりの人々の反応に、劇場内にいる私たち観客は、笑い、驚き、心配する。そして、友の命を救うために疾駆するメロスを応援してしまう。(応援するという行為は、舞台の中に観客を没入させるのか。はたまた、眺める目であるという外部でしかないという立ち位置を改めて思い出す契機になるのか、それはまた謎である。私自身は、基本的にメタ的にしか舞台を見れないから、没入することができない)

メロスは扉を開けて、市外にでる。舞台が、街に拡張され、半裸に近い寺下さんはその背景を知らない外部の目に晒されてしまう。その瞬間、劇場内の観客はメロスの身内になってしまう。上演中、街中の事情を知らないが故の、普段通りに生活をしていた人の、視線や、行動半径の中に、突如メロスが出現してしまい、その絶妙なタイミングによって、観客内で笑いを起きるということがあった。

事情を知っている我々は、笑いながらも即座に、「寺下さん、変な人に思われないかな?」などと心配し、同時に演者でもある彼を即座に思い出し、応援をする。それが、劇場内という安全な位置で見ているだけの自分たちと、事情を知らない通りすがりの目に晒されるメロスとの対比になる。そのコントラストは、舞台を眺める目でしかなった観客を、身内に引き摺り込む。走る、メロス。筋トレをする、メロス。そのメロスを応援する行為は、一見好意的な仕草に見えるが、実は観客たちの知らず知らずの免罪符かもしれない。何も知らない通りすがりから笑われてしまうかもしれないメロス、その姿を安全な劇場から、好奇の目で、ただ”高み”の見物をしているだけの私たち。そういった、劇場内と劇場街の、幾重にも意味の異なる目線すら取り入れて、この一人芝居は成り立っている。

応援している。応援させられてしまっている。強制的なのか、自発的なのか、その境すら曖昧にする「応援」という構造。応援自体が、他者と自分との境界を曖昧にする行為である。様々なメタ的な構造と、それを促す仕掛けに気がついて、「上手だな」と今度は感心してしまう。笑ったり、ユーモアに溢れるたくさんの仕掛け・仕草を見せられた、非常に技巧的な時間だった。」

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この一時間近くに及ぶ一人芝居は、俳優寺下雅二さんによって行われた。彼、寺下さんとは去年の末、謎の仕事で上田に来た際にお会いした。お会いしたのは『走れメロス』が本日行われた「犀の角(さいのつの)」である。この「犀の角(さいのつの)」という文化施設は、一言ではいい荒らせない場所である。劇場という文化施設であり、宿という休息の場でもある。そして、シェルターやカフェなど、社会的なつながりを安全に育む社会的な箱でもある。不思議な箱だ。

そもそも上田市の数ある宿の中で、私がここを宿泊場所に選んだのは、劇場という側面を持つ宿が珍しいと思ったからだ。はじめて彼にあった夜、私たちは何時間も話をした。0時過ぎまで、時間を気にせず初対面の彼と話ができたのは、その場所が宿という役割を持っていることも機能した。いつでも眠りにつけるからこそ、もっと話をしていたい。もう少しだけ、眠ることを後回しにして、彼と話をしていたい。熱心に交わした言葉の数々は、残念ながらが一切合切忘れてしまった。が、彼の、その瞳を覚えていた。まっすぐこちらを見る瞳。俳優をやっている、と自己紹介をしてくれた彼が、どんな風に役を演じるのか。

今回の『走れメロス』は、彼、寺下さんが主役であり、彼以外の登場人物は登場しない。一人で何役もこなす。舞台が始まる前、舞台挨拶をした寺下さんは、舞台を暗転させることなく、メロスに役割を徐々に移行していく。移行の仕方もユニークで、声色や喋り方を変えるだけでなく、だんだんと白シャツにジャケットを羽織った姿から、一枚、また一枚と衣服を脱ぎ、メロスに移行していく。一時間の劇を終えた後、メロスはまた寺下さんにだんだんと戻り、舞台の締めの挨拶を行う。観客たちがアンケートを書いている間に、服を着替え、劇場の外で、観客たちと会話をする。一人舞台で疲れている彼を、御構い無しに、子供達は「遊んで、遊んで」とせがんでいる。この舞台は、ただの一人芝居ではなく、舞台中に彼は腕立てや、腹筋や、スクワットや、エキスパンダーを使った筋トレ、さらには上田の街を駆け巡る。声を張り上げるだけでも大変なのに、そういった肉体を酷使した後にでも、子供たちは、彼の腕にぶら下がろうとする。人の疲れを意に介さない、想像できない?と思われる、(おそらく)悪意のない子供のその仕草に、あたたかい不条理を感じた。

走れメロスのあらすじは、人を信じることができない暴君ディオネスが、誠実なメロスと、人質にされたセリヌンティウスとの友情に出会い、私もその仲間に入れてくれと懇願するという流れである。不条理にしか思えない暴君の心が、圧倒的な正義心によって正されたかのように見えるこの劇なのだが、一読者としての私は、そこには、無理矢理さや乖離を感じるのだが、そういったモヤモヤ。それを観劇後にたまたま発生した、子供の無垢で小さな暴力性や残虐性が、解消してくれた。


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