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3.11という日に思うこと

おそらく多くのメディアで3月11日は、『東日本大震災』というワードが使われるのではないでしょうか。
特に今年、2021年は東日本大震災が発生してから10年目という年ということもあって目にするのが多いような気がします。
私自身は震災の被災者ではありません。当時も生活がちょっと不便に感じるという程度で震災の悲惨さをメディアを通して目にしていましたが、自分事として捉えてられてこなかったような気がします。
そんな自分ですが、連日、新聞の紙面で『東日本大震災』であったり『復興』のワードを見て、10年目というタイミングでもあるので改めて考えてみたいと思います。

2011年3月11日午後2時46分

当時、私は五反田@品川区に本社を置く某外資医療機器メーカーに勤めていた。オフィスはビルの10階。その日も普段と変わらない業務をこなしていて、夕方には取引先を訪問する予定をしていたのを覚えている。

オフィスの自分の机でパソコンに向かって仕事をしていると、突然、下からドンと突き上げられた衝撃を感じた。誰かが近くで重い荷物を勢いよく下したのかと周りを見渡した数秒後に少しずつ横揺れが始まった。
自分でもなんでその行動をとったのか分からないけど、横揺れが始まった瞬間にオフィスの入り口のドアを開けに行ったのを覚える。縦揺れの後、数秒後に横揺れを感じて大きな地震になると判断したのか、とっさに逃げ道を確保しに行動したのだと思う。小学校などでやっていた防災訓練って無駄じゃないですね、頭で考える前に体が動いてましたので。

はじめはちょっとした横揺れだったのですが、そのうち立っていられないほどの大きな揺れになった。どのくらいの時間、揺れていたのかも覚えてないが、これまで大変したことがない長さと大きさの揺れだった。
大人の男、数名がかりでしか動かせない大きな金庫がオフィスにあったが、その金庫が揺れに合わせて左右に動いていたのを覚えている。
ビルの10階だったので揺れも大きかったからだと思う。
ビルが倒壊してしまうんじゃないかとか「もしかしたら、このまま・・・」ということも頭をよぎった。

揺れていたのは1~2分だったか。今まで経験したことがない揺れがいったん止んだところで、方々に連絡を取るために電話してみても回線が混乱しているのか全くつながらない状態。その状況を確認して改めて大変なことが発生したんだと感じた。しかし、その時は東京近郊が最も大きな被害になっているんだと思っていて、まさか東北地方でもっとひどいことになっているとは思いしなかった。

電話もつながらない、インターネットでも情報確認できず、モバイルも役に立たない。身近にいるスタッフの安全を確認することだけで精一杯。
オフィスの中は揺れによってぐちゃぐちゃになって、余震も続いていたこともあったので、終業時間を待たずにスタッフは帰宅することになった。あとで”帰宅難民”になる人が出てきてしまうことも、その時には想像することもできないほど冷静ではいられなかったんだと思う。

自分もどのくらいの大事になっているのか分からないままオフィスをでて帰宅し始めた。オフィスを出た時点で、すべての電車が止まっていることは分かっていた。けど、そのうち動き出すだろうを思っていたので、いつも使っている電車沿いの道を自宅に向かって歩き始めた。
オフィスは五反田、自宅は荻窪なので、直線的に歩いていけば14~5km、時間にしたら3時間ほどで帰れるはずだったが、線路沿いを電車が動き出すのを確認しながら帰って行ったので相当、遠回りをしてしまい自宅に着いたのは、オフィスを出てから6時間後の夜の10時くらいだったんじゃないかと。

自宅に着いて初めて、震源地は東北地方の沖合であること、津波が発生したらしい、海岸沿いの各地で被害が出ている、という程度のニュースを聞いた。大変なことが発生したんだという思いはあったが、頭の中にあったのは職場のことだった。2011年3月11日は金曜日であったので、次にオフィスに行くのは3日後の3月14日月曜日。月曜日はオフィスのかたずけをしてから仕事に取り掛からないといけないなぁ、面倒だなぁ程度にしか考えていなかった。余震は断続的に続いていたが、6時間以上歩き続けて疲れていたこともあって、その日は帰宅して早々に就寝したと記憶している。

次の日、朝起きて、テレビでつけ愕然とした。
被害が発生している場所が東北の太平洋側の広い範囲であることも驚いたが、地震によって発生した津波が全てのものを飲み込んでいってしまう瞬間の映像を始めてみた。自然の前には人間は無力であるということを初めて目にしたような映像だった。

その日から、被害の大きさや悲惨な状況を伝える映像が連日報道された。
福島第一原子力発電所は地震とその後の津波によってメルトダウンが起き水素爆発したりで放射性物質が放出される事故が発生。電力供給不足と同時に近隣へ甚大な被害をもたらした。しばらくの間、電力の供給が安定しないこともあり”計画停電”という取り組みもされた。

電力供給だけでなく、津波によって多くの人命が奪われた。
10年経過した時点で、東日本大震災関連での死者、関連死、行方不明者は22,000名以上。そのうち行方不明者は2,500名以上いるようです。

東日本大震災によって学ぶこと

”未曽有の被害”、”想定外の津波”、”奇跡の一本松”
その当時、いろいろなワードが生まれました。
10年経った2021年も各メディアは悲劇の事実を伝え、その事実から国民は、何が悪かったのか、どうして被害がここまで大きくなってしまったのか、どこに問題点があったのか考えさせられ、同じ過ちが起きないように、この起きたことを忘れないよう、風化させないようにとアクションしている。

でも、どのくらいの人が自分事として東日本大震災でおきたことを捉え、10年目のこの日を迎えたのだろう。
人でなしと言われるかもしれませんが、自分は、本気で自分事として捉えてなにかアクションを起こさないとは考えられなくなってきてしまっている。もちろん家族を失った方の心にはこの震災でおった傷があり、今もつらい思いをしていることも分かりますし、悲しみが完全に癒えることがないことも分かります。とんでもない地震が起きて多くの人が亡くなった悲しい出来事であることも後世に伝えていかないといけないとは思う一方で、その点について後世に伝えていかないといけないのかが分かっていない自分がいる。

同じように人の生き死にに関係する出来事として戦争もあるが、地震と戦争は全く別。戦争は人が発生がさせてしまうものなので、戦争の悲惨さを伝え、その悲劇を発生させないようにすべきであるとの戒めの念を込めて風化させない取り組みは必要と思う。
ただ、地震は天災。
自然の前には人間は無力である。
たしかに津波にで家屋が流されてしまわないような取り組み、公共事業、インフラ整備をすることは必要ではあるが、人が亡くなりその悲しみが癒えていない遺族に対して、自分は何ができるのだろう?と考えてしまう。

いまは『命の大切さと儚さ』と『後悔しないように日(時間)を過ごす』ことを子どもたちには伝えていこうと思います。

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