君を知って生きていく
いつの間にか冬の匂いがしなくなっていた廊下に、初めて使うキャリーケースを走らせる。そういえばこの間は立春だった。そんなのを無視して雪が降ったり寒波が押し寄せたり、はたまた規則正しく日差しが照ったりする日々、私はもう春を始めなくてはいけなかった。春を始める義務があった。いつも、いつの間にか始まっていた春夏秋冬の境目がくっきりと見える、県境に立っている標識みたいにそっとあるのではなく、濃い線を引かれ、私の春はここから始まっていた。
大阪行き、最終の新幹線に乗るために降り立った東京駅は、平日の夜22時前にしては人気が多く、私の住んでいる街でいちばん人の出ている時間帯である18時に匹敵した。私は春を目の前にして黒いファーでできたアウターを羽織り、春が始まることを疑わしく思った。こんなに厚着の春は初めてだけど、印象に残らないはずがない。旅の始まりは疑いと、間違いなく最高になる確信と共にあった。
日付が変わる直前に大阪に降り立つ。寒さのあまりファーのアウターのチャックを首まで上げた。それでも服の隙間から肌に触れる冷気が痛く、ホテルまでの道のりは競歩大会の開催を余儀なくされた。やっとの思いで到着したホテルは、入口が竹や木材でできており温かみのあるホテルだった。やっと視覚情報で春を得て、明日への備えを開始する。
目が覚めたのは7時30分頃、アラームの予定時刻より早い起床。アラームを起こさないようにタスクを切り、スマートフォンを見ていると、「今日は『少年忍者 スプパラ』を予定しています」と通知が来た。いよいよだ、いよいよ、今いちばん会いたかったアイドルに会える日が来た。スプパラとはスプリングパラダイスの略。春天国。やたらと春春言っていた理由はこれひとつ、2月中旬、誰がなんと言おうと春が始まるのだった。
やたらとこの日を待ち遠しくしていると共に、日に日にコンプレックスを増幅させていた。
私はあの夏を知らない。あの夏にメンバーとファンが感じた唯一無二の思い出は私には無い。あの夏が終わって1ヶ月と少しが過ぎた頃にグループのある1人の虜になったから、あの夏に彼らが何を提示したのか、何を受け取って欲しかったのか、ひとつも知らない。スプパラも公演が始まってから少し経って見るので「あの夏の再来」などと目にするたび私は取り残される気分だった。「あの夏」を知らない私は、この春を受け止めることが出来るのか。私は彼らのことが好きになればなるほど、あの夏を知らないことに後ろめたさを感じていた。
ただ、公演後のわたしは正真正銘の嬉し涙を流していた。煌めきを全身に受け止めて、移り変わりの激しい無情な世の中にも希望があると心から思えたこと、こんなに大切にしたいと思えるグループに出会えたことがただひたすらに嬉しかった。少年忍者に出会ってからこの気持ちで何度か泣いているのだけれど、今回は段違いの涙が出た。自分はこんなに泣けるのか。あの夏のコンプレックスは薄まりつつもまだ存在してしまっているが、それ以上に感じた喜びと、これから先の未来の期待は私の心を弾ませてくれた。
私はいつも、誰かを応援し始めるタイミングが1歩遅い。人生で初めて「好き」を認識して応援していた星野源さんのファンになったのは病気療養から復帰してから行われた初のツアー終了直後。療養中のしんどさを知るファンとはいつも一線を引かざるを得なかった。ジャニーズ好きの走りとなったSixTONESもデビュー発表直後に好きを認識したから、正真正銘デビュー前からのファンとは言い難いうえ、デビューに対する苦しみも理解はしつつも共感することはできなかった。
しかし、どの人、どのグループも出会ったタイミングは「今しかなかった」と言えるタイミングばかり。少年忍者に出会う直前、あの夏が六本木で繰り広げられていたとき、私は新宿の小劇場で早くこの夏が終わることを心から願っていた。あの夏は私にとって地獄で、救いの光を探し、秋が来れば全てが終わってくれると信じては夏に閉じ込められ、ずっとこのままなのでは無いかと絶望していた。逆に言えばあの夏に少年忍者に出会ってしまっていたら、閉じ込められた中で、光に気づくことは出来なかったと確信している。
見られなかったものがそれなりにあるのは出会えた代償だと思って受け入れていかなれけばと思っている。というかそれ以外に選択肢はない。これから先あなた達を知らずに生きることになるより、あなたたちを知らないままこれからを生きることの方がよっぽどの苦痛だ。そんな苦痛を味わうのならいくらでも代償を払う。私にはあの夏も、それ以前も、何も無いけれど、これからを共に生きることができるのなら100年先の未来もあなた達と駆け抜けたいと思う。私の春は、十分に暖かく晴れやかなものだった。少し雪降ったりもしていたけどね。
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