インディアスの破壊についての簡潔な報告Wikipedia全米で相次ぐコロンブス像の破壊、先住民虐殺の歴史に矛先2020.06.11 Thu posted at 13:19 JSTPDF魚拓



インディアスの破壊についての簡潔な報告』(インディアスのはかいについてのかんけつなほうこく、西: Brevísima relación de la destrucción de las Indias)は、1552年にスペイン出身のドミニコ会士であるバルトロメ・デ・ラス・カサス(1484年-1566年)が著した書籍。インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述という日本語訳もある。以下、『報告』と略記する。

インディアスとは、西インド諸島やアメリカ大陸などスペイン人が到達した地域を指す。スペインの征服によって、各地の先住民が受けた被害の実態を記録したのが本書である。著者のラス・カサスは征服者から回心して聖職者になり、植民地での平和的な布教と、先住民への圧政の停止を求めて活動した。『報告』の執筆もその一環だった[注釈 1]

『報告』の内容は、スペイン本国や植民地で賛否を呼んだ。内容が恐ろしいために、事実だとしても出版するべきではないとされて禁書となり、ラス・カサスは植民者や本国の征服支持者から批判を受けた[2]。ラス・カサスは本書の記録を通して、平和的な布教の必要性、征服戦争への批判、先住民への理解などの意見を述べている。スペインによる事例が書かれているが、特定の国を攻撃する目的はなく、征服戦争そのものの停止を訴えた。しかし他のヨーロッパ諸国では反スペインの根拠として利用され、征服戦争への批判や先住民への理解は重要視されなかった[3]

18世紀以降の中南米では、独立や自治権を得るための活動が活発になり、『報告』が出版されて広く読まれた[4]。19世紀以降に起きたインディオ擁護運動であるインディヘニスモにおいても、ラス・カサスは高く評価された。現在ではラス・カサスは「インディオの使徒」や「反植民地運動の先駆者」とも呼ばれるようになった[5]

時代背景・著者

征服戦争をめぐる議論

フランシスコ・デ・ビトリア。スペインの征服戦争に異議を唱え、サラマンカ学派の始祖としても知られる[6]

1492年にクリストバル・コロン(コロンブス)が西インド諸島に到達したのち、スペインからはコンキスタドーレスと呼ばれる征服者や探検家が大西洋を渡り、アメリカ大陸の植民地化を進めた[注釈 2]。各地の先住民はインディオと呼ばれ、征服者によって多大な犠牲をこうむった。植民者によるインディオへの虐待は、早くから同国人に批判されていた[9]。初期の有名な批判者として、神学者・哲学者のフランシスコ・デ・ビトリアがいる。ビトリアは、インディアスにも理性的な社会があるという観点から、スペインの征服戦争には正当な根拠がないと論じた。ビトリアの思想は、のちのサラマンカ学派に引き継がれた[注釈 3][6][10]

ラス・カサスの回心

アントニオ・モンテシーノス。インディオへの圧政を批判し、ラス・カサスに影響を与えた[11]

著者のラス・カサスは司祭兼・植民者として大西洋を渡り、エスパニョーラ島キューバ島の遠征に参加する。その功績でインディオの奴隷と土地を分配されるが、スペイン軍による虐殺を目撃することにもなった[注釈 4]。1511年(27歳)にラス・カサスはサント・ドミンゴで行われたドミニコ会士アントニオ・モンテシーノススペイン語版英語版)の説教を聴く。モンテシーノスは、インディオに対する植民者の圧政を糾弾し、そのような行いをする者は魂の救済を得られないと語った。ラス・カサスは1514年(30歳)に奴隷と土地を返上してインディオを擁護する活動を始め、1516年(32歳)にインディオ保護官、1522年(38歳)にドミニコ会士となった[注釈 5][14][11]

ラス・カサスはスペインの征服政策を止めるために1540年(56歳)にスペインに戻って言論活動を行う。彼の活動はスペイン王室にも影響を与え、インディオの擁護を主目的とするレイエス・ヌエバススペイン語版英語版)(通称インディアス新法。1542年)が成立した[注釈 6][16]。この時期に、ラス・カサスはバレンシアで『報告』の最初の原稿を執筆している[17]

