月の女神と夢見る迷宮 第八十話
ラッシュ爺
さわさわさわさわ……シャリ……
私とお嬢様とチャイムが睨んでいるのに、ラッシュの手が止まる事はなかった。
「そろそろ気が済みました?」
私のこの言葉に、お嬢様とチャイムが驚いたように私を見る。まぁ、この状況で悲鳴もあげない、制止もしない、怒りもしない方がおかしいんだろう。でもまぁ……
「うーん、ワンモア?」
さわさわさわさわ……シャリシャリ……
「セージとローズマリー……お孫さんたちが哀しそうな目をして見てるんですけど?」
ピタッ
ようやくラッシュの手が止まった。
「ソーリー、お嬢さん。しかし、これはなかなか……素晴らしいモノだな……」
「分かりますかっ? これ、凄いんですよっ!」
私は勢いこんでそう言った。
私が何故これ程までに冷静だったかと言うと、アーマーの下に秘密がある。私は普段からアーマーの下に鎖かたびら──チェインメイルを着用しているのだ。
形態は競泳水着みたいな感じで、トップスからアンダーまで一繋がりになっている。これによって殆どの衝撃や不快な感覚はキャンセルされるのだ。
ラッシュの手の動きは、私のこのチェインメイルの品質を確かめるような動きだった。最初に触られたときは驚いたが、過度に嫌らしい動きはしなかったので放置したのだ。
「これは王都の鍛冶屋で……?」
ラッシュが尋ねる。
「それも分かっちゃうんですか? 凄いですね!」
私はついつい大きな声で叫んでしまった。このチェインメイルはお気に入りなのだ。私がお嬢様に着いていくよう密命を受けた時、旦那様から与えられた物。王都でも有名な鍛冶師に注文して造らせたという特注品なのよ。
「これはアダマンタイトを織り込んでるね……メイビー。それをこんな風に加工できるとは……これを造った鍛冶師はジーニアスだ」
アダマンタイトという金属は、ミスリルよりも硬い。魔力の伝導性が低いので、武器には適さない金属である。魔法がエンチャントし辛いからね。でも、逆に魔力を通さない──魔法防御力が高いから、防具には最適なのよ。
ただし、そんなアダマンタイトにも欠点はある。まず、何よりも産出量が少ない。 その為もの凄く貴重であり、アダマンタイトで造られた物はすべからく高価である。
また、とても硬い為、思ったように形状を変化させるのには、かなり高度な技術が必要なのだ。それこそ、王都でも加工出来る鍛冶師は少ないのよね。
「そっちの彼女は着用してなかったようだが?」
ラッシュがお嬢様の顔を見て言った。
「アタシも持ってるわ。持ってるけど……着れなくなっちゃったのよ」
お嬢様が悔しそうに呟いた。
……そうなのよね。王都の鍛冶師が造ったのは2揃い。屋敷を出る時に、お嬢様の分も私が預かったのよ。その頃の私とお嬢様は、体型もほぼ同じだったから、サイズもちゃんと合っていた。
でもね、冒険に出てからお嬢様の体型が変化したのよね。その……胸の部分がね……育っちゃってね……入らなくなっちゃったのよ。サイズを直そうにも王都に戻らなくちゃ直せないからさ、現在お嬢様は着用できないんだよね。くっ……この格差はどうして生まれたのっ?
