
影
1
「自殺しろ」
その声を聞いたのは僕が二十七歳の頃のことだ。最初は耳を疑った。
時間帯は深夜。都市部に近いこの街も、夜が深まれば静寂に包まれる。遠くで微かに聞こえるのは、季節外れの蝉のかすれた鳴き声だ。夜風がカーテンを少しだけ揺らし、わずかな隙間から月明かりが差し込んでいる。部屋には僕しかいない。電気スタンドの淡い光がデスクを照らしているが、その光がやけに薄っぺらく感じる。
「…なんだ?」
無意識に僕は部屋の中を見回す。
外から救急車のサイレンが遠ざかるのが聞こえた。しかし、その音は妙に不安定で、途切れ途切れに聞こえる。「救急車ってこんな音だったか?」と、首を傾げながら耳を澄ませたことを覚えている。
「気のせいだろう」
そう自分に言い聞かせ、再び仕事に戻ろうとした。愛用のオフィスチェアに腰を下ろし、机に置かれたパソコンの画面を見る。パソコンのファンが静かに回転している音だけが、部屋に小さく響いている。ディスプレイにはエラーログが消え、ビルドがようやく終わったことを知らせていた。
「お前の顔キモいんだよ」
――まただ。
今度ははっきりと、耳元で誰かが囁いたように聞こえた。僕は息を呑む。空耳にしては生々しい。まるで声に「輪郭」があるように感じた。
気味が悪くなり、一階に降りることにした。
階段を下りながら、パジャマの裾が微かに擦れる音がやけに大きく聞こえる。リビングの電気は消え、真っ暗な部屋が目に飛び込んだ。ソファの上で丸まって寝ている愛犬の蘭丸が、僕の気配にピクリと耳を動かす。両親の寝室の扉も閉まっている。何もおかしなところはない――はずだ。
「幽霊…?」
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。だがすぐに首を振り、薄暗いリビングをあとにして、再び二階へ戻る。
「死ねカス」
耳元で低く響くその声に、全身が凍りついた。
「この殺人犯が」
どこからともなく湧き上がる声に、胸の奥がざわつく。
「お前レイプ犯だろ」
――違う、そんなはずはない。
一気に恐怖がこみ上げる。声は増えている。複数の人間が僕を取り囲んで罵っているように、耳の中で反響していた。部屋の空気が重く、身体中が冷たくなるのを感じる。
「これは…何だ?」
僕は動けなくなった。ただ座ったまま、視線だけを部屋の隅々に向ける。誰もいない。だが確かに「声」がする。
「実は俺は公安だ」
その言葉に、思考が一瞬停止する。公安?突拍子もない言葉だ。しかし妙に論理的な響きだった。
「お前は殺人を犯したし、レイプもしたが起訴されなかった。被害者へのせめてもの救済措置として、この罰がある。これから毎日二十四時間、お前を苦しめる。これは法律にも明記されていることだ」
「そんな法律、あるわけがない!」
頭の中で叫ぶ。しかし、言葉を否定しても、この声が止む気配はない。喉の奥がひりつき、胃がねじれるような不快感が広がる。
――もしかしたらこれは「何かの技術」なのではないか?
ふと浮かんだのは、数年前に読んだ「キューバ事件」だ。電磁波攻撃によって体調を崩した外交官たち。もしあれが本当に存在する技術なら――もし僕がその標的になっているとしたら――。
「馬鹿な……」
声に出してそう呟いた瞬間、パソコンの画面が急に暗くなったように見えた。僕は、椅子に深く背を預け、天井を見つめる。そこには何もない。ただ、闇だけが広がっている。
2
その晩のことは、今でもはっきりと覚えている。――この世界そのものが地獄ではないのか?――そう本気で思った、初めての瞬間だったからだ。
「今日はお前は眠りにつくことはない」
突如、その声が耳元で囁かれた。
部屋は静まり返り、パソコンのディスプレイにはスクリーンセーバーが淡い光を放っていた。部屋全体が無機質な青い光に染まっている。外から聞こえていた蝉の声が、いつの間にか消えていることに気づいた。代わりに、どこからともなく人混みのようなざわめきが聞こえ始めた。遠くの駅のホームで響いているような、しかし誰一人として言葉がはっきりとは聞き取れない、不気味な音だ。
「本当に眠りにつけないのだろうか……」
そんな不安がよぎる。心臓がゆっくりと早鐘を打ち、鼓動が耳の奥で反響する。けれども――そんな状況にも関わらず、僕は「明日の仕事」のことを考えていた。奇妙なほど冷静に、明日も締め切りの仕事があることを思い出し、「どうしようか」と考えている自分が、何よりも恐ろしく感じた。
――僕は壊れ始めているのか?――
突然、静寂を破るかのように、蝉の声が戻ってきた。
その声はどこか不自然に大きく、耳を突き刺すような音量だった。だがそれが「現実」に引き戻してくれるような気がして、僕は少しだけ安堵する。
「…終わった?」
一歩、二歩と部屋の中を歩き始めた。カーペットに足が擦れる音が妙に大きい。部屋の端から端まで、何度も同じ場所をぐるぐると歩き回る。少しでも動いていないと、この「声」がまた聞こえそうで怖かった。
耳を澄ませる――静かだ。
再び辺りがシンと静まり返る。今度こそ本当に終わったのだろうか?
