雑草に名前が与えられた日
原初、人々はあらゆるものに名前を付けていくことで、それらを精神的に支配下に置いた。また毒の有無、食の適不適など、その中において自分たちの生活環境の中でどのような役割を担っているかを、その名前の中に込めていることが多い。
見知らぬ彼らの名前を知ることは、自分の世界の中に、彼らの居場所を作ることにほかならない。昨日まで殺風景だった一角にちょっとだけ華やかな住人を増やすことができるのだ。
元来、自分は生物は好きだが、植物がとりたてて好きな人間ではなかった。生物の授業でも植物のときは重たい瞼との戦いだった。
それでも昆虫や魚が好きで、よく昆虫を採集して飼育したり、釣りに行って釣った魚について調べたり、はたまた図鑑でまだ実物を見ぬ昆虫や魚に思いを馳せたりはしていた。
植物は山菜程度の知識はあり、その年の何月何日にどのような生育状況であるかの資料として、山菜として利用される植物の写真は撮っていた。これは完全に時期予想とトレジャーハント要素が楽しくてやっていたことである。
ところが去年のあるとき、沢の斜面で撮ったゼンマイの写真を眺めていると、手前に見切れている草に意識が向かった。
「あ、これカタクリじゃん」
山菜の本で、軽く視線でなでたことのある花を見つけた。緑少ない早春の山で、このような頭をもたげた紫色の花というのは、見るなというほうが難しい。意識しないということは、それだけ自分の中にそれらを入れていないということなのだ。
写真が切り取る文脈というのは、自分の意識の外をこうも鮮やかに映し出してくれるものかと、妙な感慨にふけった。写真とは見えないものを写す手段でもあったのだ。
早春の山を少しだけ彩るこの小さな花にカタクリという名前が与えられ、かつて片栗粉の原料として使われていたことなどもインプットされる。
そして彼らが春のほんの短い期間だけ咲き、あとの期間は地上部は枯れ、地下で過ごし、またそのような植物のことをスプリングエフェメラルということも。その花が咲くまでに8年ほどかかるということも。
そして今年、何度か行ったことのある場所を何の気なく散策していると、そこが実はすごい場所であることに気が付いた。
何度も行っているのに、なぜ気が付かなかったのだろう。そう思えるほど、辺り一面のカタクリ。
自分の中に知識をインストールすることで、世界というのは新たな色を持つということを目の当たりにしたのだった。
気が付けば、北海道新聞社発行の『北海道の草花』を購入していた。北海道に自生する野草約1950種を網羅した図鑑だ。
実は去年もキノコに興味を持ち、山と溪谷社発行の『日本のきのこ』を買った。ここ2年で、図鑑を眺めてはその存在に心躍らせていた子供の頃に戻ったようで、表を歩くのが少し楽しくなった。
今までは緑の塊だったものが徐々に細分化され、ずっと前に人々が作り出した体系が自分の中にインストールされる。
緑の中に無数の名前があり、歩を進めるたびに名前が頭を駆け巡る。それは宝探しにも似た輝ける世界を自分に提供したのだ。
しかし彼らは、図鑑を見てから現れたのではない。自分が彼らに気付くずっと前から彼らはそこにいて、見つけられるのを待っていたのだ。
2年ぐらい、沢沿いや湿地で撮った写真でよく見かけた君、オニシモツケっていう名前だったんだね。
シシウドと見分けが付かなかったけど、花序の一番外側が変形するのが特徴のオオハナウド。君はどこにでもいるね。
芽出しの頃、ミツバによく似ている有毒のキツネノボタン。根本の葉は特にミツバに似ている。よく見れば裂け方や、2枚葉の葉柄が長いことで区別できる。なんといってもミツバはあの香りで判別できる。
五感全てを研ぎ澄ませて、体で覚えて図鑑とにらめっこする。
ふと、日常の中で今まで意識しなかった「塊」に目を向けてみる。きっとその中には、我々が子供の頃にあらゆるものの名前を知ることで得ていた喜びがあり、見つけられるのを今か今かと待ち続けているのだ。
与えられた名前を見つけてもらうことを。
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