「とにかく……こういう行為はこれから慎むこと。セージやローズマリーの教育にも良くないわ」
お嬢様が咎めるように言うと
「済まなかった、これからはもう多分しない。パードンミー」
ラッシュは素直に頭を下げた。でも、多分なのね……
「さっきから良く分からない言葉が時々混じるんですけど、それはどこの言語なんです?」
と私が疑問に思っていた事を聞くと、ラッシュは王国の東──海の向こうの国の言葉だと言う。
「シーオーシャンから船に乗って海を渡るんだ。するとまたでっかい大陸があってね……」
ラッシュが語る海の向こうの国の話は、私たちをワクワクさせるものだった。私たちは目をキラキラさせながら、彼の話に聞き入った。
そうしてしばらく彼の話を聞いた後の事。ようやく彼に対するわだかまりも解け、ルナティシアの面々も自己紹介をする事に。
「私はミズキです。一応パーティーリーダーをしています。今後はウチの女性陣に失礼な事をしないようお願いします」
「俺はライト。雇われ剣士だ。次は思い切り行く。以上」
「ヨシュアです。ヒーラーやってます。女性しか癒やせませんけど……」
「シルヴィです。あの……エッチなのとロリコンはいけないと思います……」
「らぱん……ちゃいむ……たちと……しまい……おしまい……」
「ミントだよ。おじいちゃん、女の子を触ったら逮捕なんだよ?」
「アタシはディアナ。さっきの体勢を入れ替える技を後で教えて?」
「シーナです。これから色々とお世話になります」
「俺はラッシュだ! ラッシュ爺と呼びな、ベイベー!」
うーん……このノリはよく分からないし、スケベだけど悪い人ではなさそうね。
自己紹介が終わり、それぞれがラッシュ爺と話し始めた。するとチャイムが私の側に来て話しかけて来た。
「しーちゃん、何となく許しちゃったけど良かったの? 何だったら手足縛って、山の中に捨てて来ようか?」
なかなか怖い事を言うチャイム。まぁ、昔からの因縁もあるんだろうなぁ……
「まぁね、あんまり騒ぎ立てるとセージとローズマリーが可哀想だし……それに、こんな言い方は変かも知れないけど、慣れてるのよね。お嬢様も私も」
そう、シャロン家当主──旦那様もスキンシップが激しい方だったのよ。幼い頃から結構な頻度でハグされたり、体中を撫で回されたりしてたわ。まぁ、さすがに女性の尊厳を傷つけるような事はしなかったけどね。
「チャイムだって出会った時は酷かったわよ。抱きついてきて、押し倒してきて、舐めまくってきたじゃない?」
「ちょっ、言い方っ!」
まぁ、少し誇張はあったけど事実よね?
「あ、あれは、違うじゃんっ? ラッシュ爺みたいにセンシティブなヤツじゃないじゃん? それに同性だしっ、兎の姿だったしっ」
「あの時の私は同性だと知らなかったわよ? それに純粋に危険度で言えば、魔物に押し倒される方がヤバいんじゃない?」
いつもチャイムに揶揄われている私は、ここぞとばかりに反撃した。
「ま、まぁ……それはそれとして……」
あ、不利と見て逃げたわね。
「あっちの部屋でフィーちゃんとニナが待ってるの。ディーちゃんと一緒に来てくれる?」
あぁ……そうだったわね。フィーナとはマリスさんのパソコンについて話す必要があるわ。そして……ディアナお嬢様はニナにイーの事を告げなくてはならない。私は少し重い気持ちに囚われながら、お嬢様に声をかけた。
「……そうですか。お父さんがそんな事を……」
今更隠しても仕方がないという思いから、私たちはイーの正体やシューとの関係、その他諸々について包み隠さずニナに話した。お嬢様がイーにトドメを刺したことも。
ニナは黙って聞いていた。そして遠くを見つめながら話し始めた。
「私、孤児だったんです……」
ニナはアルカスで生まれた。彼女の両親はアルカスで宿屋を営んでいたらしい。そしてあの疫病で亡くなったのだ。その結果、彼女1人が町の中に残された。
「私はお父さんが……イーが本名なんですね……くれたポーションで奇跡的に回復したんです。でなければ、本当の両親のように……」
アルカスでシルフィからポーションを受け取っていたイー。彼はたまたま町中で、疫病にかかった1人ぼっちのニナを見つけたのだ。そしてシルフィから受け取ったポーションでニナを治療した。いずれは自分の眷属にする為に……
町中に疫病が溢れるような状況で、幼い少女が1人生き残るのは難しかっただろう。イーが手を差し伸べなかったら、ニナは死んでいたに違いない。例えそれが打算によるものだったとしても、小さな命を救った事には違いないのだ。
「お父さんが、私に何か隠し事をしているのは、何となく感じていました。でも……そんな事を企んでるとは思わなかった」
ニナは遠くを見ていた視線を戻し、俯いた。
「冒険者の人たちや、村長さんと夜中まで相談してたのも知ってます。でもそれは、カルム村の発展に繫がる事を話し合ってるとばかり……」
スキー場の拡張、それに伴う観光客の増加。それを見込んでニナと2人で宿屋をやる事にしたイー。ニナの目には本当に良い父親像が映っていたのだろう。
「たまに私の事をギラギラした目で見る事がありました。今思えば、血を吸おうとしてたんでしょうね」
でも……とニナが続ける。
「私が『なぁに?』って聞くと、辛そうな顔をして『何でもないよ』って言って……」
イーは葛藤していたのかも知れない。ニナと一緒に暮らすうちに、情が移ってしまったのかも。それで眷属にするのを躊躇ってしまったのだろうか。イー亡き今、それを確かめる術はないけれど……
「ごめんね。アナタのお父さんを奪ってごめんなさい……」
お嬢様がその目に涙を浮かべながら言った。
「……今は……でも……」
ニナも目に涙を浮かべながら、ようやくそれだけを絞り出すかのように呟き……私たちの間にしばしの沈黙が訪れた。