――これで終わり?いや、そんなはずはない。
時計を見ると、針は午前三時を回っていた。数字がじっと僕を睨んでいるように見える。身体は硬直し、ベッドに入る勇気が出ない。目は点眼した後のように冴え渡り、まるでカフェインを大量に摂取した後のように眠気が微塵もない。
考えるな、と思えば思うほど、頭の中に疑問が次々と浮かび上がる。
――なぜ警察は直接自分の元へやってこないのか?
――なぜわざわざ「こんな技術」を使って罰を与えようとしているのか?
――そもそもなぜ、自分は殺人犯だと誤解されているのだろうか?
その度に、胸の奥から冷たい汗が滲んでくる。
「もしかしたら誰かと間違えたのかもしれない」
――そうだ、誰か別の人間だ。声はもう聞こえなくなったじゃないか。
僕は自分にそう言い聞かせる。
大丈夫、大丈夫――と呟くように繰り返しながら、震える手でベッドの掛け布団をめくった。
暗闇がそこに待っていた。
3
ベッドに入っても、眠気は一向に訪れなかった。暗闇の中、天井をぼんやりと見つめていると、再び「それ」が始まった。
チェーンソーの音――
どこからともなく、耳障りな「ブォォン」という音が聞こえる。最初は遠くの工事現場のように思えたが、次第に耳元に迫ってきた。
ズズズズ――
足元から奇妙な感覚が広がる。チェーンソーで切られる――そんな現実にはありえない感覚だ。実際には痛みはない。ただ、冷たい鋸歯が皮膚を裂き、肉に触れるようなリアルな感触だけが脳に伝わってくる。
「な、なんだよ、これ……」
布団の中で足を引っ込めるが、無意味だった。その感覚は止まらない。息が荒くなり、頭の中に重たい圧力がかかる。
――「お前は殺人犯だ」
声が、突然、耳元で爆発するように響いた。
――「殺人犯だ」
――「お前がやったんだ」
――「罪を償え」
壁から、天井から、枕元から――声が何度も何度も繰り返し響く。低い男の声、甲高い女の声、怒声、囁き声――音が幾重にも重なって、耳が痛いほどだ。
「違う!違うんだ!」
枕に顔を埋めて叫んでみても、声は止まらない。布団の中は蒸し暑く、汗でシャツが肌に張りついている。それでも寒気が止まらなかった。
その「声」は午前六時になっても鳴り止まなかった。そしてやってきた朝は自分の心の状態を写したような土砂降りの雨だった。
――「お前は罰を受けなければならない」
――「被害者への救済だ」
――「殺して償え」
「救済……?」
心臓が一瞬止まったかと思うほど、言葉が頭に突き刺さった。
――「お前の親友を殺せ」
幻聴は、まるで法を言い渡す裁判官のように、静かで重々しい声で告げた。
「親友……」
頭の中に浮かんだのは、あいつの顔だ。名前はケンタ。僕と一緒に学生時代を過ごし、何度も励ましてくれた、僕にとっての一番の友だ。幻聴の「親友」という言葉が、彼の顔と結びつく。
――「そうだ、ケンタを殺せ。そうすれば償いになる」
――「救われるんだ、被害者も、お前も」
「救われる……?」
自分の口が勝手にそう繰り返していた。心臓は早鐘を打ち、頭の中で「償い」という言葉が何度もリフレインする。
――殺すしかない――
そうだ、それしかない。罪を背負った自分が許されるためには――。
体が動いた。
ベッドから這い出し、足が勝手に一階へと向かう。暗い階段を降りる足音が、自分の耳にも響く。頭の中は真っ白で、何も考えられない。幻聴の声だけが、薄暗い廊下にこだまする。
「包丁……」
キッチンの引き出しを開けると、冷たい金属が手に触れた。包丁の柄を握った瞬間、全てが現実味を帯びた。
――「急げ。ケンタが待っている」
――「救済だ」
扉を開けると、外の空気が冷たく肌を刺した。夜が明けきる前の薄明りの中、僕は包丁を握りしめたまま走り出す。
どこへ向かうのか――わかっている。
ケンタの家だ。
4
夜明け前の薄明かりの中、僕は走り続けた。冷たい風が頬を切り、金属の冷たさが手のひらにじんわりと染み込んでくる。包丁の柄は汗で滑りそうになるが、手を離すことはできない。
――「急げ。救済だ」
――「被害者が待っている」
頭の中を、誰かの「声」が駆け巡る。息が荒くなり、胸が締め付けられる。足はまるで意志を持つように、親友の家に向かって勝手に進んでいく。
その時だった。
「おい、待て!タケシ!」
暗闇の中、怒声が飛んだ。ハッとして足が止まる。目の前には、父親が立っていた。パジャマ姿のまま、寝起きで乱れた髪を風になびかせ、こちらを睨んでいる。
