病院の日は憂鬱だ。 朝早く起きねばならない。 私は大抵起きられないからオールで乗り切るかギリギリになって起こしてもらうかになる。 今朝はオールだった。 朝食をとりにリビングへ向かうと、慌ただしく出ていった家族を見送ったあとに5人分の山積みの食器をラヴィットで笑いながら洗う母の姿が見え、それが切なく、どんな映画のワンシーンよりもきれいな情景というのはこういうものかもしれないと思えた。 病院へ行く時はいつも母に連れ立っていってもらう。 家からは遠く、車で40分の道のりを母とふ
競走から下りたい。 生きている限り、社会がある限り、どこに行けども競走があり、下らないゲームに参加せざるを得ない。 大勢の欲でぶくぶくと膨れる社会が嫌いだ(しかし我々にパンが必要なのは紛れもない事実だし、かく言う私もパンなしでは生きられない)。 その反駁としての芸術だと思う。 芸術は不必要で、時に塵を宝石がごとく扱うような道化じみた行為が横行する、馬鹿みたいな精神が必要な間抜けな営みだが、その不必要さに、道化に、馬鹿さ加減に、間抜けさには確かに意味がある。 その行為は意味を
歳をとると感受性が老朽化していく。 つまらない大人は飲みかセックスしか娯楽がないと言うが、そうなるのも頷ける。 昔楽しめていたものが楽しめなくなるのは成長なのか老化なのか。 私は今だってあえて公園を駆け回ったりシャボン玉で遊んだりするけれど、心から楽しめているかというとそうではなく、汚らしい行為だなあと感じている。 何も考えず赴くままに遊んでいたかつてを模倣しても気持ちの悪い郷愁にしかならない。 赤ちゃんプレイだ。 それが楽しければいいのだが、別に楽しくもない。 日常の断片は
今から書くものはすべて私の主観的妄想であり、客観的事実は何一つ含まれていないことをご理解いただきたい。 オタクのファッションについて思うことがある。 オタクの服はよくダサい、と形容されるがそうではない。 オタクの服はファッションですらないのである。 かくいう私もオタクである。 当然のごとくファッションとすら呼べないぼろを着ている。 ブランドにも当然疎い。 スニーカーの安物とブランド品の区別も、sheinのまがい物とパクリ元の区別もつかない。 BALENCIAGAがなぜぼろぼ
尾てい骨が痛くて尿漏れした。 トイレには辿り着いていたのに、尾てい骨が痛いあまり身動きが取れず尿漏れした。 一瞬の油断だった。 尾てい骨は痛いし尿漏れも衝撃的だ。 それに、本当に尾てい骨が痛い。 そもそもなぜ痛いのかわからないが……(ぶつけたんだと思う)。 歩いても痛い。 走っても痛い。 寝転んでも痛い。 こうして尾てい骨を痛がっていたら、尿漏れした。 齢19にして尿漏れしようとは夢にも思わなかった。 夢にも。 夢でも尿漏れしたことないのに。 しかも、漏れたのは外でだった。
男性器のことをジョニーと言うらしい。 これは京都で、定着しているわけではないけれどなんとなくの共通認識で使われている語らしいのだが由来は判然としない。 私が知らないだけかもしれない。 基本的には息子という意味なのだが、童貞のニュアンスも含まれるらしく、多くの俗的な語がそうであるように文脈によって多くの含みを持つ。 私がこの語を知ったのはくるりの楽曲からで、彼らの曲ではしばしばジョニーという言葉が重要な意味を持って使われている。 「かごの中のジョニー」や「飛び出せジョニー気に