ムスタファ・ケマル・アタテュルクWikipediaライクリッキトルコ共和国における政教分離原則Wikipedia等政教分離に関する記事PDF魚拓

ムスタファ・ケマル・アタテュルク[注釈 1][注釈 2]トルコ語: Mustafa Kemal Atatürk1881年5月19日[注釈 3] - 1938年11月10日)は、オスマン帝国軍の将軍、トルコ共和国元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
Mustafa Kemal Atatürk


1930年撮影


トルコ共和国
初代
大統領

任期 1923年10月29日1938年11月10日


出生 1881年5月19日

オスマン帝国セラーニク 死去 1938年11月10日(57歳没)

トルコイスタンブール 政党 共和人民党 配偶者 ラティーフェ・ハヌム(ウッシャキー) 署名

目次

概要

編集

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導してトルコ共和国を樹立。宗教(イスラム教)と政治を分離しなければトルコ共和国の発展はないと考え、新国家の根幹原理として政教分離世俗主義)を断行。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除し、トルコ語表記をアラビア文字からラテンアルファベットへ変更[注釈 4]一夫多妻禁止や女性参政権導入[2]スルタン制廃止などトルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。現代トルコの国父[3](建国の父)とも呼ばれる。

経歴

編集

生い立ち

編集

1881年、オスマン帝国領セラーニク県英語版)の県都セラーニク(現ギリシャテッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディ英語版)と母ズュベイデ・ハヌム英語版[注釈 2]の子として生まれた。夫妻は「選ばれし者」を表す「ムスタファ」と命名し、後に、サロニカ幼年兵学校の数学教官ユスキュプリュ・ムスタファ・サブリ・ベイ[注釈 2]大尉が自身の担当教科に長けていた縁からムスタファにあだ名の「ケマル」(「完全な者」)を与え、ムスタファ・ケマルとなった[注釈 5][要出典]。オスマン帝国時代のテッサロニキはユダヤ人コミュニティが多かったことを根拠に、イスラム主義でアタチュルク反対派には「アタチュルクの先祖はデョンメーだ(表向きイスラム教に改宗したユダヤ人)」と主張する者が多かった。この見解はトルコ国土の大半を占めるアナトリア半島において、宗教上の理由からアタテュルクに反目する多くの反対勢力が熱心に擁護している[4]

ムスタファ・ケマルは、父の希望で教育者シェムスィ・エフェンディトルコ語版)が開校し西洋式教育を施すシェムシ・エフェンディ学校(トルコ語: Şemsi Efendi Mektebi)に進み、父の死去を契機に家族で叔父の許に身を寄せた。しばらくして母がラグプ・エフェンディと再婚したため、ムスタファ・ケマルはホルホル街区の叔母エミネ・ハヌムの家に身を寄せた[5]。サロニカ幼年兵学校[注釈 6]では、フランス語教官メフメド・ナーキ英語版)、モナスティル少年兵学校英語版)では歴史教官メフメド・テヴフィクトルコ語版)らの影響を受けた。

初期の軍歴

編集

士官学校から陸軍大学校時代

ムスタファ・ケマルは、1899年3月14日、陸軍士官学校(陸士1317年入学組)に入学した。士官学校では、校長メフメド・エサド英語版)、オスマン・ヌーリ英語版)らの薫陶を受け、同期生のアリ・フアト(ジェベソイ)、メフメド・アーリフ英語版)、サーリフ(ボゾク)、アフメド・フアト(ブルジャ)、一期先輩のアリ・フェトヒ(オクヤル)、一期後輩のヌーリ(ジョンケル)、キャーズム・カラベキルキャーズム・「キョプリュリュ」(オザルプ)らと親交を深めた[注釈 7]。1902年2月10日に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業し、陸軍大学校に進むと1905年1月11日に同学を修了して参謀大尉に昇進(陸大57期第5席)、研修のためダマスカスの第5軍に配属された[7]。士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱いており、ダマスカスで軍医ムスタファ英語版)や陸大同期のリュトフィ・ミュフィト英語版)と共に設立した「祖国と自由(トルコ語))のシンパになると、マケドニア支部を設立する際は軍に無断でサロニカに戻ったという。マケドニアでは1906年、青年将校や下級官吏が本拠をフランスパリに置く統一と進歩協会(青年トルコ党)の現地支部を設立、これが「祖国と自由」を吸収する。

第3軍司令部から参謀本部付へ

ムスタファ・ケマル上級大尉(トルコ語)(1907年6月20日付昇進)は1907年10月13日に第3軍司令部に転属され[7]、赴任地で「祖国と自由」サロニカ支部を吸収した「統一と進歩協会」(青年トルコ党の現地支部)に加入した。しかし同協会で実権を握ったのはタラートや、ジェマルであり、青年トルコ人革命(1908年)の成功でレスネのニヤーズィ・ベイ英語版)やエンヴェル・ベイらが「自由の英雄」として名声を獲得していく。

ルメリア東部地区鉄道監察官(1908年6月22日付)を経て1909年1月13日に第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命され、同年の3月31日事件英語版)が勃発すると、軍は第3軍(サロニカ)とアドリアノープル(現エディルネ)の第2軍から部隊を「行動軍」の名の下に編成し、帝都イスタンブール鎮圧に派遣した。ムスタファ・ケマルは第3軍所属の予備師団作戦課長として鎮圧部隊に連なり、11月5日に第3軍司令部に帰任する。同軍士官養成所勤務(翌1910年9月6日–11月1日)を経て再び第3軍司令部に戻った。統一と進歩協会第2回大会では、職業軍人による政治活動の禁止を再提議した[注釈 8][要出典]。1911年1月15日、第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て、9月27日に参謀本部付となった[7]

伊土戦争

編集

1911年9月29日にイタリアがリビアに侵攻したためトリポリタニアに赴くことになり、統一と進歩協会のイスマイル・エンヴェル・ベイアリ・フェトヒ・ベイオメル・ナージ・ベイトルコ語版)、アフメド・フアド・ベイメフメド・ヌーリ・ベイヤークブ・ジェミル・ベイトルコ語版)ら志願者が同行する。1911年11月27日、船上で少佐に昇進したムスタファ・ケマルは、身分を新聞記者「ムスタファ・シェレフ」と名乗るとアレクサンドリア経由で陸路ベンガジに潜入する[注釈 9]。12月18日、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官に着任、翌年1月16日に左目を負傷し、1か月ほど治療を受けた後、3月11日にデルネ地区の司令官に任命されゲリラ戦を指揮した[7]

バルカン戦争

編集

第一次バルカン戦争の勃発によりリビアから呼び戻されたムスタファ・ケマルは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで目の治療を受けてから、11月24日にダーダネルス海峡地区に着任し混成部隊司令部の作戦課長を拝命、同部隊がボラユル軍団に再編された際も同職を続けた。軍団主力の第27師団(指揮官アリ・フェトヒ・ベイ)は1913年1月26日のボラユルの戦い英語版)で、ブルガリア勢の第7リラ歩兵師団(指揮官ゲオルギ・トドロフ将軍)の前に敗北した[注釈 10]大宰相府襲撃事件事件を契機にエンヴェル・ベイらが実権を握り、アドリアノープルは5月13日のロンドン条約調印によりブルガリア王国に割譲された。