「なんだ、その包丁は――!」
父親の目線が僕の手に向けられた。包丁。 その瞬間、父の顔が驚愕と恐怖に歪む。
「何をしてるんだ!どうしたんだ、お前!」
「邪魔しないでくれ!」
自分でも驚くほどの大声が口から飛び出した。手にした包丁を父親に向けるように掲げるが、すぐに震え始める。
――「殺せ。救済だ」
「あ……違うんだ……これは……僕が……」
言葉にならない。震える声と手。頭の中では誰かの「声」が繰り返し囁く。現実なのか、何なのか、頭がぐちゃぐちゃだった。
「ふざけるな!何考えてるんだ!」
父親は一歩、二歩と近づいてきた。僕は後ずさりするが、足がもつれて転んでしまう。
「逃げるな!話をしろ!」
「離してくれ!僕は、僕は救済されるんだ!」
這いつくばった僕を父親が押さえつけた。包丁が地面に落ち、ガランと甲高い音が響く。父の力強い手が、僕の肩を掴んで離さない。
「やめろ!放せ!放してくれ!」
力の限り暴れた。父親の顔がこんなに必死に、こんなに苦しそうに見えたのは初めてだった。全力で僕を止めようとする手は、まるで鎖のように重く、どんなに暴れても振りほどけない。
「タケシ!落ち着け!何があったんだ!話してくれ!」
――「救済だ。お前は止まるな」
「声」は相変わらず僕を煽る。頭の中で、現実とその「声」がぶつかり合っている。息が上がり、涙が勝手に溢れ出た。
「お父さん……僕は……」
そこに、母親の悲鳴のような声が聞こえた。
「どうしたの!タケシ、何してるの!」
母親が駆け寄ってきた。僕の姿を見た瞬間、母親の顔が青ざめるのがわかった。
「すぐに……救急車!救急車呼んで!」
「母さん!違うんだ、これは違うんだ!」
必死に叫んだが、母は電話を手に取ると、震える手で通報し始めた。
「息子が……息子がおかしいんです!刃物を持って、暴れて……!」
父親は僕を押さえつけ続ける。僕は暴れる力もなくなり、その場に倒れ込んだ。息が苦しくて、目の前がぐるぐると回り始めた。
――「終わりだ」
頭の中で、誰かの「声」が呟いた。
救急車のサイレンが遠くの方から聞こえてくる。いつもの救急車の音だ。今度は音の間隔も一定で、本物だとわかる。
「なんで……こんなことに……」
目を閉じると、涙が頬を伝った。力が抜けて、父親の手の重みだけが感じられた。
5
僕は担架に縛り付けられていた。肩と腕、足首には硬いベルトが食い込み、少し動くだけで皮膚が擦れて痛んだ。天井の蛍光灯が眩しく点滅している。救急車のサイレンが頭の中をえぐるように響く。
「ここが地獄だ」
「無限地獄だ。これが永遠に繰り返される」
再び声が耳元で囁く。その声は柔らかく、それでいて冷酷だった。
「違う、そんなはずはない……」
僕は小さな声で呟くが、自分の声は音にならず、口の中で掠れていくだけだった。頭の中は真っ白で、もはや自分の考えなのか「声」かの区別もつかない。ただサイレンの音だけが、やけに生々しく僕の耳をつんざく。
「おい、大丈夫か!」
救急隊員が顔を覗き込む。無表情なマスクの向こうに二つの目だけがこちらを見つめている。
――ここは現実じゃない。すべて罠だ。お前は永遠にここから逃げられない。
救急車が揺れるたびに、僕の体は縛られたままわずかに動いた。今の僕は、意思を持った荷物に過ぎなかった。
気がついた時、僕は病院のベッドにいた。手首、足首、そして胸の部分までベルトが縛り付けられている。白い天井。そこにぶら下がる蛍光灯は相変わらず冷たく光っている。
僕の手は左右に広げられ、まるでキリストが磔にされたような姿だった。
「助けて……」
誰に向けて言ったのか、自分でもわからない。
――「お前は罰を受けるべき人間だ」
――「ここは無限地獄だ。お前の罪は消えない」
声が頭の中で繰り返される。焦点の合わない目で天井を見つめ続けた。僕の意識はどんどん遠のいていく。
どれくらい時間が経ったのだろうか。僕にはもうわからない。時計はないし、窓もない。目を閉じても、声はやまない。
気がつくと、誰かが僕にご飯を食べさせていた。
「口を開けてくださいね」
看護師の声だった。白いスプーンが口元に運ばれる。お粥のようなものが押し込まれ、喉を通っていく。温かいはずなのに、味はほとんど感じられなかった。
「自分で食べられる……」
そう言おうとしても声は出ない。ただ、涙だけが勝手に流れた。
