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映画 悪い子バビー

夏に映画を見に行った時、気になった映画の前売り券を3枚買ったのですが、なんとすでに全て公開中ということに先日気づき、一番上映回数が少ないこちらを先に見てきました。

見ようと思ったきっかけはタイトルとビジュアルとかな。
あと、チラシに書かれた「奇妙で無情で過酷でも愛に溢れた人生」。
まぁバッドエンドではないのかな、って思って。
元々感情移入しやすいので、バッドエンドのものを見ると数日は引きずるので、20代まではそれでも見ていた時もありますが、30代過ぎてから余程じゃないと見ないんです。
で、実際どうだったのか。
いや、パンフレット買っといてよかったです。
ラストは言わばハッピーエンドとも言えるのですが、うーん、けど親殺しもしてるわけで、うーん、そんなに人生うまくいくのか??とか、ちょっと心配というかモヤっとしたものがあったんですが。パンフレットに春日武彦さんが寄稿されているものを読んで、うんそうそう、そうだよな、きっとまた彼はあらぬことをしでかすんじゃなかろうか、、と思ったり。
けれど、もう一人、樋口毅宏さんの寄稿で「『悪い子バビー』は神から罰せられることはない。目を潰す罰もない。ありのままのあなたを承認する」という一文に、そうか!そういうことか!!と、モヤっとしたものがスッとなくなり、ストンっとこの映画が腑に落ちました。
この映画には宗教が色濃く映し出されているのですが、でもそれをロックで打ち壊すわけでもなく、やはり宗教歌がそこには流れ完全に脱することは決してない。それはなぜなんだろう、って。
で、その一文で気づいたことは「あぁバビーの純粋さが神に愛されているからか。神に愛されるっていう本当の意味はこういうことなのかもな」ってことです。まぁ個人的な意見ですけれど、私はそれで腑に落ちた、というか。
例えば、バビーや妻となるエンジェルの親たちのようにどれだけ信仰心があったとしても、それが神から愛される理由にはならないんだな、って。
エンジェルを醜いと罵る親の姿を神は愛するのか?その方が醜いですよね。どんな姿の娘でも愛しむ親の方が美しい。
バビーの親は神を利用することで息子をコントロールする。醜いの極みで、神から愛されるわけもない。
人を愛すること、それを皮肉にも彼を無知で無垢で凶暴な存在に育てた彼の母にボディーラインが似ているエンジェルの心に触れることで、バビーは知ることになる。
無知で無垢で時には凶暴だけれど純粋で愛を持てる男。
神が愛する人間っていうのはそういうことなのかな、と。
信仰心ゆえに争ったり信仰を振りかざして利権争いをする人間を神は愛さないだろうな。
って思ったときに、いやぁ、、すごいタイミングでこの映画がブッ込まれてきたなぁ、って思いました。日本においても世界においても。
最後のエンドロールで知ったのですが、この映画、1993年の映画なんですよね。
施設で暮らす人たちも出てきますが、そうだ、この時代って今よりも多様な人がスクリーンに出ていた気がするなぁ、ってことを思い出し、あの映画なんだったっけな、ってキーワードでググったのがこの映画です。

テレビでやってたんじゃないかなぁ、朧げなんですがなんとなく覚えてます。
今は多様性が叫ばれている割に、お互いがお互いの距離を考え過ぎて、結局触れ合わないままスルーする、ってことが多いんじゃないかな、ってのも思いました。
1993年の映画ながら、今まさに観て考えさせてくれる良い映画なんじゃないかって思います。
(R-18指定なので、それなりの描写は出てきますので苦手な方はスルーを。)
あ、あと節目節目で宗教歌が流れるのも印象的ですね。観てる時は気づかなかったけれど、こうやって書き出していると気づきます。
あれらは神の祝福だったのかな、とか。
あ、あとあと、バビーが悪い子ではないのは、彼に恋した施設の女の子(名前ど忘れしてしましましが)を泣きながら抱きしめるシーンで明白になってるんじゃないでしょうか。
書き出していくとまだまだ色々気付きが出てきそうですが、ここら辺で。
(たぶん、最初の状況が悲惨過ぎて引き摺りながら見ちゃってたから、改めて書き出していくと冷静になって思い返せているのかな。)

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