左派を変えたウクライナ戦争…ドイツ、米国、日本2022/03/10 10:00. サイバーの安全保障はリアルな防御から2022/01/13 10:00. 防衛費を眺める 最適な立ち位置2022/01/10 09:19読売新聞PDF魚拓






 合理的な予想や、性善説的な期待が裏切られた時、理想とは遠くても「より悪くない」選択をしなければならないことがある。ロシアによるウクライナへの全面侵攻に対し、これまでの立場を大きく転換したドイツの左派政権の対応は、象徴的な例だろう。

 日本にとっては、中道リベラル寄りと目され、「新時代リアリズム外交」を掲げる自民党の岸田文雄首相や、権力の座から10年近くも遠ざかっている野党の左派リベラル勢力が、米欧中心に築かれた「戦後秩序」を脅かすウラジミール・プーチン露大統領の暴君ぶりを前に、これまでの政策を修正するのか、しないのかを考えるうえで、参考になる。



世界を驚かせた独ショルツ政権の転換



 欧州では過去、ロシアの蛮行に対する各国の足並みがそろわなかった最大の要因はドイツだと言われてきた。

 理由はいくつかある。

 歴史的には、東西に分断されていたドイツの再統一を、ロシアの前身だったソ連が受け入れた「恩義」が指摘されている。

 経済的には、ロシアの天然ガスに対するドイツの依存度の高さがある。

 この四半世紀のドイツのエネルギー政策は、1998年に中道左派の社会民主党(SPD)と環境問題解決に向けた急進的な政策を掲げる緑の党の連立政権ができて以来、「脱原発」と「再生可能エネルギーの拡大」の両輪で進められてきた。

 今や総発電量に占める再生可能エネルギーの比率は40%を超え、原子力の比率は2000年の約30%から、ここ数年は12%前後まで減った。

 その分、00年まで10%以下だった天然ガスの比率は、今では15%前後で推移している。「脱原発」を続けながら、再生可能エネルギーの比率を現状の倍にするまで安定的な電力供給を行うには、天然ガスの利用が欠かせない。

ノルトストリーム2のパイプライン=AP

 問題は、ドイツ国内で消費される天然ガスの90%以上が輸入で、その50%超をロシア産に頼っていることだ。ロシアの天然ガスをドイツに運ぶ海底パイプライン「ノルトストリーム2」の建設は、ドイツがより安く天然ガスを輸入することを可能にし、同時に、ロシア依存を強めることになるはずだった。

 米国はドナルド・トランプ前大統領の当時から、ロシアがエネルギーを盾に周辺国や米欧諸国を威圧して自国の利益を不当に主張することを警戒し、ノルトストリーム2に反対する姿勢を示してきた。

 21年に、就任から日の浅かったジョー・バイデン米大統領を説得し、ノルトストリーム2を容認させたのは、アンゲラ・メルケル独首相(当時)だ。

 中道保守のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)を率いたメルケル氏は、05年にSPDとの「大連立」で首相に就任して以降、再生可能エネルギーの拡大と脱原発の政策を踏襲しつつ、電力料金の高騰などに対応するため、原子力を「つなぎ」として活用する政策へと修正した。10年のことだ。

 ところが、直後の11年に東京電力福島第一原子力発電所の事故が発生し、メルケル政権は「脱原発」の先送りを撤回したため、ノルトストリーム2による天然ガス輸入は、以前にも増して重要となった。

ベルリンで記者会見するショルツ首相(左)(2022年1月)=ロイター

 メルケル氏の政界引退表明後に行われた21年秋の総選挙の結果、同年末に発足したSPD、自由民主党(FDP)、緑の党の3党連立によるオラフ・ショルツ連立政権は、30年までにドイツ国内の電力供給の80%を再生可能エネルギーでまかなうとする、これまで以上にハードルの高い目標を打ち出した。

 野心的なゴールは、ロシアの天然ガスの存在感をますます高めた。

 こうした背景もあって、ショルツ首相がウクライナ危機の当初に見せた煮え切らない態度が、プーチン大統領に「どうせ、G7(先進7か国)は大したことはできない」と思わせた可能性は否定できない。