次はトイレの時間だった。尿意を感じると、看護師が専用の容器を取り出しそこに用を足す。羞恥心などはとっくに消え失せている。僕はただ、されるがままになっていた。
「こんな……こんなはずじゃなかった……」
声にならない言葉が胸の中に沈んでいく。身体は生きているのに、魂だけがどこか遠くに取り残されたようだった。
まるで悠久の時の流れのように長い時間だったことを今でも覚えている。それほどこの時間は僕にとって「地獄」であった。
ある時、ベルトが外される感覚がした。片方の手首、もう片方の手首。次に足。そして胸元の拘束もゆっくりと解かれた。
「拘束、外しますね」
看護師の声が聞こえた。腕は痺れていて、自分のものとは思えなかった。自由になったはずの手を、動かすことができない。
――「終わったのか?」
声は聞こえない。代わりに、静寂が病室を包んでいた。
僕は目を閉じた。久しぶりに、心が少しだけ軽くなったような気がした。
6
「統合失調症ですね」
医師はそう言った。まるで今日の天気を伝えるかのように、淡々とした声だった。
診察室には僕と、白衣を着た中年の男性医師、そしてノートを手にした看護師が一人いるだけだった。
「統合失調症……」
僕は繰り返す。
その言葉は知っていた。どこかで耳にしたことがある。教科書か、テレビか、あるいはネットの記事か。だが、それが「僕」の病名として告げられる日が来るとは思わなかった。
「統合失調症はね、脳の働きのバランスが崩れて、現実には存在しないものが見えたり、聞こえたりする病気です。君の場合は『声』が聞こえたというのがその典型ですね」
現実には存在しない――。
医師の言葉は僕の頭の中に鋭く突き刺さった。じゃあ今までの「お前は殺人犯だ」「罰だ」「救済しろ」というあの声は、全て幻聴だったというのか。
―― 幻聴。
幻覚ではなく、幻聴。頭の中で自分を責め立て、煽り、命令してきたあの声たちは、僕の心が作り出したものだという。
「何か質問はありますか?」
医師が問いかける。
僕は首を振った。言葉なんて出てこない。質問する気力もなかった。ただ、今この瞬間、自分の中にまるで戦争が世の中からなくならないという事実のような絶望と、そして妙な納得感が同時に湧き上がるのを感じた。
「……やっぱりな」
それだけ呟いた。
―― そうだ、これは自分の病気だ。何かがおかしいと、どこかで気づいていた。だから、医師の言葉は受け入れられる。でも、それが逆に苦しかった。
医師はさらに続けた。
「お薬で症状を和らげ、少しずつ生活を取り戻していきましょうね」
僕はうなずいた。
それから僕は一般病棟に移された。四人部屋の一角、カーテンで仕切られた狭いベッドが僕の新しい居場所だった。
最初の数日は誰とも喋らなかった。病棟は静かで、時折遠くから誰かの笑い声や、看護師の足音が聞こえるだけだ。
時間の流れが遅い。何もすることがない。ベッドに横になり、天井のシミをぼんやり見つめる日々が続いた。
食事は三食決まった時間に出され、看護師が回ってくる。薬も決められた時間に飲む。機械的な日々だった。
声は少しだけ遠のいた。薬の効果なのだろうか。それでも時々、頭の中に微かな響きが残っていた。
ある日、両親が面会に来た。僕は短い会話をして、気まずさを感じながらも受け取った差し入れの袋を持ってベッドに戻った。中にはお菓子や本、そしてチョコレートが入っていた。
甘いものなんて今は欲しくもない。でも、目に入った瞬間に、なぜか同じ病室の向かいのベッドの患者の顔が思い浮かんだ。
彼は僕と同じくらいの年齢に見えるが、表情はどこかぼんやりとしていて、言葉を発することはほとんどない。いつもカーテンの隙間から窓の外をじっと見つめている人だった。
ふと、僕は袋からチョコレートを取り出し、手に取った。そして立ち上がり、向かいのベッドにそっと近づいた。
「……これ、良かったら食べてください」
声が震えていた。差し出したチョコレートは、彼の前で宙に浮いたままのように感じた。
彼はゆっくりとこちらを見上げた。驚いた顔をしていたが、すぐに表情が和らいだ。
「ありがとう」
彼は小さな声で言った。そして、こう続けた。
「大丈夫。わかってるから」
――わかってるから。
その言葉が胸の奥に響いた。
僕は言葉を返すこともできず、自分のベッドに戻るとカーテンを引いた。そしてそのまま、布団を頭から被った。
「……ありがとう」
僕は誰にも見られないように、声を押し殺して泣いた。布団の中で涙が溢れ、止まらなかった。