第二次バルカン戦争では、ボラユル軍団とともにブルガリア軍に対して攻勢に出て、7月15日にケシャン英語版)を落とし、イプサラ英語版)(7月17日)、ウズンキョプリュ(7月18日)、7月21日にカラアーチに入りディメトカ(現ディディモティホ英語版))を経由してアドリアノープルを奪還した。ムスタファ・ケマルは8月10日に街を離れ、10月27日にブルガリアの首都ソフィア駐在武官に任命された。ソフィアでは、陸軍大臣コヴァチェフの娘ディミトリナ・「ミティ」・コヴァチェヴァ(Димитрина "Мити" Ковачева / Dimitrina "Miti" Kovacheva)に近づいている。駐在武官としてセルビア首都ベオグラードツェティニェの駐在も兼任する(翌1914年1月11日付[7])。

第一次世界大戦

編集

中東戦域 (第一次世界大戦)」も参照

第一次世界大戦中の1915年1月20日付で第19師団長に任命されると、2月25日、第3軍団の予備兵力として指揮官エサド・パシャの下、ガリポリ半島のエジェアバド-セッデュルバヒル周辺に展開した。第19師団は3月23日、ダーダネルス要塞地区司令部司令官ジェヴァード・ベイの命令で、エジェアバドの後背地に予備兵力として置かれ、中央同盟国の中核であるドイツ帝国からオットー・リーマン・フォン・ザンデルスが招聘され第5軍が新設されると、その軍予備に組み込まれる[8]

1915年4月25日、英仏軍がガリポリ上陸作戦を敢行、ムスタファ・ケマル・ベイはオーストラリア・ニュージーランド軍団が上陸したアルブルヌ地区に急行して前進を食い止め、6月1日に大佐に昇進。1915年8月6日夜半、英軍増援の第9軍団がスヴラ湾に上陸、第5軍指揮官ザンデルス将軍は即時反撃を命じアナファルタラル地区英語版)にアフメド・フェヴズイ・ベイ英語版)司令官が率いるサロス集団を派遣するが手間取ったため、ムスタファ・ケマル・ベイは指揮権を委譲されて8月8日よりアナファルタラル集団の司令官として英軍の前進を食い止めると、外交官のルーシェン・エシュレフ・ユナイドゥン(Ruşen Eşref Ünaydın)らの賛辞を受けイスタンブールの報道機関は「アナファルタラルの英雄」と報じた。8月19日以降、第16軍団司令官も兼任した。

12月10日、アナファルタラル集団司令官を辞任、翌1916年1月27日付で第16軍団司令部に着任(エディルネ)するとディヤルバクルに転進し、ワン湖とチャパクチュル(現ビンギョル)との間の80キロメートルの戦線を受け持った。ガリポリ戦での軍功で加算された軍務期間により、同年3月19日には「ミールリヴァー」に昇進して「パシャ」の称号を得る。その後、8月7日にロシア帝国軍よりビトリスムシュを一時的に奪還、年が明けて1917年3月7日に第2軍司令官代理となった後、属州のヒジャーズ英語版遠征軍英語版)司令官就任を打診されるが固辞。7月5日付で第7軍司令官を拝命するが、ユルドゥルム軍集団英語版)司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと衝突して辞しイスタンブールに戻った。10月9日、再度、第2軍司令官着任の辞令が出され、赴任する前の11月7日、総司令部付になる。

1917年12月15日から翌年1月5日まで、皇太子ワフデッティン(のちのメフメト6世)の訪独に随行し親交を深めた。6月から7月にかけてウィーンとカールスバート(現カルロヴィ・ヴァリ)に療養のため滞在中にメフメト5世が亡くなり、8月2日にイスタンブールに帰国、8月7日付でザンデルス元帥の指揮するユルドゥルム軍集団隷下の第7軍司令官司令官を拝命し、パレスティナ・シリア戦線英語版)に派遣が決まると、スルタンに即位したメフメト6世から「スルタンの名誉副官」の称号を贈られた。1918年9月19日に英連邦軍のメギッド攻勢(ナブルスの敗北)が始まると9月20日に前線から電報を打ち、主席副官ナージ・ベイ英語版)を介してメフメト6世に休戦を勧め、自らの陸軍大臣就任を願い出た。オスマン帝国軍はアレッポまで退却を余儀なくされて10月30日夕刻に休戦協定を調印し、第19条(翌31日正午発効)の規定に従ってドイツ人とオーストリア人は国外退去に処され、ユルドゥルム軍集団は退任したザンデルス元帥の後任にムスタファ・ケマルを司令官として仰ぐが、11月7日付で交代となる。

トルコ共和国の建国

編集

1918年11月13日、イスタンブールのハイダルパシャ駅に帰り着いたムスタファ・ケマルは、海上を封鎖する戦勝国艦船を目の当たりにした。1919年4月、シェヴケト・トゥルグート・パシャ英語版)、ジェヴァート・パシャムスタファ・フェヴズィ・パシャは秘密裏に会談を持つと「三人の誓約」(Üçler Misâkı)と呼ばれる報告書を作り、国土防衛のため軍監察官区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに同報告書を提出し、参謀総長の承諾を経て国防省とメフメト6世は4月30日付でこれを承認した[9]。第1軍監察官としてムスタファ・フェヴズィ・パシャが(イスタンブール)、ユルドゥルム軍監察官(コンヤ)としてメルスィンリ・ジェマル・パシャ英語版)(後の第2軍監察官)、第9軍監察官(エルズルム)ムスタファ・ケマル・パシャ(後の第3軍監察官)、ルーメリ軍監察官としてヌーレッディン・パシャをそれぞれ派遣する[10]。合わせて第13軍団を国防省直属に移す計画に従い、ムスタファ・ケマル・パシャの東部アナトリア派遣が決まり、5月15日にユルドゥズ宮殿に伺候してメフメト6世と最後の会見を得て、翌日、貨客船「バンドゥルマ」で出航しサムスンに上陸した(5月19日[注釈 11])。ムスタファ・ケマルはアナトリア東部のエルズルムからスィヴァスに進みながら、アナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たちに加え、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集して、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。

1920年3月16日、抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍は首都イスタンブールを占領し、脱出したオスマン帝国議会議員たちはアナトリア内陸部で権利擁護委員会のもとに合同して、大国民議会アンカラで開いた(後のトルコ共和国首都)。彼らはオスマン帝国が解散させた議会に代わって国家を代表する政府と自認し、ムスタファ・ケマルを議長に選出し、トルコ大国民議会政府(アンカラ政府)を結成した。ムスタファ・ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して権威を確立しつつ、占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。また、モスクワ条約を結んで政敵エンヴェル・ベイを支援するソビエト連邦の同盟国になる一方で、共産主義者の勢力伸長を警戒し、自政権内に傀儡の公式トルコ共産党トルコ語版)を設け[11]、部下のイノニュらを参加させた[12]

この頃、アンカラ政府が支配地域を拡大するアナトリア東部に対し、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていた。ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦い英語版)で撃退し、その後、攻勢に転じたアンカラ政府のトルコ軍は、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。著名な指令は、このときに発せられたものである。

全軍に告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ(Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir. İleri!)