 それだけに、ショルツ首相がロシアのウクライナ全面侵攻直前の2月22日にノルトストリーム2の計画凍結を電撃的に発表した時は、ロシアのみならず全世界が驚くことになった。
「核シェアリング」維持とF35購入が示すもの



 ドイツの政策転換は、ほかにもある。

 これまでは原則、紛争地域を除外し、北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)加盟国などに限定してきた武器供与を、NATO非加盟国でロシアと戦火を交えているウクライナに行うと決めた。



 2月26日には、米国、欧州連合(EU)、英国、フランス、イタリア、カナダとともに、ロシアの侵攻に対する追加制裁として、世界最大級の国際決済網である国際銀行間通信協会(SWIFT、本部・ベルギー)からロシアの金融機関を排除する方針を発表した。

 ドイツの対応次第では実現が疑問視されていたものだけに、ショルツ政権の決断が果たした役割は大きかった。

 ショルツ首相は、ドイツ防衛費を増額し、NATOが求めていた国内総生産(GDP)比で2%を超える水準に高めることも表明している。

 一連の政策転換には、日本政府関係者も衝撃を受けた。

 ロシアに対して約1300億円の与信残高を持つ日本の政府系金融機関、国際協力銀行(JBIC)幹部は「ドイツは腹をくくった」と驚く。

 「ノルトストリーム2の凍結宣言からは、『脱原発』を当面、棚上げする意図が伝わってくる。SWIFTからのロシア締め出しも、ドイツ経済に大きく跳ね返る可能性が高い。保守派のメルケル政権であればともかく、左派のショルツ政権がここまでやったことに驚かされる。日本で、岸田政権や野党のリベラル派に、こんな決断ができるだろうか」

 発足からまだ100日間の「ハネムーン期間」だというのに、ショルツ政権にはウクライナ危機をはじめ、次々と試練が襲いかかった。かりにロシアが侵攻に踏み切らなかったとしても、ドイツの左派政権が安全保障政策で「タカ派」的な対応をとらざるをえない国際環境になっていたことは間違いない。

 だからこそ、ロシアのウクライナ侵攻以前にも、ショルツ政権は核兵器禁止条約の締約国会議にオブザーバーとして出席することを表明して左派政権としての面目躍如の一方、SPD内に根強かったNATOの「核シェアリング」から脱退すべきだとする声を抑え込み、その継続方針を明確にした。

 NATO加盟の非核保有国が、米国の戦術核の提供を受けて使用することができる核シェアリングの枠組みについては、中国、北朝鮮、ロシアという権威主義や独裁体制の核保有国に囲まれた日本の安全保障環境をふまえ、安倍晋三・元首相が議論の有益性を示唆したことで、日本でも注目されるようになった。

 日本では、プーチン大統領が核兵器の使用を示唆して欧米諸国をどう喝するようになった後も、岸田首相をはじめ中道リベラルや左派を中心に、核シェアリングを否定する意見が大勢だ。

ドイツが導入する予定のF35戦闘機=AP

 ショルツ政権の「本気度」は、核シェアリング維持に伴い、核攻撃での使用が想定される戦闘機トルネードの後継機種にステルス性の高い米ロッキード・マーティン社製F35の購入を決めたことでも分かる。

 敵のレーダー網をかいくぐって爆撃を行うステルス戦闘機のイメージは、二度と侵略戦争はしないと誓った戦後ドイツの国是にそぐわないとの受け止め方があり、左派勢力の間では評判が悪かった。このため、ドイツ政府は過去に、トルネード後継機の候補からF35を外した経緯がある。

 F35の購入は、核シェアリングに真剣に取り組む姿勢をアピールする効果もあり、戦後ドイツの安全保障政策の転換を象徴するとの受け止め方もある。

 メルケル前首相に比べて影の薄かったショルツ首相が、自由と民主主義を脅かす独裁国家の本性を目の当たりにして、党是に反しても、自国が経済的な不利益を被ってでも、守らなければならない「価値観」があるという確信を行動で示したと言える。
「米国第一主義」の急進左派の影響力からの脱出



