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【考えごと】怒るとか、怒らないとか


わたしはここを、Twitterでは書ききれない事柄を書き残すための補完として使っている部分がありまして。
今回の文章は、そのひとつです。

正直、明確に何かしら有益なものをもたらせる一本ではありません。
あくまでゆらゆらした葛藤の記録です。
でももし、何かしらが読んでくれた貴方の心にひっかかり、何かを考えるきっかけになってくれたらいいな、という希望はちょっぴりだけどあります。
良かったらともに考えよ。


昨今のあれこれ

Twitterを見ていると、界隈の内外を問わず、絶えず誰かが何かに怒っている。
おすすめタブができてからその傾向は如実に顕著になっていて、世間にはこんなにも何かに怒っている人が存在しているのか…と驚いたり、シンプルにそのことに気が滅入ってしまったりする。

それで、ただ見ているだけでは自分もよくない方向に流されていってしまいそうだな…と思ったので(というかすでに怒るだとか怒らないだとか、そういうものの境界への身の置き方がよくわからなくなっている)、一度、怒るとか怒らないとかについて、自分の考えを整理しようと思ったわけなのです。

主にはアイドルオタクの視点から、です。

怒るを選ぶ理由、怒らないを選ぶ理由
ちょっと整理してみる(わたしの場合)

【怒るを選ぶ理由】
・はらわた煮えくり返って外に出さずにはいられないから
・誰かに共感して欲しいから
・言葉にすることで傷を癒したいから
・同じ気持ちだと表明することで、誰かの救いになるかもと思うから
・世間が少しでもよいものになってほしいから

【怒るを選ばない理由】
・わたしはそのことについては、わたしの感情としては怒りが沸いていないから
・少なくとも快の感情を与えるものではなくて、怒りの感情を表すことで誰かを傷つけてしまうのが怖いから
・わたしの言葉で怒れないから
・わたしが怒ることに意義を見出せないから
・楽しい話よりもずっと重い責任を負う必要があるから
・それよりも楽しい話をしていたいから

怒るか怒らないか、迷う

怒りを帯びた言葉たち、たしかに気持ちいいものではない
他者にそういう気持ちを与えてしまうのが嫌で、飲み込んだことがいっぱいある
それでもここ(TLの内外問わず)を覗けば、ほとんど毎日誰かが誰か(もしくは何か)に対して怒っていて
自分にとってはその感情を呼び起こすものでなくても怒らなきゃいけないような気持ちになること、ある
怒らされてる、とでも言いましょうか
一方で、これだけはどうしても…!って許せないことがわたしにはあって
そういうのを見ると、すぐに冷静ではいられなくなって
でも、ここにそれを吐き出してしまうと誰かをきっと少なからず傷つけてしまうから、飲み込んだり、できる限り柔らかいかたちにして出力しようと、努力したいなと思ったりする
(当然、うまくいかないこともある)
怒ると怒らない、どっちが正解なんだろうって、時折思う
当然、万人に万物に共通の正解なんてないのだけれど

それでも、怒るべきか怒らないべきか
そこに迷いが、葛藤が、生じるので
それで消耗することって、あるよね
わたしのこころは決して強靭ではないので、正直なこと言うと、できれば見たくない
でも、そういう声のおかげで自分の倫理観がブラッシュアップされたり、知見が広がったりすることもあるので、すべてを悪だとも思わない
共感できるそれならば、時に救いにだってなるわけだしね

でも、逆鱗はひとによって違うので
齟齬を起こしたとき、どうしたってつらい
自分にとっては流せることに対して怒ってる人を見ると、自分も怒らなきゃいけないのかなって気になったり、そんな感情の湧かない自分の倫理観を疑ったり、ただただ窮屈だったり
逆に、自分だけが怒ってるときは
自分の心が狭いように思えてげんなりするし、あったかくいられる人の方が正しいような気になることもある

怒るべきか、怒らないべきか
難しくて、よくわかんなくなる
ケースバイケースだし
こうして喋るのも、無知を、浅はかさを、露呈させているようで怖かったりします

怒りって、守り?

ひとに対する、誹謗中傷めいた発言って散見される
それに怒ってると、標的となってしまったひとのことを大切にしているように見える
でも、そのひとが攻撃されているということを広めてしまうという側面もあって、それは見た側としてはあまりいい気はしない
万が一ご本人に届いてしまったら…とも、思ってしまう
だから、怒るというよりは
誰のことも何のことも傷つけず、ただそのまんまそのひとへの肯定を続けることが、守ることへのいちばんの近道ではと、わたしはそう思っている節がある

じゃあ、静観するのがよいのだろうか?

でも、それだと無関心で、容認しているように捉えられてしまいそうですごく居心地が悪い(ことがある)
それが理由で声をあげずにいられなくなってしまうこと、身に覚えがあるひとって少なくないのではないのでしょうか
雰囲気によって怒らされている、見せるための怒り、とでも言いましょうか
とはいえ自分の意見を持つことは大切だし、権利もある
自分が怒っていることについてはちゃんと主張して~よな~って思う
それができない世界なんて嘘だよ、ともね

どうあるのが正解なのだろう

わたしは怒りを抑えるべきだと思いがち派、であった
何かあるとすぐ有象無象の怒りで埋まってしまうTL
突っつくことで燃え盛る、だからその火種なんて
ないものとして扱う、が正解だと長いこと思ってきた(学生時代の教科書にもそう書いてあった、やけにはっきり覚えている)
実際のところ、どうなのだろう
それでは道義に反することが蔓延る世界になりやしないか、とか
考えては、わからなくなる

結論はありきたり

結局のところ、自分がこころから怒っていることに対してのみ、なるべく表現を練ったうえで、誰かを傷つけるリスクを最小限に抑えたうえで、発言する
ひとの怒りについては、自分にとって湧き起こっていないものである場合は、消耗しないように適度に流す(わたしたちの生きるフィールドはTLではないわけですし)
自分に足りない価値観があったら、その中でちゃんと学ぶ
というのが落としどころかな、と
ありきたりでちっぽけで、何も解決しなくてやんなるけどね
SNSをなるべく居心地のいいものにしたい、そのために一歩一歩やれることをやるしかない、すべてを解決する魔法なんてないんだよね
わかんなくなっちゃったら、シンプルにまたここに立ち返ろうと思います
そして改善の余地を見つけたら、ちょっとずつアップデートしていきたいね

わたしの結論はこれだけど

でも、ひとの数だけ正解があるんだろうなって思います
共感できるものばかりではないかもしれないけど、理解したいし知見は広げたいので
わたしはこう思うよ、っていうのがあれば、聞いてみたいなって思います

本当は怒る必要すらない、平和な世界があるならそれがいちばんの理想だけどさ
でもそうでない以上、どこかで折り合いをつけなければいけないと思うので
自分なりの正解、それぞれに、でもともに、探してゆきましょうね
それが一歩でも平和に繋がればいいなって祈りを込めまして

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