植民者からの迫害

著者ラス・カサスの肖像画。セビーリャ、コロンブス図書館蔵[18]

インディアス新法には、植民地制度であるエンコミエンダの段階的な廃止が含まれていた。また、インディオは自由民でありスペイン国王の臣民であるとして、インディオの奴隷制の廃止と労働条件の改善も定められていた[注釈 7][20]。このため植民者の反感を呼び、ペルー副王領ではスペインに対する反乱が起きる[注釈 8]。また、エンコミエンダ存続を願う植民者は、赤字に苦しむ王室に献金をしてエンコミエンダの存続をはかった。これに対して、ラス・カサスの影響を受けたペルーのドミニコ会士は、インディオの首長と協力してエンコミエンダ廃止運動を始めた[注釈 9][23]

ラス・カサスは1544年(60歳)にアメリカ大陸へ戻ったが、エンコミエンダ廃止を求める人物として植民者から激しく批判され、植民地当局とも対立して命の危険にさらされるほどになった[注釈 10][24]。スペイン国王カルロス1世(カール5世)は、ペルー副王領での反乱や、植民者の請願などの状況をうけて、エンコミエンダの段階的廃止を撤回する。それを知ったラス・カサスはスペインで活動することを決め、これが最後の航海となった。スペインへの出発前のメキシコでも、『報告』が書き進められた[25]

論戦と『報告』の刊行

スペインでのラス・カサスは征服反対派の論客として、征服賛成派のフアン・ヒネス・デ・セプルベダと対立した[注釈 11][27]。2人の対立は政治的に拡大し、植民者は征服賛成派を支援し、サラマンカ学派は征服反対派の立場に立った[28]。スペインでは、ペルー副王領の反乱をはじめとして本国に従わない植民者が次第に問題視され、ラス・カサスの主張が受け入れられるようになっていった[29]。そして1550年にカルロス1世は征服遠征を中断し、正当な征服とキリスト教への改宗を検討する会議(1550年-1551年)を開催する。ここでもラス・カサスとセプルベダは論戦を行い、バリャドリード論戦と呼ばれた。この論戦の結果についての会議録はなく、ラス・カサスとセプルベダの両者が勝利を主張した[30][31]。ラス・カサスは改革を進めるために、1552年(68歳)に8編の原稿を当局に無断で印刷・刊行することを決意する。その中に含まれていたのが『報告』であった[29]

インディアスの破壊についての簡潔な報告出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




(CNN) 黒人男性ジョージ・フロイドさんの死をきっかけに全米で人種差別批判が強まる中、今度はクリストファー・コロンブスの銅像が各地で相次いで破壊されている。

米国史の中でコロンブスは、先住民に対する扱いや、多大な犠牲を出した暴力的な植民地化への関与をめぐって論議を巻き起こす存在だった。

ここ数年は、コロンブスの米大陸到達を記念した「コロンブス・デー」の祝日をやめて、コロンブスなど欧州の探検家が先住民に与えた苦難をしのぶ「先住民の日」に置き替える自治体も増えている。

CNN系列局のKMSPによると、ミネソタ州議会議事堂では10日、先住民保護団体が組織する集会の参加者が、コロンブス像の首にロープを投げ掛け、地面に引きずり落とした。

バージニア州リッチモンドでは9日、市内の公園に約1000人が集まり、コロンブス像を破壊して公園内の池に投げ込んだ。この集会を前に先住民団体は、「クリストファー・コロンブスは先住民の殺人犯だった。今も続く先住民に対する大量虐殺文化を広めた」とツイートしていた。銅像の残骸は10日に池から撤去された。
マサチューセッツ州ボストンでは、ノースエンド地区にあったコロンブス像の頭部が9日夜に破壊されたことを受け、当局が銅像を撤去した。ボストンのウォルシュ市長によると、銅像は当面の間は保管する予定だが、元に戻すかどうかは決まっていない。

この銅像は1979年に設置されたもので、2015年にも赤いペンキが塗られて「黒人の命は大切だ」のフレーズが背中に落書きされていた。

全米で相次ぐコロンブス像の破壊、先住民虐殺の歴史に矛先

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