米国のバイデン大統領=ロイター

 米国でも、民主党内の急進左派に押されがちだったバイデン大統領が、ウクライナ危機をきっかけとして、本来の中道路線に回帰しようとしている。

 バイデン政権がリベラル左派路線に軸足を移した背景には、2020年の大統領選の苦戦があった。

 民主党候補を決める予備選・党員集会で、元副大統領としての実績と知名度で臨んだ中道のバイデン氏が、急進左派のバーニー・サンダース上院議員を相手に当初は劣勢を強いられた。

 序盤に行われた9州での予備選・党員集会で、バイデン氏がサンダース氏を上回ることができたのは4州だけだった。

 初戦のアイオワ州での党員集会では、同じ中道ながら年齢的にはバイデン氏より40歳近く若く、今はバイデン政権の運輸長官を務めるピート・ブディジェッジ氏に水を開けられ、サンダース氏が2位、バイデン氏は4位に終わった。

 その後、各州での大統領候補選びが続く中、ブディジェッジ氏ら中道派の候補がレースから次々と撤退し、こぞってバイデン氏の支持に回る一方、急進左派側はサンダース氏とエリザベス・ウォーレン上院議員の有力2候補をなかなか一本化できなかった。バイデン氏の指名獲得は、急進左派の“敵失”に救われた面もあった。

 だからこそ、民主党候補に選ばれたバイデン氏は、当時の現職だった共和党のドナルド・トランプ大統領に勝つために、自らの政治理念を前面に打ち出すより、左派も含めた民主党内の結束を優先させた。

 16年の大統領選で民主党候補のヒラリー・クリントン元国務長官が党内の急進左派やサンダース氏の支持者を取り込めず、トランプ氏に競り負けた苦い経験があるからだ。

 左派の求める最低賃金の引き上げや、子育てや教育への思い切った財政出動を政策綱領に反映させながらも、バイデン氏は急進左派にとっての「本丸」とも言える「国民皆保険」の実現や、大胆な地球温暖化対策への「満額回答」を避けたという意味では、「左」へのシフトは、大統領選を乗り切るまでの方便ではあった。しかし、大統領選とともに行われた連邦議会の上下両院選で民主党は思うように議席を伸ばせず、二大政党の議席数が 拮(きっ)抗(こう) している上院では急進左派の数人が政策の成否を左右するキャスチングボートを握っているため、「左」シフトを続けるしかなくなった。

 一方、共和党は今年11月の中間選挙に向けて、バイデン政権の「大きな政府」路線など「左傾化」をターゲットにした批判を繰り広げている。

 根強い支持者を持つトランプ氏を中心に、バイデン政権が外交・安全保障で成果を出していないと非難する声も続いていたことから、それまで内政問題にエネルギーを割かれてきたバイデン政権が、ウクライナ危機を契機に外交・安全保障政策に本腰を入れるようになったのは、当然の流れだった。

 結果として、ロシアの武力行使を止められなかったとはいえ、G7をはじめ国際社会に連携を呼びかけ、一枚岩ではなかったEUの結束ももたらし、バイデン大統領の大統領選での公約であり、「売り」でもありながら空回り気味だった「国際協調主義」を、名実ともに前進させることにもなった。

 民主党の急進左派にくすぶる、トランプ前大統領と似た「米国第一主義」の発想に基づく軍事費の削減を求める主張や、海外の紛争と距離を置く傾向がウクライナ危機の前にかすむことがなければ、バイデン大統領はどこまで自分の流儀を取り戻すことができただろうか。

 ドイツとは事情も発想も異なるものの、ロシアのウクライナ侵攻が米民主党内の左派と中道派のバランスを変えたと言える。
丁寧さが求められる台湾有事の議論



 日本はどうか。

 ロシアの行為を非難する点で、保守派とリベラル左派の間に溝はない。

 むしろ、対露制裁を決めるタイミングなどをめぐり、「もっと果断に」と求める意見は、野党側からも強まっている。

 ロシアにとってのウクライナと、中国にとっての台湾を重ね、「台湾有事」になれば日本は傍観者でいられないとして、安全保障政策を転換する「覚悟」を求める保守派の声は高まっている。

