アートモデルの地熱①
私は出版業界でOLをする傍ら、モデル業をしている。
モデルといっても、しがないアートモデルである。
画家の前で何時間も座ってポーズを取らされたり、
美大学生の前でヌードモデルをしたりしている。
かくいう私も美大の油絵出身だが、早々に自身の才能に見切りをつけて一般の仕事に就職した身だ。
絵と向き合うほどの精神力も持っていないとわかった。
しかしまだなんとなく創作の環境に身を置いていたくて、知り合いの画家に頼まれて始めたモデル業をそのまま続けていた。
モデルをするのはとても楽しい、というわけではなかったが、それなりに嫌いではなかった。私という存在を描き手がどうとらえ、どうキャンバスに顕すのか、とても興味深かった。
わかりやすい点で言えば、表情が違う。特に目。
昔は黒目が小さいことを気にしており、目全体のラインもクッキリしていることから、やや冷淡な印象を持たれているだろうと自認していた。しかし、会話の波長が合う画家に描かれる時は、少し黒目が大きく描かれて何となく穏やかそうな顔になる。
(ちなみに余談だが、私のこの「三白眼」はメイクや全体のスタイリングを変えればそれなりの美人に見られることが大学時代にわかり、今となっては気に入っている。)
ヌードも抵抗感はなかった。
あくまで私の恥ずかしくて見られたくない部分は、時間と用途を決めて鑑賞されるその時間の中では、可視化されていない気がしていた。そして幸いにも下卑た視線を浴びることはほとんどなかった。
ある秋の日、私は中目黒のデッサン教室でモデルをすることになっていた。普段となんら変わらない依頼だった。
その日は紺のラインが2本入った白のトップス、緑のカーディガンにデニム、という格好でモデルに臨んでいたと思う。
生徒は老若男女、10名ほど。どちらかというと、40代か50代が多いように見えた。
いつもと同じようにデッサンの時間が始まった。
私は果物がいくつか置かれた丸いテーブルの前に座り、ずっと窓の外を見ていた。熱心な視線を一身に受けつつも、リラックスして夕飯のことなんかを考えようとした。いつもなら夕飯から見たい映画、週末の予定など、次々に思考の対象はテンポよく移り変わるのだが、この日はうまくいかなかった。
視線の中に、"何か"がいる。
ちら、と一瞬だけ目線を教室に移す。生徒が横に2列並んでいるうちの後ろの列、出口に近い左から2番目の男性。言いようのない類の視線は、おそらく彼だった。
歳の頃は40代半ば、うっすら白くなった頭髪とうっすら白い顎鬚をたくわえた、堀の深い顔をした男性だった。眉間には深い皺が複雑に刻まれており、怒りとか悲しみとか慈愛とかがぐちゃぐちゃに混ざったようであった。
私はなぜだか、気が気ではなくなった。
熱い。
体の全身が火照る。
汗が止まらない。
その教室にはもはや、私と彼しかいなかった。
私は最大限の力を下腹部に込め、内から込み上げるどうしようもない恥ずかしさを必死で押し殺して、泣きそうになりながら2時間窓の外の雲を凝視していた。
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おい、あんた。
デッサンが終わり、ぐったりして控え室から荷物をまとめて帰宅しようとしていた私を呼び止めたのは、他でもない彼だった。
「なん、、、でしょう」
ひゃっ、という悲鳴が出なかっただけでも健闘したと思う。それほど咄嗟にかけられた彼の低音は、私の中の何かを刺激した。
「あんたに、個人的に絵のモデルを依頼したい。」
もどかしく心地の良い諦観。そう感じてしまった。
なんで、とか、嫌、とか、そんな言葉たちは言葉の形を保てずに喉元でかき消され、わたしはなすすべもなく立ち尽くした。
わたしの奥にあるほんとうのわたしが、理性を拒んだ。
黙ったまま彼の眉間辺りを眺めて、メデューサに睨まれたらこんな感じなのかな、と、理性はなんとか空想に逃した。
時間にしてどれくらいたったのだろう。
彼ははいともいいえとも言わない私に痺れを切らし、軽く俯いてふぅっ、と溜め息をつき背を向けてしまった。
-まって-
声にならない声が頭の中で反響する。
廊下に響く革靴の音と、重なる私の心音。
胸の奥がきゅぅっ、と痛む。
こんなことが遠い昔にもあった気がした。
「...いで..」
-わたしを置いていかないで-
ガチャンッ
金属製のアトリエのドアが、大きく音を立てて閉まった。
私は膝から崩れ落ち、わけもなく涙を流して1時間泣き続けた。