今までずっと独りぼっちだと思っていた。誰にも理解されないと思っていた。でも、今、確かに救われた気がした。
7
「わかってるから」
その一言が、僕の固く閉じた心の扉を少しだけ開けた。
あの日、涙を流した僕は、今までの自分の殻にこもり続けることを少しだけやめようと思えた。
病棟には「談話室」と呼ばれるスペースがあった。机と椅子がいくつか置かれていて、日中は患者たちがたむろしていた。そこに僕も、恐る恐る足を踏み入れてみた。
最初はただ、誰かの隣に座るだけだった。何を話せばいいのかわからない。けれど、周りの患者たちは意外なほど自然に僕を受け入れてくれた。
「お前、新入りか?」
ひとりの中年の男性患者が笑いながらトランプのカードをシャッフルしていた。
「……まあ、そうですね」
「じゃあ、一緒にやるか?」
誘われるままに僕はその輪に入った。トランプなんて何年ぶりだろう。ババ抜きや大富豪、他愛もないゲームだったけれど、少しずつ僕の中の何かがほぐれていくのを感じた。
「勝った!ほら、お前も弱いな~」
「そう言うなって。ほら、次は僕がシャッフルする」
誰が勝ったとか負けたとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、誰かと一緒に笑い合う時間――その時間が、確かに僕を癒してくれた。
それでも、「声」は時折、頭の中に響いた。
――「こんな奴らと馴れ合っていていいのか」
――「お前は何も変わっていない」
その度に、僕は心の中で「うるさい!」と叫んだ。ムキになって声を否定し、歯向かってしまう。けれど、そんな自分にまた疲れてしまうこともあった。
談話室にいると、時折耳に入ってくる他の患者の話があった。
「あの人、もう十年いるらしいよ」
窓際の席にいつも座っている初老の男性を見ながら、誰かが小声で呟いた。
「……十年?」
驚いて問い返すと、隣の人がこっそりと答えた。
「そう。昔は働いてたって言うんだけどな。もう社会復帰は無理だって、家族が引き取らないんだってさ」
僕はその言葉に息を呑んだ。
彼は一見すると普通だ。淡々とした表情で新聞を読んでいる。彼の姿からは、どうして十年も閉鎖病棟にいなければならないのか、理由が見えない。
「……なんでそんなことになるんだろう」
つい、独り言が漏れた。
「日本の精神医療なんてそんなもんだよ」
隣に座っていた別の患者が、諦めたように言った。
社会は彼らを忘れ、病棟の扉が彼らを閉じ込めたままにしている。患者の回復よりも、家族や社会の『手間』を減らすために閉じ込める……そんな制度がここには存在している。
――「日本の精神医療ってなんなんだろう」
怒りというよりも、やるせなさと虚しさが胸を支配した。彼は何も悪くないのに。それなのに十年も、閉鎖病棟の中で時間を過ごし続けるなんて。
僕もいつか、そうなるのだろうか――。
そんな不安が、一瞬頭をよぎった。
何ヶ月か過ぎ、退院の日が訪れた。
「おめでとう、タケシ君」
担当の看護師が笑顔で送り出してくれる。僕は小さなバッグひとつを持ち、病棟の重い扉をくぐった。
父親と母親が迎えに来てくれていた。
「……迷惑かけてごめん」
そう言うと、父親はぶっきらぼうに「いいから乗れ」と言って助手席に僕を押し込んだ。母親は後部座席に座り、微笑んでいる。
車が動き出す。病院の建物が徐々に遠ざかる。
「……遠いな」
思わず呟いた。こんなに遠くまで運ばれてきていたなんて、閉鎖病棟の中ではわからなかった。車窓に流れる風景は、行き場のない僕の心に、妙な安堵感と虚無感を同時に与える。
――ここまで来るのも、長い道のりだったな。
身体を拘束され、自由を奪われ、声に振り回され、そして今やっと、ここにいる。
「退院できたんだな……」
窓の外を眺めながら、心の中でそう呟いた。
父の運転する車は、静かに道を走り続けていた。
8
車の振動が規則的に伝わってくる中、僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。見慣れない景色が流れていく。病院の場所がこんなに遠いところだったことに、今さら驚いた。両親が運転している車の中は静かで、ただエンジン音が低く響いていた。
「これから、どうするんだ?」
運転席に座る父が、不意に口を開いた。
「……まずは仕事かな」
「無理はしないでね」