 対するリベラル左派も、台湾有事に絡めた防衛費増額や、米軍と自衛隊の一層の連携を求める主張に対しては、「一時の勢いで決める話ではない」といった慎重論は根強いものの、台湾有事の可能性に触れることそのものが危機を招くとして議論にさえ後ろ向きだった態度は、変わりつつある。

 ただ、中国・台湾事情に詳しい専門家は、「日本の世論に比べ、台湾の世論の方が中国の軍事侵攻の蓋然性を低くとらえる傾向がある」として、「台湾有事をめぐる議論そのものを深めるのはいいが、より 緻(ち)密(みつ) な議論にしていく必要がある」と、前のめりになり過ぎることへの警鐘を鳴らす。

 ウクライナでも、ロシアによる侵攻直前まで首都キエフがにぎわいを見せ、侵攻は起きないという楽観論も聞かれたというから、世論が正しいわけでもない。それでも、「過剰反応」が議論をゆがめる可能性には、留意した方がいいのだろう。

 例えば、プーチン大統領の核兵器使用を示唆する発信を受けて、安倍元首相が口にした核シェアリングについては、これまでの経緯を無視した過剰な積極論も、耳にするのもけがらわしいと言わんばかりの過剰な反発も、益がない。

 米国の「核の傘」に依存した日本の安全保障政策を再検証し、「核抑止」のあり方を考えるべきだという意見は、専門家の間では以前からあった。これまではリベラル左派を中心に、議論そのものに対するアレルギー反応が強かったものの、ロシアの蛮行やドイツの選択を受けて、頭から否定するのではなく、一つの選択肢として議論する土壌を作った方が、より有益な答えが見つかるように思える。

岸田首相

 岸田首相は国会答弁で、核シェアリングは非核三原則の「持ち込ませず」と相いれず、非核三原則を堅持する立場から検討はしないと明言している。

 今の自民党総裁が岸田首相ではなく、保守タカ派の安倍氏だったとしても、実際に政権を預かる立場で核シェアリングの議論を軽々に打ち出したとも思いにくい。

 自民党内でも賛否は割れ、福田達夫総務会長のように、議論自体をタブー視すべきではないといった立ち位置が落としどころのようにも見える。

 NATO内の核シェアリングと日米同盟の中での核シェアリングでは、環境も条件も異なる。

 核抑止の再検討を訴える専門家の間でも、一足飛びに核シェアリングに行くのは国内世論の支持を得ることは難しく、まず、非核三原則の「持ち込ませず」の是非から着手した方がいいという意見がある。

 そうした要素も勘案し、丁寧に「緻密な議論」を進める姿勢が大切だろう。

 話をすること自体が危険だと敬遠する風潮が続けば、「万が一」への備えは不十分になる。

 経済的な利益や党是より、優先して守らなければならないものがある。

 その発想があってこそ、リベラル左派も保守タカ派も、あらゆる政治勢力が共感できる「新時代リアリズム外交」を見いだすことができるように思う。



プロフィル

伊藤 俊行( いとう・としゆき )

 編集委員。1988年、読売新聞入社。金沢支局を振り出しに、93年から政治部で政党、選挙、外交・安全保障を取材、96~97年にハーバード大学国際関係センター日米関係プログラム研究員、2003~05年にワシントン特派員。調査研究本部主任研究員、国際部長、政治部長を経て20年から現職。

左派を変えたウクライナ戦争…ドイツ、米国、日本

2022/03/10 10:00




シリーズ第1作から22年、最後の第3作から18年を経て2021年暮れに日本公開となった映画「マトリックス レザレクションズ」は、サイバー空間と現実世界をグロテスクに対比させた描写が健在だ。

 それより少し前に公開された「フリー・ガイ」では、AI(人工知能)によって自律的に動き始めたオンラインゲームのモブキャラクター(名前の与えられていない群衆)と現実世界の人間の関わり方が印象的だった。