—この文に続く発言は検閲対象のため不明。

アンカラ政府は反転攻勢の成功により、連合国に実力を認めさせ、相手に有利な条件で休戦交渉にこぎつける。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブールのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃してトルコ国家の二重政府を解消、アンカラ政府に一元化しようと図り、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」の聖俗一致を改めさせて世俗権力である「スルタン」の地位を廃し、一旦は大国民議会にアブデュルメジト2世を象徴的なカリフに選出させておき(11月19日[13])、インドのムスリムから届いた手紙を「政治行為」の証拠として糾弾、オスマン皇族を全て国外退去させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言、自らトルコ共和国初代大統領に就任した。

大統領時代

編集

1924年、ムスタファ・ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃を図った。そして宗教的な裁判所を廃止して代わりに民事裁判所を設置した。同年国民議会で政教分離法を制定した。

ただし、1933年代には、トルコで最初のトルコ語で表記されたモスクがイスタンブールで設立が許されている。

政治

編集

1921年、23か条からなるトルコの憲法を制定した。1923年にはその憲法を改正して国民主権を明記した。しかし最終的には翌年に全く新しい憲法を制定した。また、トルコ大国民議会で選挙で議員が選ばれるようになった。議会は一院制で比例代表制が導入された。同年、アンカラに遷都した。

1923年、ケマルは部下のイスメトイノニュにトルコで初めて組閣させた。イノニュ政権は一年続き、翌年に今度はフェトヒオクヤルに組閣させたが最終的には1925年にイノニュに組閣をさせ、1937年にジェラルバヤルに組閣させるまで続いた。

当初、ムスタファ・ケマルは穏健野党の育成を図る試みも行っていたが、1925年前後、野党進歩共和党英語版)による改革への抵抗、東アナトリアにおける宗教指導者シェイフ・サイード英語版)の反乱英語版)など、反ムスタファ・ケマル改革の動きが起こったことを受けて方針を改め、1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。翌日、ムスタファ・ケマルは議会で6時間にも及ぶ大演説を行い、その最後に「私がトルコだ!」と言い放った。これにより、ムスタファ・ケマルは自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁が成立した。ただし1930年には自由共和党トルコ語版)が結成を許されている。しかしイスラム過激派が内部にいたため、党首フェトヒ・オクヤルは自主的に解散した。

この頃、イスラム過激派が台頭してきており、軍の第二中尉のムスタファ・フェフミクブラヒが保守派の蜂起で暗殺されている。

民族主義政策

編集

これ以降、独裁的な指導力を握ったムスタファ・ケマルは、大胆な民族主義政策を断行した。1928年、イスラム教を国教と定める条文を憲法から削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行。さらにはトルコ語におけるアラビア語などに由来する単語を、古語から由来したものに置き換え(「トルコ語#歴史と言語純化運動」参照)、政治、社会、文化の改革を押し進めた。

ローザンヌ条約締結後、ギリシャとトルコの住民交換を行なって国内のトルコ人比率を高め、さらに各地にあるアルメニア語クルド語ギリシャ語ブルガリア語などに由来する地名をトルコ風に改めるなどした。

1936年に三日月型のトルコの国旗トルコ国歌を制定した。

その他にはかつて学校で教えられていたペルシャ語やアラビア語のコースを廃止して、トルコ語を学習もしくは専攻するコースを設置した。

文化面では、1931年、私財を投じてトルコ歴史協会英語版)、その後、トルコ言語協会をアンカラに設立した[14]

教育政策

編集

トルコ政府は識字率向上のため義務教育を提供する学校を急速に作った。

1924年に教員組合法で教育の理念を示し、同年、宗教的な学校を廃止した。1925年にアンカラ法学校を、1928年には工学専門学校を、1932年にイスタンブール大学を開校した。

1928年にトルコ教育協会を設立した。さらにケマルは男女共学を推し進めた。

宗教政策

編集

ケマルはイマームの新しい機関を作り、そこの役人を政府が任命するなどした。

1924年、共和国政府は宗教局を設置した。宗教局ではイスラム教の理念、信仰、倫理に関する啓蒙活動のために設置された。さらに宗教問題についても監視しており、そうすることでトルコ共和国の世俗的なアイデンティティに異を唱えさせないようにした。

経済政策

編集

経済面では「大きな政府」を推し進め、市場経済に積極的に介入した。1925年に繊維工場を設立、1926年には鉄鋼国有法と石油国有法が議会で可決されている。2年後には貿易法を作り、貿易関係の整備をした。世界恐慌後、1930年にトルコ中央銀行を設立、3年後にはシュメル銀行ハルク銀行を設立した。また、海外から支援を受け、ソ連のヨシフ・スターリン1932年に巨額の融資と経済顧問団を派遣、1934年5月からトルコも五カ年計画を導入する。この頃のトルコは土地の7割を国家が所有していた。さらに商業銀行のイシュ銀行を設立した。1937年にはナジルリ衣服工場を設立するなど国家主導の政策をしていた。同年、第二次五か年計画を実施し始めた。

1924年に農業畜産局を設立し近代的な農業政策を推進した。

ただしケマルは晩年には経済の自由化着手を始めた。

福祉政策

編集

1925年に最初の医療学会を設立した後、1937年には医療機関設立法を制定、アンカラに医療機関を設置した。1936年に労働法を制定した。これらがトルコの社会保障政策の第一歩となった。

先進的女性政策・イスラム諸国初の女性参政権

編集

スイスを見本にした民法を1926年に制定しており、この新民法で女性の権利が大幅に拡張された。さらにアタテュルクはイスラム教的な制度である一夫多妻も禁止している[2]

1929年代にトルコで初めて女性が裁判官に就任し、30年代には女性が立候補・投票できる地方自治法を制定。女性が外科医になったり、外務省に勤務したりするなどの女性政策を推進した。

1934年には、トルコ大国民議会への女性参政権を実現した[2]

欧化政策

編集

男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンフェズ は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)された。スイス民法をほとんど直訳した新民法の採用、イタリアをモデルにした刑法の制定をするなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員がを持つよう義務付けられた。これにより、「ベイ」「エフェンディ」「パシャ」「スルタン」「ハヌム」などの称号は廃止された。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。

1925年に太陰暦の使用をやめ、国際的に使われている太陽暦へ移行した。28年にはアラブ風の長さと重さの測定法を廃止してメートル法を導入した。

1926年、人口調査のための中央統計局がアンカラに設立され、翌年、人口調査が行われた。調査の結果、トルコ共和国の総人口は約3500万人であった。1930年に中央統計局は総統計局に改称され、これ以降5年ごとに人口調査を行い、10年ごとに農業や産業に関する調査が行われるようになった。

クルド人の反乱

編集

建国初期とケマルの晩年の2回にわたってクルド人の大規模な反乱が起きており、1925年にシェイフサイードの乱が、1937年にデルシムの乱が起きて、鎮圧に一年近くかかった。

外交政策

編集

アタチュルクの外交政策は、彼のモットーの、「国内の平和、世界の平和(Yurtta sulh, cihanda sulh)」に従い、平和に関する認識は近代化計画に結びついていた。アタチュルクの政策の結果、新共和国によって確立された議会の力に依存していた。トルコ独立戦争は、アタチュルクが他国との交渉に軍事力を使った最後の戦争であり、外交問題は、平和的な方法で解決しようとした。