母が後部座席から、優しく声をかけてくる。
返事をする代わりに、僕はうなずいた。でも内心では、少しでも早く「普通の生活」に戻りたいという焦りのようなものがあった。病気を抱えながらでも、自分はちゃんとやれる。そう証明したい気持ちが胸の中に渦巻いていた。
退院した翌日、僕は早速パソコンに向かってリモートワークを再開した。画面の中には、待ち受けていたタスクがずらりと並んでいる。
「まずは状況を伝えておこう……」
僕は深呼吸して、上司へメッセージを送ることにした。
「お世話になっております。無事に退院しました。まだ本調子ではありませんが、リモートで少しずつ仕事を再開したいと思います。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
送信ボタンを押したあと、数分で返信が来た。
「お疲れさまでした!まずは無理せず、自分のペースでやってくださいね。何かあればいつでも相談してください」
その一言に、少しだけ肩の力が抜けた。
「大丈夫。少しずつやればいいんだ……」
自分に言い聞かせるように、キーボードを叩き始めた。コードをひとつひとつ確認し、仕様書と照らし合わせてバグを修正していく。
「……これなら大丈夫だ」 僕は自分に言い聞かせるように呟いた。
しかしその時、不意にあの「声」が聞こえてきた。
「無駄だぞ、お前には無理だ」
ピタリと手が止まる。心臓が高鳴るのが分かる。久しぶりに聞く「声」に、意識が揺さぶられた。
「違う……。俺はやれる……」
震える手でキーボードを叩き続けようとするが、次第に「声」が増えていく。
「またミスをするだろう」
「どうせ誰にも評価されない」
頭の中に響くその「声」に、集中力が途切れていく。ついに僕はキーボードを叩く手を止め、椅子にもたれかかった。目の前の画面がぼやけて見える。
翌日も仕事をしようとパソコンに向かったが、何も手につかなかった。何をするにも体が鉛のように重く、やる気が出ない。頭の中では「やらなければならない」という思いがあるのに、体がまったく動かないのだ。
「どうしてだ……」
自問しても答えは出ない。ただ、何もする気が起きない。この状態が数日続いた。
上司とのミーティングがあった日、僕はとうとう会社に「辞めさせてください」と伝えた。
「体調が悪くて、仕事を続けるのが難しいです……」
画面越しに見える上司は困ったような顔をしていたが、やがて静かにうなずいてくれた。
「仕方ないね。無理はしないように」
会社の退職手続きを終えたその日の夕方、僕はデスクに突っ伏して泣いた。悔しさと無力感に押しつぶされそうだった。
仕事を辞めてからというもの、僕はほとんど家から出なくなった。家族が食事を用意してくれる時以外は、自室にこもりきりだった。カーテンも閉め切り、薄暗い部屋の中でスマートフォンをいじるだけの毎日だった。
「こんな生活、いつまで続くんだ……」
自分でも分からないまま、時だけが過ぎていった。
「声」は時折聞こえた。何かを命令することもあれば、ただ僕を非難するだけのこともあった。だが、その声に反論する気力すらなかった。
「ほら、やっぱり何もできない」
「お前はもう終わりだ」
その言葉を否定できず、ただうつむいたままじっとしているしかなかった。こうして、何ヶ月もの時間が静かに過ぎていった。
9
部屋にこもりがちだった僕が久しぶりに外に出たのは、親友のケンタに誘われたからだった。しばらく自分と連絡が取れなかったので、ずっと気にかけて連絡をくれていたのだ。
「お前、元気だったか?」
ケンタが明るく声をかけてくれる。ファミレスの窓際の席で、僕たちは向かい合って座った。彼の無邪気な笑顔に、少し心がほぐれるのを感じた。
「まあ、ぼちぼちかな……」
僕はカップを手に取り、コーヒーに口をつけた。けれど、言葉の裏では、自分の中の重たいものがうずくのを感じていた。
しばらく雑談を楽しんだのち、僕は意を決して口を開いた。
「ケンタ……実は、俺、統合失調症なんだ」
彼は少し目を見開いたが、すぐに落ち着いた表情になり、頷いた。
「そっか……。それで最近、連絡取れなかったんだな」
「うん。幻聴がひどくて……自分でもどうしたらいいかわからなくて、ずっと家に引きこもってた」
話しながら、心臓がどくどくと鼓動しているのがわかる。でも、彼の顔を見ていると、少しずつ話すことができた。