エンドロールとともに危機は消えてくれない



 電脳空間、仮想空間と呼ばれる世界が広がり、利便性の向上とともにサイバー攻撃のリスクも多様化し、深刻化している。

サイバー攻撃のリスクは深刻化している

 かつては、映画のエンドロールとともに現実世界での危機感は消えた。

 今は、サイバー空間の出来事が、現実世界に脅威を与えるようになっている。

 サイバー攻撃によるリアルな物理的被害が相次いでいるからだ。

 岸田文雄政権は22年度政府予算案の「目玉」の一つとして、サイバーセキュリティーの強化を掲げる。

 サイバー空間を通じた現実世界の防御に対する警戒は強まっている。その際、見落とされがちなのが、現実世界でのリアルな防御のあり方だ。



物理的被害をもたらすサイバー攻撃



 重要なインフラ(社会資本)や生産設備に深刻な被害を与えるサイバー攻撃は近年、多発している。

 記憶に新しいのは、2021年5月に起きた米コロニアル・パイプライン社に対する、「ダークサイド」と呼ばれるグループが関わったランサムウェア攻撃だ。

 サイバー空間に構築されたシステムに不正に侵入し、データを暗号化して使えなくしたうえで、データを復元する代わりに「身代金」を要求する「ランサムウェア」によって、米国の東海岸の燃料供給の約5割を占める同社の操業は、6日間にわたって停止した。

 それ以前にも、08年のトルコでの石油パイプラインの爆発、10年にイランの核燃料施設で起きたウラン濃縮用遠心分離器の稼働停止、15年のウクライナでの大規模停電、17年に日本、フランス、英国で発生した自動車工場の稼働停止、19年のノルウェーでのアルミ生産工場の生産減速などが、サイバー攻撃の事例として知られる。

 中には、上水道に投入される薬品の量が変更されるといった、対応を間違えば多くの人命を奪いかねない事案もあったという。



日常生活に重大な影響



 一連の事例を分析したトレンドマイクロ社の石原陽平・セキュリティエバンジェリストは「新しい技術の登場で、それまでのシステムの安全性が損なわれる『 危殆化 ( きたいか ) 』が起きる」と警鐘を鳴らす。

製造管理システムがネットワークでつながる「スマート工場」が増えている

 モノとインターネットをつなぐ「IoT」が広がることで、サイバー攻撃の影響は、インターネットとつながった自動車、産業用ロボットや製造管理システムがネットワークで接続された「スマート工場」などにも及ぶことになり、国の経済や人々の日常生活に重大なリスクを与える。

 オンライン上の情報のやりとりを暗号化して防御していても、今のコンピューターでは暗号解読に1000年かかるような組み合わせを、量子コンピューターなら2日程度で済んでしまうという。
「おとり企業」に攻撃、8日に1度!



 現実には存在しない企業をオンライン上に設定し、どの程度の頻度でサイバー攻撃を受けるかという「おとり捜査」ならぬ「おとり実験」の結果も、IoT化が進む将来への懸念を強めるものだった。

「にせ企業」へのサイバー攻撃が確認された

 おとり実験は、2019年に240日間、試作品の製造やコンサルティングに特化したスタートアップ企業(革新的な商品、サービスで新たな市場を開拓する創業間もない企業)をサイバー空間上に出現させることで行われた。

 実際の工場の環境を再現した「おとりシステム」を作り、この企業のホームページにはそれらしい「にせ役員」たちも顔写真と経歴つきで登場している。

 約8か月の実験の結果、この「にせ企業」に対して30件のサイバー攻撃が観測された。

 8日に1度はスマート工場がサイバー攻撃を受けていた計算で、このうち、ランサムウェアに感染させられた事例は2回、生産システムに影響が出る被害が6回だった。



「スマート化」で高まるリスク



 石原氏は「背後に国家がいるような攻撃グループは、この工場がおとりだと気付いた可能性もある」として、攻撃の多くは小規模な攻撃者によるものだったと見る。

 それでも、攻撃の5度に1度は、実際の工場であれば物理的被害を引き起こされかねなかったのだから、懸念される。

 石原氏は「スマート工場はIT(情報技術)で高度に自動化されているうえ、デジタル資産(暗号資産)も増やしている。観測されたサイバー攻撃の中には、こうした資産を標的にしたものもあった。多くの工場がスマート化されていくことに伴い、サイバーセキュリティーのリスクも増える」と見る。