まず、第一次世界大戦の頃から続いていたモスル問題は、モスル州の支配をめぐるイギリスとの紛争であり、新共和国の最初の外交問題の1つであった。イギリスのメソポタミア方面作戦の間、ウィリアム・マーシャル中将はイギリス陸軍省の指示に従い、ムドロス休戦協定の署名(1918年10月30日)の3日後にモスルを占領した。1920年、「トルコの土地」を統合について議会は、モスル州は歴史的なトルコの一部であると宣言した。このころのイギリスはモスル問題で不安定な状況にあり、反英反乱がおきており、これは1920年の夏にイギリス空軍イラク司令部によって鎮圧された。イギリスからしてみたら、もしアタチュルクがトルコを安定させれば、彼はモスルに介入、あるいはメソポタミアに侵入し、そこで現地民が彼に呼応してしまい、それに連鎖して英領インドでもムスリムが反乱を起こす可能性もあった。

1924年、国際連盟の3人の査察官が状況を監督するためにモスルに派遣されたが、シェイク・サイードの反乱(1924年-1927年)が起き、トルコとメソポタミアとのつながりを断ち切る新政府の樹立に着手した。この時、トルコは反乱軍とイギリスとの関係が調査しており、実際反乱軍が鎮圧されそうになると、イギリスに支援を求めていた。 1925年、国際連盟はシェイク・サイードの反乱が勃発している間にモスル問題を解決するための委員会を結成した。北部辺境(現在のイラク北部)で不確実性が続いていることもあって、委員会は、英国がメソポタミアの英国委任統治を保持し、国境を画定させることを勧告した。1925年3月末までに、必要な部隊の移動が完了し、シェイク・サイードの反乱の全域が包囲された。これらの策略の結果、反乱は鎮圧された。イギリス、イラク、アタチュルクは1926年6月5日に条約を結び、そのほとんどは連盟の委員会の決定に従った。

ソ連との関係

編集

1920年4月26日のウラジーミル・レーニンへのメッセージで、ボリシェヴィキの指導者にアタテュルクは、彼の軍事作戦をボリシェヴィキの「帝国主義政府との戦い」と共闘することを約束し、彼の軍隊への「応急処置として」資金と武器を要求した。1920年だけでも、レーニン政権はトルコ政府に対し、6,000丁のライフル、500万発以上のライフル実包、17,600発の発射体、200.6kgの金地金を供給した。その後の2年間で援助の量は増加した。

1921年3月、トルコはソビエト・ロシアとモスクワ条約に署名し、これはトルコ政府にとって大きな外交的突破口となった。モスクワ条約とそれに続く同年10月のカルス条約は、北東部の国境を平和的に解決させた。 両国の関係は友好的であったが、これは共通の敵である英国や西欧諸国と対立していたという背景があった。1920年、アタテュルクは国が指導するトルコ共産党を利用して、国内での共産主義思想の広がりを未然に防ぎ、コミンテルンの資金援助をしてもらうという考えがあった。

ソ連との関係にもかかわらず、アタチュルクはトルコに共産主義を採用する気はなかった。「ロシアとの友情は、トルコに共産主義という彼らのイデオロギーを採用することではない」と彼は言った。さらに、アタチュルクは「共産主義は社会問題である。わが国の社会状況、宗教、民族の伝統は、ロシアの共産主義がトルコには適用できないという評価を裏付けている。」とも言った。1924年11月1日の演説では「我々の友好国ソビエト・ロシア共和国との友好的な関係は日々発展し、進歩している。これまでのように、我が共和国政府は、ソビエトロシアとの真正かつ広範な良好な関係を、我々の外交政策の要とみなしている」と述べた。

トルコは1925年12月17日に、ソ連と不可侵条約を締結した。1935年、条約はさらに10年延長された。 1933年には、ソ連のヴォロシーロフ国防相がトルコを訪問し、共和国10周年記念式典に出席した。アタチュルクは、その場でトルコ、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア、ブルガリアを経済的に統一するバルカン連邦の計画の実現に関する構想を説明した。 1930年代後半、アタチュルクはイギリスや他の西側の主要大国とより緊密な関係を確立しようとしたが、それはソ連側に不快感を与えた。アタチュルクの統治末期の政策を明白に批判し、彼の国内政策を「反人民主義」と呼び、彼の対外路線を「帝国主義列強」との和解を目的としたと批判した。

ギリシャとの関係

編集

戦後のギリシャの首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは、トルコと正常な関係を確立することを決意していた。両国は戦争をしていたため、両国民の間の感情は敏感な問題であったが、ヴェニゼロスとアタチュルクは希土両国の和解を進めた。 そしてギリシャはトルコ領土に対するすべての領有権を放棄し、両国は1930年4月30日に国境の協定を締結した。10月には、ヴェニゼロスはトルコを訪問し、友好条約に署名した。ヴェニゼロスは1934年のノーベル平和賞にアタテュルクを推薦した。ヴェニゼロスが権力の座から転落した後も、希土関係は友好的な関係を維持しており、ヴェニゼロスの後継者パナギス・ツァルダリスは1933年9月にトルコを訪れ、バルカン協定の足がかりとなったギリシャとトルコの間の包括的な協定に署名した。

アフガニスタンとの関係

編集

アフガニスタンは1919年以来、アマヌラ・カーンの下で改革期の真っ只中にあった。アフガニスタンの外務大臣マフムード・タルジは、アタチュルクの国内政策の信奉者であった。タルジはアマヌラ・カーンに社会・政治改革を奨励したが、改革は強い政府の上に築かれるべきだと確信していた。1920年代後半、イギリスとアフガニスタンの関係は、アフガニスタンとソ連の友好関係に対してイギリスが懸念したことによって悪化したが、1928年5月20日、アマヌラ・カーンと妻のソラヤ・タルジ英語版)がイスタンブールを訪れてアタチュルクに迎えられたとき、トルコ政府の協力によってイギリスとアフガニスタンの関係は改善に向かった。この会合に続いて、1928年5月22日にトルコ・アフガニスタン友好協力協定が締結された。アタチュルクはアフガニスタンの国際機関への参加を支持した。1934年、アフガニスタンが国際連盟に加盟し、国際社会との関係は著しく改善した。

イランとの関係

編集

アタチュルクとイランの指導者レザー・シャーは、イギリス帝国主義とその国における影響力に関して共通の姿勢をとっており、その結果、アンカラテヘランの間の安定した関係がもたらされた。両国政府はトルコ独立戦争中に外交使節団と友好の言葉を互いに送っており、この時期のアンカラ政府の政策は、イランの独立と領土保全を保障させるために道徳的支援を与えることであった。その一方で両国の関係はカリフ制の廃止後に緊張した。イランのシーア派聖職者はアタチュルクの立場を受け入れず、イラン聖職者はアタチュルクの改革の背後にある本当の動機が聖職者の力を弱体化させることであると認識していた。しかし、ソ連とイギリスが中東における影響力を強化するにつれて、アタチュルクはこれらのヨーロッパ列強による多民族社会としてのイランの占領と解体を恐れた。アタチュルク同様、レザー・シャーもイランの国境を維持したいと考えており、1934年、シャーはイスタンブールを訪問した。 1935年、後にサーダバード条約となる条約の草案がジュネーブで起草されたが、イランとイラクの国境紛争のために署名が遅れた。1937年7月8日、トルコ、イラク、イラン、アフガニスタンはテヘランでサーダバード協定に署名した。署名国は、共通の国境を維持し、共通の利益となるすべての問題について協議し、互いの領土に対する侵略をしないことに合意した。この条約は、アフガニスタン国王ザヒル・シャーの東洋・中東協力の拡大の呼びかけ、イランをソ連とイギリスの影響から脱するためにトルコとの関係を良好にするという目的、そして地域の安定を確保するというアタチュルクの外交政策を結びつけた。

