
廉さんへ、やっとわかったことがあります
「皆さんが思ってたかもしれないたかがファンっていう存在が、俺らにとっては、アイドルっていう活動を続ける意味になったってことを、知っててほしいなって思います」
永瀬廉さんに出会ってからというもの、大切に宝箱にしまっておきたい言葉に幾つも出会ってきましたが、中でもひときわ忘れられないひとつです。
今でもよくSNSで語り継がれるのを目にすることがあり、それだけ多くのひとのこころに、濃く深く刻み込まれたのだろうと実感します。
わたしも例外ではありません。
しかしながらわたしは貴方のファンでありながら、この言葉の対象に自分が含まれているのだと、長きにわたってうまく認識できずにいました。
もっと言えば、この言葉を有り難がる風潮に対して、違和感を覚え続けていたのです。
言葉の意図に真っ向から反してしまうようで忍びないのですが、わたしは勝手に惚れ込み勝手に好きでい続けているだけの、ちっぽけでしがない1オタク。
それだけのわたしが、この言葉を勝手に恩として着るだなんて烏滸がましいのではあるまいか、と。
献身の意味さえ込められている、尊いなんて言葉ですら足りないほどの決意のこもったこの言葉を、身勝手に私物化するのがこわかったのだと思います。
その気持ちを持っておくことも大切かなと思い、それはそれでこころに留め置いているのだけど。
でもわたしには、この言葉を受け止めるための軸が、今ではもう一本存在します。
きょうお話ししたいのはそのことです。
とはいえ出鼻を挫いてしまうようで恐縮ながら、気づきに至った理由として、これといった明確な出来事があるわけではないのだけど。
でもこの言葉と出会った日から今日までに、2年とちょっと分の経験は重ねてまいりました。
その中で、ふと気がついたこと。
それは、きっと誰のこころにもあるであろう、誰かのためになりたいっていう根源的な欲求の存在です。
ひとの喜びは自分のこころを照らすからだとか、ひとに喜ばれることで自分の存在異議が肯定されるからだとか、ひととこころを通わせることで自分の寂しさが癒えるからだとか、理由はそれぞれあるだろうしもしかしたらそれらを分けることさえ野暮かもしれないけれど。
何ならそんな理由さえない、無償の気持ちだってあるはずだけれど。
何にせよ、こころから湧き出るあたたかな欲求を発端とする気持ちなら、なんか、そんなに恐縮せずにまっすぐ受け取ったっていいのでは?と、そう思えたのです。
わたしだったらって置き換えてみると。
ぽかぽかの「与えたい」の気持ちはそのまんままっすぐ受け取ってくれた方がうれしい気がして。
ひとを喜ばせたくて起こしたアクションのお返事は、困り眉じゃなくて満面の笑顔であってほしい。
ちょっと、見え方が変わりました。
思えば、廉さんは、ひいてはKing & Princeのおふたりは、好きになって欲しい、幸せになって欲しいって気持ちで日々あれこれ動いていらっしゃるわけで。
その気持ちを象徴するかのように、昨年は海人さんとおふたりで会社まで設立されている。
だからわたしなんてって遠慮し拒むのも、繊細で綿密な心配りを無視するみたいでそれはそれで傲慢かなって思った。
そうじゃなくって、喜ばせたい心意気ごと、奥にある心配りごと、届いているよ!って受け取りたい。
ひとつひとつのおかげで楽しいよありがとう!って言いたい。
そう、思うようになりました。
あと、もうひとつこの言葉にまつわることで気づいたこと。
貴方のおかげで、という点では共通している、Dear My Tiaraの歌詞「あなたが誰よりもそばにいて見つめてくれたから それだけで少しずつ僕は強くなれた」
実は、これは純粋に、嬉しいなって思うわたしがいた。
きっとわたしたちの存在が、純粋に好きなひとたちの糧になることがうれしかったんだと思う。
受け取ることに恐縮しきりなわたしにとっては、申し訳なさの介在しない純粋な喜びのように感じられました。
でもちょっと立ち止まって考えてみると、ひととひととが関わり合う空間では、完璧な一方通行っていうのはきっとほとんどありえないことで。
心理学の用語ではお返しをしたい気持ちのことを返報性の原理というらしいけれど、そうやって表す言葉があるくらい、ごくごく自然で普遍的なことなのだろうと思います。
本来アイドルとオタクの関係性は、きっと一方通行の繰り返しなんじゃないかって思ったりするけれど。
でもきっと廉さんにとっては、そういうことでは足りなかったんだろうな。
その血の通った気持ちの動きこそ、廉さんが廉さんたる所以であるというか。
廉さんから滲み出るやわらかなあたたかさは、こういうところから来ているのではないか。
わたしには、そんなふうに見えています。
お互いに、にはきっと、傷だってつきものだろうけど。
それでもそう思ってくれたこと、抱きしめたい事実です。
それほどの気持ちを抱いてくれる廉さんに寂しい思いをさせてしまわぬよう、ひとつずつ丁寧に受け止めさせていただけたらな。
感銘を受けたひとつの言葉について、こうしてあれこれ考えてきたけれど。
でもこれだって、簡単に受け取れない言葉に自分なりの橋を架け、落とし込めるようにしたものにすぎなくって。
おなじ言葉を見つめたって、貴方が発したそのまんまの風景を一緒に見ることはできないことを、改めて痛感しています。
最近、よくそんなことを考えます。
アイドルである貴方を想うことは、きっとこういうことの連続で。
貴方の見せる姿は貴方の本当の本当なのか、それとも貴方が精巧に組み立てたものにすぎないのか、こちらには確かめる術がない。
言葉を交わして問いを投げかけ、相互に理解を深めることだってできない。
理解したくて考えを巡らすけれど、所詮それは妄想の域を出られない。
身のまわりの人間関係を思うと、改めて曖昧で不確かな繋がりだなと思います。
先のお話と矛盾するようだけど、これはこれで心得ておくべきだとも思っています。
それでも貴方の発してくれる言葉、見せてくれる表情や仕草に、好きの瞬間は数え切れないほど。
毎秒と言っても差し支えないかもしれません。
知り得ないお姿があって当然の、掴みきれない気持ちだけど。
それでもこころに宿る灯火、その存在は真実です。
今年もたくさん、大好きだって言わせてね。
曖昧でも捉えきれなくても、たしかなぬくもりの交換はできること。
貴方はわたしに教えてくれました。
永瀬廉さん、26歳のお誕生日おめでとう。
26歳の貴方と歩める1年のお約束、なによりのとびきりの喜びです。