病院がコンピューターウイルス「ランサムウェア」の被害を受けたことを報じる読売新聞記事(2021年12月29日朝刊)

 そのうえで、「コロニアル・パイプライン社の例でも分かるように、重要インフラにかかわる民間企業がサイバー攻撃を受ければ、社会的な影響は大きい。その割には、サイバーセキュリティーの構築は民間に依存する部分が大きい。政府と民間の連携をもっと考えていく必要がある」と問題提起する。

 最近では、病院に対するランサムウェアの攻撃で、16年から21年にかけて少なくとも11の病院で被害があり、救急搬送の受け入れや手術などに影響が出る事例もあったことを、読売新聞が特報している(21年12月29日朝刊)。



DXによる弱点の分散化



 トレンドマイクロ社が1月12日に公表した「2021年サイバー脅威動向総括」では、<1>ビジネスのデジタル化(デジタル・トランスフォーメーション=DX)による弱点の分散化<2>サプライチェーン攻撃による企業間をまたがる攻撃の増大<3>サイバー攻撃によるビジネス継続リスクの業界全体への波及――の3点への対策が急務だと指摘した。

 ランサムウェアで被害を受けた業種は、多岐にわたる。



 ここでも、説明にあたった同社の岡本勝之・セキュリティエバンジェリストが、「実世界」での対応が必要だと強調していたのは、印象的だった。

 企業のネットワークに入らせないようにするための「防護壁」は、アカウントとパスワードの認証だけでは成り立たなくなっている。

 数社がセキュリティーに対する意識を高く持っていても、そことつながる他企業が多ければ、ネットワークに直接侵入されるリスクは高まる。

 認証を三重、四重に増やしても、攻撃者は突破を図り、いたちごっこが続く。

 そこで、有効と考えられるのが「コンテキスト・ベース」の認証だという。

 例えば、いつも国内からアクセスするアカウントが国外からアクセスしているといった情報や、アクセスの権限を与える相手が反社会組織と関係はないか、多額の借金を抱えていないかといった「実世界の関係や状況(コンテキスト)」をチェックすることも、サイバー空間の安全にとって意味がある。

 岡本氏は「かつて、ネットは別世界と思われていたが、今は実社会の一部になっている。社会全体でセキュリティーを考える時だ」と訴える。
高市氏の存在が追い風に?



 サイバーセキュリティーが政治の大きな課題となってきたのは、この10年ほどのことだ。

深刻化するサイバー攻撃に対応するため、陸上自衛隊はサイバー防衛の専門家育成を始めた。「システム・サイバー特別講座」を受ける生徒たち(2020年、神奈川県横須賀市の陸自高等工科学校で)

 2014年11月には議員立法で「サイバーセキュリティ基本法」が成立し、以降、15年1月に官房長官を本部長とする内閣サイバーセキュリティ戦略本部が設置され、自民党では17年11月に、当時の安倍晋三首相(党総裁)のもと、総裁直轄機関として「サイバーセキュリティ対策本部」が新設された。

 安倍氏が自民党の初代本部長に起用したのは、通信を所掌する総務相を長く務めた高市早苗衆院議員だった。

 高市氏は18年に編著者として『サイバー攻撃から暮らしを守れ! <サイバーセキュリティの産業化>で日本は成長する』(PHP研究所)を出版するなど、サイバーセキュリティーに対する関心が、もともと高かった。

 高市氏が岸田政権で2度目の自民党政務調査会長を務めていることも、22年度政府予算案でのサイバーセキュリティーの扱いにとっては追い風になっているようだ。

デジタル庁の発足と「危殆化」の懸念



 同予算案の防衛関係費には「サイバー領域における能力強化」として、「サイバー演習環境の整備」に12億円、「サイバー攻撃へ対処する技術の研究」に24億円、「システムの 強靱 ( きょうじん ) 化」のために64億円などが計上されている。