その他の国々との関係

編集

1930年代初頭までに、トルコは西洋との中立的な外交政策に従い、友好的かつ中立的な合意を発展させた。これらの二国間協定は、アタチュルクの世界観と一致していた。1925年末までに、トルコは西洋諸国と15の共同協定に署名した。

1930年代初頭、世界政治の変化と発展により、トルコは安全保障を改善するために多国間協定を結ぶ必要があった。アタチュルクは、平等の原則に基づくバルカン半島の諸国間の緊密な協力がヨーロッパの政治に重要な影響を与えると強く信じていた。これらの国々は何世紀にもわたってオスマン帝国に支配されていた。1934年2月9日、トルコ、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビアの間でバルカン協定英語版)が署名された。ヨーロッパにおけるいくつかの重要な進展は、トルコ-ギリシャ間の関係の改善やブルガリア-ユーゴスラビア間の和解など、元のアイデアの実現を助けた。1930年代半ば以降、トルコの外交政策が推進された最も重要な要因は、イタリアに対する恐怖であった。当時のイタリアの首相ベニート・ムッソリーニは、地中海全体をイタリアの支配下に置くという野心を抱いていた。トルコとバルカン諸国は、イタリアの野心に脅かされていると感じていた。

バルカン協定は、ブルガリアやアルバニアなどの他のバルカン諸国からの攻撃に対する署名国の領土保全と政治的独立を保証することを意図していた。それは、ムッソリーニ率いるイタリアの攻撃的な外交政策と、ブルガリアがナチスドイツと潜在的に連携することの影響に対抗した。アタチュルクはバルカン協定をトルコとヨーロッパ諸国との関係におけるバランスのとれたものと考えており、特にトルコ西部のヨーロッパに安全保障と同盟の地域を設立することを切望しており、バルカン協定によって実現した。

バルカン協定は、定期的な軍事的および外交的協議を規定しており、この協定には具体的な軍事的約束は含まれていなかったが、南東ヨーロッパにおける自由世界の地位を強化するための重要な前進とみなされた。この合意の重要性は、アタチュルクがギリシャイオアニス・メタクサス首相に送ったメッセージに最もよく表れていた。

バルカン条約における同盟国の国境は、一つの国境である。この国境を欲する者は、太陽の灼熱の光に出くわするだろう。私はこれを避けることを勧める。わが国境を守る勢力は、切っても切れない一つの力なのだ。

バルカン協定は2月28日に署名され、ギリシャとユーゴスラビアの議会は数日後に協定を批准した。全会一致で批准されたバルカン協定は1935年5月18日に正式に採択され、1940年まで続いた。

主権の回復

編集

ローザンヌ条約(1923年)ではオスマン時代に締結された不平等条約を撤廃させ、1936年にモントルー条約ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の主権を回復した。

死去

編集

1938年11月10日、イスタンブール滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。ムスタファ・ケマルは、生前、医者に「肝硬変はラクのためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。

ケマル・アタテュルクは死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにケマル・アタテュルクの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。

ケマル・アタテュルクの死後、大統領に就任したイスメト・イノニュは強引さとカリスマ性こそアタテュルクに劣るものの、第二次世界大戦を終戦直前まで中立を保ってトルコを実際の戦火に巻き込まずに乗り切り、その手腕と功績は高く評価されている。しかし国内の改革を並行して推し進めることは叶わず、内政面の改革と再発展は大戦後まで持ち越される。

ケマル主義

編集

ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、世俗主義民族主義共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュも他国の独裁政権と比較すれば、政変なく政権を守り通すことに成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」[要出典]ムスタファ・ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのムスタファ・ケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。1926年の議会にて「私がトルコだ!」と言い放った逸話が示すように、ムスタファ・ケマルの頭にはトルコしかなかった。ムスタファ・ケマルの口癖の一つは「我々はトルコ人以外の何ものでもない」で、その遺体が一時置かれていたアンカラの民俗博物館の石版には「我が肉体は滅びるとも、トルコ共和国は永遠なるべし」と刻まれている[15]

ムスタファ・ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義(ケマリズム)」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ムスタファ・ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。もっとも、ケマル主義の信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人から、極めて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマル主義の名の下に多様な主義主張が語られている。

彼ら「ケマル主義」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部であるトルコ軍上層部は、「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。トルコ軍は1960年1980年9月12日クーデター)の二度にわたり、ケマル主義からの逸脱是正あるいはケマル主義の擁護を名目としてクーデターを成功させた。

ムスタファ・ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要な建造物になっている。彼の命日である11月10日の9時5分には毎年、トルコ全土で2分間の黙祷が捧げられ、アタテュルク廟ほかなどで記念式典が行われる。

また、イスタンブールには彼にちなんで名づけられたアタテュルク国際空港とアタチュルク文化センター(1969年建設・2021年再建)[3]、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにアタテュルクにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはアタテュルクの銅像が立ち、役所や学校にはアタテュルクの肖像画が掲げられている。トルコ共和国の通貨である新トルコリラ(YTL)は、全ての紙幣にアタテュルクの肖像が印刷されている。さらに、「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもある。

トルコにおけるこうした徹底的なムスタファ・ケマルの顕彰に対しては、トルコの国内においても、世俗的な立場にある人々の間からも、「行き過ぎた神格化」であり「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどである。[要出典]少なからぬ観察者は、トルコの国家体制護持とムスタファ・ケマルに対する個人崇拝は密接に関係していると考えている。例えばイスラム的な価値観と国家体制との関係で見ると、1980年の9月12日クーデター以前は、徹底的な政教分離主義(ライクリッキ)はケマル主義の名のもとに国家体制と不可分のものとされていた。体制によって民族主義とイスラムの調和が図られ始めた1980年代以降は、体制にとって許容可能な「望ましいイスラム」がアタテュルクの望んだイスラムのあり方であるとして正統化をはかる事例がみられるようになった。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AF


ライクリッキ: laiklik)とは、トルコ共和国における同国独自の政教分離原則[1]。日本語では、「政教分離」または「世俗主義」と訳される[2]

1923年10月29日トルコ共和国建国以来、建国の父であるムスタファ・ケマル・アタテュルクが主導する形で、フランスライシテを参考にしながら形成されてきた。ライクリッキのことば自体、フランス語の「ライシテ」を語源とする[1]

目次






概要

編集

ライクリッキの原則はケマル主義確立の年、1937年以降現在にいたるまで、トルコ共和国においてきわめて重要な憲法原則をなしており、現行の第三共和政憲法である1982年憲法においても継承されている[2][注釈 1]。そこでは、宗教的自由(第24条第1項)、国家の非宗教性(第24条第4項および第5項)が定められている[2]。政党がこの原則に反し、ライクリッキ違反活動の中心となった場合には憲法裁判所による終審判決によって解散が命じられる(第68条)。