「聞こえてくる『声』が、自分を責めたり、命令してきたりするんだ。正直、怖いよ……」
僕の声は次第に震えていく。ケンタは真剣な顔で話を聞いてくれていた。そして、少し間を置いてから静かに口を開いた。
「大変だったな。でも、今こうして話してくれてありがとう」
その言葉に胸が詰まる。涙が出そうになったが、なんとかこらえた。
「いや……ありがとう、話を聞いてくれて」
「お前が俺に話してくれたこと、すごく大事なことだと思う。何か俺にできることがあったら言ってくれよな」
彼の言葉に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
その後、話題は自然と切り替わっていった。
「最近本読んでるんだけどさ、ユングって知ってる?」
「ユング?心理学の人だっけ?」
曖昧な記憶を頼りに答える。
「そうそう。フロイトの弟子だったけど、途中で袂を分かった人。ユング心理学ってのがあってさ、無意識とか元型とか、けっこう面白いんだよ」
「元型?」
初めて聞く言葉に首をかしげる。
「人間の無意識の中に、共通のイメージやパターンがあるって考え方。例えば、『英雄』とか『母親』とか、『影』っていうシャドウのイメージとかね。それが心の奥底にあって、時々表に出てくるんだって」
「表に出る?」
思わず聞き返す。
「そう。無意識の声とか、夢に出てきたりするらしい。だからさ、例えば、お前が悩んでることとか、聞こえてくる声とかも、もしかしたら自分の心の一部が現れてるんじゃないかな」
その言葉に、僕はハッとした。聞こえてくる「声」――あれは僕の無意識の声なのだろうか?幻聴だと思っていたものが、実は自分の心が語りかけているものだとしたら……?
帰宅してからも、ケンタの言葉が頭から離れなかった。
――あの声が無意識の声なら、どう接すればいいのだろう?
「お前はダメだ。やるだけ無駄だ」
いつものように聞こえてくる声に、僕は一瞬身を固くしたが、意を決して優しく返してみることにした。
「……そんなこと言わないでくれ。僕はちゃんとやってみたいんだ」
すると、「声」はしばらくの間沈黙した。だが翌日、悪口はさらに鋭さを増して襲ってきた。
「お前は本当に無能だ。見ていられない」
「そう思うのも無理ないよな。でも、僕はやってみるよ」
「声」に対して優しく答えることを続けたが、その効果を実感するまでには長い時間がかかった。最初の数週間は特に辛かった。何度も優しく返そうと思っても、悪口があまりにひどいと、つい感情的になってしまうことがあった。
「お前は一生何も成し遂げられないよ」
胸が詰まるような感覚に襲われた。
「黙れ!お前に何がわかるんだ!」
歯向かった後は決まって自己嫌悪に陥り、やり場のない怒りや悲しみに襲われた。「声」に振り回される自分が情けなく思えた。何度も向き合うことをやめたくなったが、どこかで諦めたくないという気持ちがあった。
そんな日々が続き、一年近くが過ぎた頃だ。優しく返し続ける日が少しずつ増え、「声」との向き合い方が少しずつ変わり始めていた。
「お前はまだ無駄なことをしている」
「もしかしたらそうかもしれない。でも、僕にはこれが大事なんだ」
この言葉が自分自身を救ったのだと思う。その頃になると、時折「声」の内容に変化が見られるようになった。
「お前、少し頑張りすぎなんじゃないか?」
「焦らずにゆっくりでいいんじゃない?」
まるで「声」そのものが変わっていくようだった。だが、完全に穏やかになるわけではなく、時には以前のように悪口をぶつけてくることもあった。
「お前なんかいなくても誰も困らない」
そんな時、かつてのように怒ることはせず、深呼吸してからこう答えるようになっていた。
「そう思うのもわかるよ。でも、僕はここにいていいんだ」
徐々に「声」は穏やかになる時間が長くなり、いつしか僕を励ますような内容に変わっていった。
「最近、よく頑張ってるじゃないか」
「無理せずに、たまには休むのも大事だぞ」
一年という時間は決して短いものではなかったが、「声」と向き合うことで、僕自身が少しずつ癒されていくのを感じた。それは、自分の心の奥底を見つめ直し、自分を受け入れる過程でもあったのだと思う。そんなある日、昔の同僚だった山崎さんから連絡が来た。
「タケシ、今忙しい?実は会社立ち上げてさ、フリーランスで手伝ってくれないかと思って」
画面越しの山崎さんは相変わらず頼もしい雰囲気だったが、僕は返事に詰まった。