2022年度の予算案決定の閣議に臨む岸田首相(中央)。「サイバー領域における能力強化」などの防衛関係費用が計上された(2021年12月、首相官邸で)

 21年9月にはデジタル庁が発足し、霞が関の情報システムが新しく更新されていく時期だからこそ、これまで以上にサイバーセキュリティーに対する関心が高まっている面もあるだろう。

 なぜなら、霞が関のシステムがアップデートされるということは、前出の石原氏が懸念する「危殆化」への道を開く可能性があるからだ。

 その意味で、22年はサイバーセキュリティーにとって大切な分岐点だったと振り返る時が来るかもしれない。







海底ケーブルの「陸揚局」が狙われたら



 サイバーというと、どこか、何もないところに表れた「非物理的な存在」であるような錯覚をしてしまうことがある。

海底ケーブルが攻撃されたら、国際通信は大打撃を受ける

 実際には、サイバー空間は通信機器、海底ケーブル、データセンターといったモノによって生み出され、支えられている存在だ。

 政府がサイバーセキュリティーに力を入れるといくら宣言しても、現実世界でサイバー空間を支えているモノも守らないと、社会機能を 麻痺 ( まひ ) させかねない「穴」が生じる。

 例えば、慶応大学の土屋大洋教授らが繰り返し問題提起している海底ケーブルや、データセンターの安全の確保だ。

 日本の国際通信の99%は海底ケーブル経由だ。

 海底ケーブルそのものに対する攻撃は難度が高くても、ケーブルが地上にあがってきた場所に置かれる「陸揚局」という施設を狙われると危うい。

 海底ケーブルや陸揚局の保全は国が担っているわけではなく、通信会社や海底ケーブル製造社に任されている。

 そればかりか、陸揚局の場所はオンライン上に公開されている地図で容易に分かってしまうから、標的にされることを懸念する声も多い。
民間任せのままでいいか



 サイバー空間の存在を安定的に支えるデータセンターの保守、保全も、民間企業が担っている。

岸防衛相

 サイバー攻撃を仕掛けるグループがサイバー空間そのものを破壊するようなことは考えにくいとしても、違う思惑でサイバー空間を消し去ろうとする勢力が現れないとも限らない。

 そうした不安がありながら、陸揚局やデータセンターの場所を含め、できるだけ多くの情報を公開し、その国で暮らす人々に政策に対する判断材料を提供しなければ、民主主義の国は成り立たない。

 なおさら、重要なインフラを守る使命を全面的に民間任せにしておくわけにはいかない。

 「マトリックス」は、機械が現実の人間を「エネルギー源」として使う代わりに、人間の脳を通じて仮想空間での人生を与え、人間からリアルを覆い隠した。

 「フリー・ガイ」では、舞台であるオンラインゲームでの混乱に終止符を打とうとする人物が、データサーバーを完全に破壊しかける場面が出てくる。

 仮想空間を維持する仕組みの複雑さに比べ、それを無に帰すための手段は、実にシンプルだ。

 リアルの防御なしでは、サイバー空間の安全は守られない。



プロフィル

伊藤 俊行( いとう・としゆき )

 編集委員。1988年読売新聞入社。金沢支局を振り出しに、93年から政治部で政党、選挙、外交・安全保障を取材、96~97年にハーバード大学国際関係センター日米関係プログラム研究員、2003~05年にワシントン特派員。調査研究本部主任研究員、国際部長、政治部長を経て20年から現職。

サイバーの安全保障はリアルな防御から

2022/01/13 10:00


往路3区半ばを過ぎたランナーを迎える富士山と相模湾の眺望は、箱根駅伝の最も美しい景勝の一つだ。初夢なら一富士、新年を祝う気分を盛り上げる霊峰の姿は、季節や見る場所によって多彩に変わる。