第68条の規定にみられるように、トルコ憲法は国家だけでなく国民に対してもライクリッキ原則への忠誠義務を課してこの原則を強力に護持しようとしている[2]。従来、憲法裁判所が一貫して示してきたライクリッキ四原則は以下の通りである[2]。宗教が国家事項を支配せず、それに影響を及ぼさないという原則を承認すること。
宗教が個人の精神的営為に関する宗教信仰の領域で差別されることのない、無制約の自由を承認するように宗教を憲法的保障の下に置くこと。
宗教が、個人の精神的営為を越え社会的営為に影響を及ぼす活動および態度に関する領域で、公の秩序、安全および利益を保護する目的で限界づけを承認し、宗教が濫用されること、およびそれが利用されることを禁止すること。
国において公の秩序および諸権利の保護者として宗教的な権利および自由に関する監督権限を承認すること。


1989年のスカーフ事件判決において、憲法裁判所によって提示されたライクリッキ原則では、近代文明、実証主義民主主義など高度の次元をもつ原則と位置付けられており、「国家の非宗教性」をはるかに越える意味づけがなされている[2]。すなわち、ライクリッキ原則が国の近代化に深くかかわるものとして理解されている[2]

憲法規定

編集

1982年憲法には、ライクリッキに関する以下の条文がある[2]。第2条(基本理念) - 「トルコ共和国は・・・アタテュルク精神に忠実で・・・民主的、非宗教的、社会的な法治国家である。」
第24条(宗教的自由) - 第1項 「全ての者は、良心、宗教的信仰、信念の自由を有する」
第4項 「宗教・道徳の教育・訓育は、国の監督の下に行われる。・・・」
第5項 「何人も、国の社会的・経済的・政治的・法的な基本秩序を、宗教規則に基づかせるため、または政治的・個人的な利益・影響力を確保する目的で・・・宗教物を利用・濫用してはならない。」
第68条(政党規制) - 第4項(1995年改正) 「政党の党則・綱領・活動は、国の独立・領土・国民からなる全体性、人権・平等・法治国家の原則、国民主権、民主的・非宗教的な共和国の諸原則に、違反してはならない。」


歴史

編集

この節の加筆が望まれています。

脚注

編集

[脚注の使い方]

注釈

編集^ 1982年憲法は、1980年の「9月12日クーデター」によって成立した軍事政権によって制定された憲法。1983年に民政移管がなされた(トルコ第三共和政)。


出典

編集^ a b 小泉洋一,「トルコの政教分離に関する憲法学的考察――国家の非宗教性と宗教的中立性の観点から―」『甲南法学』48(4), 2008年 p.279-345, doi:10.14990/00000673, NAID 110007119662.
^ a b c d e f g h 小泉洋一,「トルコにおけるライクリッキの原則と憲法裁判所」『甲南法学』51(3), 2011年 p.213-237, doi:10.14990/00000721, NAID 120005577035.


関連項目

編集ライシテ
世俗主義
政教分離
タンジマート

ライクリッキ

トルコ共和国における政教分離原則


ライシテ: laïcité; 形容詞 ライック laïque)とは、フランスにおける教会と国家の分離の原則政教分離原則)、すなわち、(国家の)宗教的中立性・無宗教性および(個人の)信教の自由の保障を表わす。説明的に「非宗教性」という訳語が当てられることがあり、ライシテの成立過程について (laïcisation の訳語として)「非宗教化 / 世俗化」(=社会における宗教の影響力の減少)[1] という語が用いられることもある。また、日本のメディアでは「世俗主義」と訳されることもあるが、これは英語の secularism の訳語であり[2]、これらの概念の歴史的な成立過程から、基本的には別の概念である。日本語の「ライシテ」という言葉は、世俗主義やフランス以外の国の政教分離と区別し、フランス法およびフランスの歴史に根ざした特殊な政教分離の意味で用いられ、ここ10年ほどで「ライシテ」という訳語が定着した(以下の「語義」参照)。フランスの法と歴史におけるライシテ

編集

フランス法:フランスは「自由 (Liberté)、平等 (Égalité)、友愛 (Fraternité)」を標語に掲げる共和国であることはよく知られているが、加えて、フランス共和国憲法第1条に「フランスは不可分で (indivisible)、ライックで (laïque)、民主的で (démocratique)、社会的な (sociale) 共和国である」と書かれており、ライシテはフランス共和国の基本原則の一つである[3]

フランスの歴史:ライシテは元々、フランス革命以来、主に学校教育制度に関するカトリック勢力と、共和民主主義反教権主義勢力との対立・駆け引きを通じて醸成されてきた原則であり[4]、教育の無償制、義務制、そして非宗教性(ライシテ)を保障するジュール・フェリー法フランス語版)(1882)、公立学校の教師の非宗教性を保障するゴブレ法フランス語版)(1886) などによる一連の非宗教化政策の結果、1905年12月9日、フランス共和国(第三共和政)により政教分離法(ライシテ法)――政教分離原則、すなわち教会と国家の分離の原則を規定した法律――が公布され、これにより、フランスの反教権主義(反カトリック主義)は完成し、国家の宗教的中立性・無宗教性および信教の自由の保障が図られた。

政教分離法」も参照

中東からの移民増加とその文化的軋轢が表面化した1990年代以降はイスラムとの関係で論じられることが多いが[4]、ライシテに関する歴史・社会学者のジャン・ボベロフランス語版)によれば、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以後、「政治的イスラム」という新たな脅威が生まれ、一部のイスラムに対する恐怖が支配的な趨勢となっていったことがフランスではライシテ法本来の精神からの逸脱、世俗化 ―「ライシテの右傾化」― につながった[5]

同時にまた、フランスのライシテは、しばしば国民国家の統一を脅かしかねない(とされる)「アングロ=サクソンの共同体主義」に対置させて論じられるようになり[5]、フランス左派内における「ライシテ強硬派」[6]と「イスラム左派フランス語版)」[7][8]の対立を生んでいる。

語義

編集

「ライシテ」の語源はギリシア語の「ラオス (λαός, laós; 民衆)」、「ライコス (λαϊκός laïkós; 民衆に関すること)」であり、「クレーリコス (κληρικός, klêrikós; 聖職者に関すること)」と対語を成している。18世紀末、とりわけフランス革命以後、この言葉は、「教権主義」に反対する共和派の理念となり、「政教分離」、「(教育や婚姻に代表されるような)市民生活に関する法制度の宗教からの独立」、「国家の宗教的中立性」を意味するようになった[9]

訳語としては、近年のフランスにおけるライシテ原則の適用をめぐる諸問題を論じるにあたり、「政教分離」、「非宗教性」、「世俗化」などの語が用いられ、たとえば、2008年のジャン・ボベロ来日講演録『世俗化とライシテ』では、羽田正が「ライシテは、『非宗教性』ないし『政教分離』などと訳されることが多いが、日本語ではその語義自体がまだ定まっていない」としたうえで「ライシテ」という訳語を用いているが[10]、これ以後、伊達聖伸の著書 (『ライシテ、道徳、宗教学』(2010年)[11], 『ライシテから読む現代フランス』(2018年)[12])、および同氏らによるボベロの邦訳書 (『フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史』(2009年), 『世界のなかのライシテ』 (2014年)) など「ライシテ」と題する著書が出版され、現在では「ライシテ」という訳語が定着している。

こうした経緯から、本ページでは日本語の「ライシテ」を一般的な政教分離とは区別し、「フランスにおけるライシテ」、すなわち、フランス法およびフランスの歴史に根ざしたライシテ、「フランスの特殊性といわれているライシテ概念」(満足)[9]を意味するものとし、以下では、まず、フランス共和国の基本原則としてのライシテの概念およびその成立過程について記述し、次に、過去30年ほどの間に生じた「ライシテ」の「変質」およびその結果として生じたライシテ原則の適用をめぐる諸問題について説明する。