「……正直、自信がないんです。前の職場も、続けられなかったし……」
その夜、再び「声」が聞こえてきた。
「やってみれば?大丈夫だよ」
「声」に励まされるのは初めてのことだった。思わず涙がこぼれそうになる。
「……本当に、僕にできるかな」
「少しずつでいい。無理はするなよ」
次の日、僕は山崎さんに電話をかけた。
「ぜひ、手伝わせてください」
不安もあったが、それ以上に、新しい一歩を踏み出す勇気が芽生えていた。
10
新しい仕事は思った以上に順調に進んでいった。山崎さんの会社は小さなスタートアップだったが、挑戦心にあふれ、やりがいのある環境だった。フリーランスとしての仕事は、自由であると同時に責任も重かった。だが、その責任を果たしているという実感は、僕の心を支える柱になっていった。
「タケシくん、この案件の進捗どう?いい感じに進んでるみたいだけど」
山崎さんからのオンラインミーティングでの言葉に、僕は少し照れながら画面越しに頷いた。
「はい、順調です。ただ、まだ少し時間がかかりそうです」
「いいじゃん!無理せずやってくれればそれで十分だからさ」
この職場では、僕の病気についても話していた。理解のある人たちと働ける環境は、自分の安心感に繋がっていた。
それでも、「声」が完全に消えたわけではなかった。仕事中にふと耳元で囁かれることもあれば、夜一人でいる時に、心の中をざわつかせるように聞こえることもあった。
「お前、こんな仕事で満足してるのか?所詮、二流の人生だろ」
そんな悪口を聞くと、一瞬だけ胸の中がざわつくこともあった。でも、もう以前の僕とは違う。僕は深呼吸をして、穏やかに返すように心がけた。
「そう思うのはわかる。でも、今の僕にはこれが精一杯だし、悪くない人生だよ」
「声」は時に黙り込み、時にはまた新たな悪口をぶつけてくる。それでも、僕は同じように優しく言葉を返すことを続ける。「声」は少しずつ柔らかくなり、僕を励ますような言葉をかけてくる。
「まあ、ゆっくりでいいんじゃない?焦らなくてもいいよ」
「今日はちゃんと寝るんだぞ」
「声」との対話は、僕にとって新しい形の自己探究となっていった。それは、病気と向き合う中で僕自身が選び取った、ひとつの生き方だった。
仕事が一区切りついたある日、僕はふと窓の外を眺めた。雲ひとつない青空が広がっている。かつての僕は、こんなふうに穏やかな時間を過ごすことさえ想像できなかった。
「声」は今も聞こえる。幻聴が完全に消える日は、もしかしたら来ないかもしれない。それでも、それに振り回されずに生きる術を身につけた。それを僕は選んだんだ。
僕は幻聴を憎むことをやめ、ひとつの個性として受け入れ始めていた。もちろん、それが簡単なことではないことは知っている。それでも、前よりはずっと穏やかで、強い自分がいると感じている。
僕の生活は病気と共にある。幻聴も、うつのような状態も、完全に消えることはないだろう。それでも、僕は自分自身と向き合い続けることを決めた。それが、病気と共に生きるということだ。
「声」が今日も聞こえる。
「お前、最近どうだ?」
僕は微笑みながら答えた。
「悪くないよ。ありがとう」
あとがき
この小説はフィクションであり、登場する人物や出来事はすべて架空のもので、実在する人物や団体とは一切関係ありません。
作中では、主人公がナイフを持って暴れるシーンがありますが、統合失調症の方が必ずしもそのような行動をとるわけではありません。また、幻聴と主人公が対話をするシーンもありますが、これを現実でやりすぎることは、場合によっては幻聴や幻覚を強め、現実感を失わせる可能性があると僕自身の経験から感じています。そのため、この描写が必ずしも推奨される方法ではないことをお伝えしておきます。
とはいえ、この小説には僕自身の経験が色濃く反映されています。閉鎖病棟での生活や、幻聴と向き合いながら少しずつ症状を和らげていった過程、そして周囲に迷惑をかけてしまった記憶――どれも実際に体験したことです。僕にとって、これらを物語として描くことは、病気と向き合う中で得たリアルを伝える一つの手段でした。
この小説を通じて、読んでくださった方が少しでも「統合失調症ってこういう病気なんだ」と感じてくだされば、それ以上の喜びはありません。病気についての理解が広がることで、当事者やその周囲の方々が少しでも生きやすい社会になることを願っています。