富士山と相模湾の眺望は、箱根駅伝の最も美しい景勝の一つだ

 遠くで望むか、裾野を行くか。晴天か、雨か。条件次第で印象が変わるのは、国の予算も同じだ。

 財務省が昨年11月に財政制度等審議会に示した防衛の資料は、新たな視点を盛り込み、「国を守る」という山の全容を見ようとした試みがユニークだった。





 例えば、国内総生産(GDP)との対比で1%弱の防衛費に「防災など広義の国家の安全確保」に役立つ公共投資や科学技術費も合わせると5%となり、米英仏独と同等だと示す。「他の経費とのバランス」も加味した防衛費の議論を期待した記述だ。

 2022年度予算案で見るなら、「宇宙関係」費は防衛省分888億円のほかにも、それを上回る額が多くの府省に分散計上されている。その中には間接的でも「国を守る」ために役立つ支出も含まれる。

 「国を守る=防衛費」と紋切り型に見ると、思考は止まる。日本周辺の雲行きが怪しくなるにつれて高まる防衛費の増額を求める声も、ともすると1%、2%という数字が自己目的化した主張に陥りやすい。

気球で撮影された地球と宇宙空間(2021年10月)=岩谷技研提供

 軍人年金や同盟国への援助も国防費に含める「NATO(北大西洋条約機構)定義」だと、日本の防衛費は既に対GDP比で1%を超え、中国の1.2%と近い。日本と同様、GDPと国防費が連動して推移してきた中国の軍備増強は、右肩上がりの経済がもたらした脅威だとも言える。

 日本経済が伸び悩む中で「1%論争」を続けるより、中国経済の盛衰も展望しながら、進む道を探ることも必要だろう。











 ほかにも、面白いデータが掲載されている。

 米国は税収の18%を国防費に使い、日本の5%は仏独伊と大差ないが、税や公的保険料などの国民負担率はフランスの68%や独伊と比べ、米国の32%、日本の44%は格段に低い。

 税金は抑え軍事費は大きい米国と、税金は高く軍事費を抑える欧州。財務省幹部は「欧州は税収を国民生活に還元し、米国は国家本位で使う発想が強い」と解説する。どっちつかずの日本も「今の税負担で守れるか」「今の使い方でいいか」と自問してみたらいい。

 一連のデータを「財務省が金を出し惜しむ理屈」と切り捨てるのは、雰囲気に流されて防衛費増額を叫んだり、台湾有事の議論自体を「危機感をあおる」と否定したりするのと同じくらい、簡単で益がない。今の日本を守る最適解を考える材料は、多い方がいい。





第98回箱根駅伝。一斉にスタートする各校の選手たち(1月2日、東京・大手町の読売新聞社前で)

 今月からの通常国会で審議される22年度予算案で、防衛省は21年度補正と合わせた「16か月予算」だと防衛費がGDP比で1%を超えると説明する。増額を求めてきた自民党や米国を意識したのだろう。

 財務省は「当初予算は継続的財源があってのもの。補正予算は時々の所要に応じたもの」と、性格の異なる予算を足した数字の強調に違和感をにじませる。

 個々の役所がそれぞれの論理で走る癖が抜けず、科学技術研究の成果を自衛隊には使わせないといった空気も強い。これでは、チーム全体の快走は難しい。

 この正月、大会新記録で6度目の箱根路制覇を遂げた青山学院大学の原晋監督は、組織全体を変革せずに個人の力に頼るチームは勝てないと説いてきた。

 国家安全保障戦略や防衛計画の大綱など「国の守り」の基本方針を改定する1年でもある。個々の見栄えだけでなく、山全体の眺め方が大切になる。



プロフィル

伊藤 俊行( いとう・としゆき )

 編集委員。1964年、東京生まれ。四半世紀も政治を取材しながら、いまだ分からないことばかりの世界と格闘中。ワシントン特派員、国際部長、政治部長を経て2020年6月から現職。草サッカーチーム「鰯クラブ」で一緒にプレーした俳優、故・大杉漣さんが体現していた「あるがままに」の生き様が目標。

防衛費を眺める 最適な立ち位置

2022/01/10 09:19