政教分離原則」および「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」も参照

概要

編集

フランス共和国の基本原則

編集

フランスにおけるライシテとは、政治と宗教を区別・分離するフランス共和国の基本原則である。

国家は中立的な立場から、(宗教の表明が公の秩序を乱さない限りにおいて)信教の自由および思想・良心の自由を保障し、すべての信念(宗教、無神論不可知論等)を同等に扱う。この原則は、たとえば、1905年に成立した政教分離法(ライシテ法)の第1章第2条に「フランス共和国はいかなる宗教も公認せず、俸給を与える又は助成金を支出することはない」と書かれているとおり、共和主義的平等を目指すものである[13]

宗教による墓碑の種類

ライシテは政治と宗教を対立させるものではなく、政治・行政から宗教の影響を排除することが目的である。したがって、宗教は信教の自由、思想・良心の自由という個人の自由の領域を超えることはない。ただし、ライシテはフランス社会に深く根ざすものでありながら、同時にまた、社会の変化に応じて変わっていることも考慮する必要がある[14]

一方で、「ライシテ」という概念に曖昧さがないわけではない[15]。信教の自由と思想・良心の自由が区別されるように、ライシテは世俗化 (sécularisation) や中立性 (neutralité) と区別されるが、混同されるまたはすり替えられる場合もある[16]。ライシテに関する歴史・社会学者のジャン・ボベロによると、「世俗化とは、最も広い意味においては、近代社会 ― 科学技術と結びついた合理性を中心とする基準によって機能する社会 ― において、宗教の社会的役割が衰退することを意味し」[17][18]、中立性は、哲学者フェルディナン・ビュイソンがライシテに基づく国家 (État laïque) に与えた定義「すべての宗教に対して中立的で、あらゆる聖職者から独立している」に近く[17]、どちらかと言えば受動的な姿勢であるのに対して、フランスにおけるライシテはその成立過程に根ざした概念であり、
ライシテというときには、受動的で静かな中立性よりも、能動的かつ確信的に、公私を分離して公的な領域から宗教的な要素を排除するという姿勢を含意する。価値にかかわる宗教・信仰の要素を持ち込まないことによってこそ、各人の信教あるいは良心の自由が確保されるという発想にほかならない。公教育はいかなる教義をも特別扱いしてはならず、また教義によって知性がゆがめられることを許してはならない。ここに、革命以来の理性主義の表出を看取することができる。フランスは以後、このライシテを国家的原則として掲げ現在にいたる[19]20世紀初頭(特に政教分離法の成立時)には、ライシテには、まずもって、共和主義的価値を脅かすカトリック教会の影響を排除しようという意図があったが、やがて、伝統的なカトリックとは直接関係のない様々な過激な思想(新たな全体主義セクトイスラム原理主義をはじめとする宗教的原理主義等)が生まれ、ライシテはより複雑で幅広い文脈に置かれている。

ライシテ

世俗主義のフランスの概念


アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん、: September 11 attacks)は、2001年9月11日イスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つの協調的なテロ攻撃[4][5][6]9.11事件(きゅういちいちじけん)や、9.11(きゅうてんいちいち)などと呼称される場合もある[7]

アメリカ同時多発テロ事件



最上段:旅客機の衝突で炎上するワールドトレードセンター
2段目左:ペンタゴンに突入した痕跡
2段目右:2機目の旅客機が激突し爆発炎上するワールドトレードセンター
3段目左:崩壊後のワールドトレードセンターと生存者の救出活動を行う消防士
3段目右:ユナイテッド航空93便の残骸
最下段:ペンタゴンに突入する瞬間を捉えた映像のコマ

場所



アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク(1度目と2度目)
バージニア州アーリントン(3度目)
ペンシルベニア州シャンクスヴィル(4度目)日付 2001年9月11日火曜日
午前8時46分 - 午前10時28分
東部夏時間 (EDT)標的 ワールドトレードセンターの北棟と南棟(第1・2)
アメリカ国防総省本部庁舎(第3)
第4の標的は不明(合衆国議事堂ホワイトハウスと推測されている)。攻撃手段 ハイジャック自爆テロ死亡者 2,996人(被害者2,977人 + 実行犯19人)[1][2][3]負傷者 25,000人以上容疑者 アルカーイダ#実行者も参照)動機 アメリカ軍のサウジアラビア駐留、アメリカの親イスラエル政策等(#動機も参照)テンプレートを表示

一連の攻撃で、日本人24人を含む2,977人が死亡[8]、25,000人以上が負傷し、少なくとも100億ドル(日本円換算1兆1465億9500万円)のインフラ被害・物的損害に加えて、長期にわたる健康被害が発生した[9][10]アメリカの歴史上、最も多くの消防士法執行官が死亡した事件であり、殉職者はそれぞれ343人と72人だった[11]。また、この事件を契機としてアフガニスタン紛争 (2001年-2021年)が勃発し、世界規模での対テロ戦争が始まった。

アメリカ同時多発テロ事件

2001年にアメリカで発生した同時多発テロ攻撃事件


政教分離法(せいきょうぶんりほう、フランス語: Loi de séparation des Églises et de l'État)は1905年12月9日フランス共和国フランス第三共和政)によって公布された、ライシテ(教会と国家の分離の原則、政教分離原則)を規定した法律。これにより、フランスの反教権主義(反カトリック主義)は完成し、国家の宗教的中立性・無宗教性、信教の自由の保障が図られた。

1905年12月9日
政教分離法
loi du 9 décembre 1905 concernant
la séparation des Églises et de l'État




「政教分離法」1頁

発行日1905年12月9日所在地フランス国立中央文書館




フランスパリ)作成者アリスティード・ブリアン
エミール・コンブ
ジャン・ジョレス
フランシス・ド・プレソンセフランス語版)目的政府の宗教的中立性・無宗教性(反教権主義の完成)。信教の自由の保障。国家における宗教予算の廃止。

目次







経緯

編集

フランス第三共和政下の1880年代には穏健共和主義者のジュール・フェリーによって初等教育の場で「無償・義務・世俗化」原則を導入するフェリー法を成立させるなど、政教分離世俗化の政策が推し進められた[1][2]。フェリーの反教権(反カトリック)的政策は、ローマ教皇によって非難され、フランス国内ではスムーズに受け入れた地域もあったが、信仰心の厚い地域では強い軋轢をもたらし、抵抗のはげしい地域ではしばしば流血事件に発展して小規模な宗教戦争の様相さえ呈した[1]

1890年代にはいると、共和政と教会との対立抗争はいったん小康状態となった[3]。これは、ローマ教皇レオ13世が「レールム・ノヴァールム」と称される回勅を発して、カトリック教会が近代社会に適応し、同時に資本制がもたらす19世紀の社会問題に正面から向き合うことを初めて表明し、フランスの共和政に対しては従来の「反対」ではなく「ラリマン(加担する)」という政策を打ち出したことも深くかかわっていた[3]。しかし、1894年に端を発したドレフュス事件は国論を二分する冤罪事件へと発展し、今後も自由民主主義を守っていくかどうか、共和政を今後も存続させていくかどうかをめぐって一大政治闘争の様相を呈した[3]。そうしたなか、保守主義と反ユダヤ主義が結びついた極右勢力も伸張し、反民主主義・反議会主義の主張を劇化させ、1900年5月のパリ市議会選挙では80議席中45議席を獲得するなど、一部ではあるが顕著な成果をあげた[4]。ドレフュス事件を契機にフランス国内で徹底的な政界再編が必要であることが痛感されたのである[3][注釈 1]

エミール・コンブ

1902年フランス総選挙は、急進党、民主共和同盟、社会主義者らの「左翼ブロック」の圧勝に終わり、急進共和主義者のエミール・コンブフランス語版)が首相となった[5][注釈 2]。1880年代の「宗教戦争」の旗手はフェリーであったが、1900年代の旗手はコンブであった[6]


教皇庁の「ラリマン」政策に乗じて修道会は復活を遂げていたが、コンブは反教権主義の諸政策を推し進め、就任後まもなく多数の無認可学校と無認可修道会を閉鎖した[6]。前任者ピエール・ワルデック=ルソーは、無認可修道会の解散令を含む結社法をすでに前年に成立させていたものの緩やかな運用をはかっていたのに対し、コンブは内務大臣と宗教大臣を兼ね、この法律の厳格な適用に踏み切ったのである[6]。1902年に無認可修道系の学校で閉鎖されたのは約3,000、解散を命じられた無認可修道会は300におよび、1903年には、認可申請してきた修道会のうち135会派の申請を却下した[6]。これらの措置によって1880年代同様、2万人におよぶ修道士修道女が追放された[6]。強制閉鎖にたいする抵抗には軍隊も出動させるなど、反教権政策は苛烈で徹底したものであった[6]1904年7月には修道会教育基本法を成立させ、認可修道会を含めたすべての修道会士を教団から排除している[5][6]。これにより、私立学校であっても修道聖職者が教育にかかわることが全面的に禁止された[6]。2,400近い教育施設が閉鎖され、いくつかはベルギーイタリアなどに移転した[5][6]。同年、フランスはバチカンとの外交関係を断絶している[6][注釈 3]。信者からは「悪魔」と罵られたコンブであったが、フェリー法に始まった教育の世俗化は法的にはここで完結した[6]。ただし、修道会系の学校は、私立世俗校の体裁で認可を受け、実際には聖職者が運営するというスタイルで、そののちも存続した[6]

政教分離法の制定

編集

モーリス・ルーヴィエ

政教分離法は1904年11月、コンブ内閣によって上程されたが、1905年1月に同内閣は総辞職し、後任のモーリス・ルーヴィエフランス語版)内閣によって1905年12月9日に成立した[5][6]

政教分離法によって、フランス国家および地方公共団体の宗教予算は一切廃止となり、信仰は完全に私的領域に限定されることとなった[6]。聖職者の政治活動は禁止され、宗教的祭儀における公的性格も剥奪された[6]。教会財産の管理と組織運営は信徒会に委ねることとした[6]。これによって、19世紀の政教関係を100年余にわたって規定してきたナポレオン1世とローマ教皇の間で結ばれた1801年のコンコルダ(政教協約)、すなわち、カトリックを「フランス国民の多数の宗教」と認め、フランス革命中にカトリック協会が受けた損害を聖職者に俸給を支払うことによって補償するとした協定は破棄され、16世紀以来続いてきたガリカニスム体制も最終的に解体された[4][6][注釈 4]。これは、伝統的に国家と強く結びついてきたフランスのカトリック教徒にとっては容易に承認できることではなかったので、翌年の財産目録作成の際にはバリケードをつくるなど激しい抗議行動を展開した[4][5][6]ブルターニュ地域圏ブール=ブランでは、学校から十字架やキリスト像が取り除かれたと知られると、欠席者が急増したといわれている。ローマ教皇ピウス10世も、1906年2月17日、政教分離法を掠奪法であると称して猛然と非難し、信徒会の結成も否認した[6]

抗議行動は従来の修道会ではなく教区教会によるものであったため、いっそう過激化・大規模し、前回を上回る激しさで全国的に攻囲戦が展開されたので、政府は軍を派遣せざるをえなくなったが、これには軍の一部からも反発も出たため、政府はそれ以上の強硬策がとれなくなった[6]1907年には信徒会の設置義務を緩和し、コンブが執念をもやした修道会教育禁止法も厳格な適用が見送られるようになった[6]。こうして政教分離法は一部骨抜きにされた[6][注釈 5]

政教分離法の影響

編集

ライシテ」および「ライクリッキ」も参照

政教分離法を受けて1905年に国有教会ティンパヌムに掲げられた「自由、平等、友愛」( Liberté, Égalité, Fraternité)の銘

上記のように、政教分離法は骨抜きにされた部分もあったが、しかし、その制度的枠組みがもつ意味は決して軽いものではなかった[6]。この法律により、フランス革命期に始まって1世紀以上におよんだ、共和派とカトリックとの文化統合をめぐる闘争に一応の決着がつき、1905年以降、「ライシテ(laïcité)」の国家原理はナチ占領期の一時期(ヴィシー政権)を除いて、第四共和政を経て第五共和政の現在までフランス共和国の法的枠組みを一貫してかたちづくってきたからである[6]

「ライシテ」とは、非宗教性、世俗性、政教分離の3要素を内包する概念であり、フランスでは愛国的な共和主義的理念として発展してきた[7] [注釈 6]1946年の第四共和政憲法では、信教の自由が明記されるとともに、第一条では、フランスが「不可分で、ライックで、民主的で、社会的な共和国である」こと(四原則)を強調しており、1958年の第五共和政憲法でも、人種・宗教による差別の禁止、法の下の平等がいっそう強調されている。

フランス革命以来、共和派がスローガンにしてきた「単一にして不可分な共和国」はすべての中間権力の介在を排除し、万民法のもとに個人を公民として直接的に国家に統合しようという社会システムであったが、共和派にとってはカトリック教会の位階システムは国家内国家そのものだったのである[6]。「議会制とライシテの共和国」こそが、フランス的な国民国家だったのであり、100年にわたる習俗革命の完成であり、国民統合の成果だった[6]。一方、長期的にみれば、教会が国家の統制から離れることもこれにより可能となったのである[5]

政教分離法およびそのなかのライシテ原則は、共和主義世俗主義の思潮および信教の自由を保障しようという立場に対し、世界的にも大きな影響力をもった。

ポルトガルでは、1910年10月5日革命によって王政が倒れた[8]テオフィロ・ブラガによるポルトガル第一共和政はイエズス会などすべての修道会を廃止し、教会財産を没収した。翌1911年には、政教分離法が施行され、ローマ教皇庁と断交した[8]。ポルトガルの新憲法は、ブラジルとフランスのそれを範としたものであった[8]

ライシテの原則は、1922年トルコ革命にも影響をあたえた。その過程で生み出されたのが「ライクリッキ(laiklik)」と呼ばれるトルコ共和国1923年10月29日建国)独自の政教分離原則である[9]。建国の父、ムスタファ・ケマル・アタテュルクはこの原則をフランスのライシテ原則を参考にして形成し、1937年にはこの原則を含む一連の「ケマル主義」を確立させた[9]。ライクリッキ原則は、現行の第三共和政憲法である1982年憲法においても継承されており、そこでは、宗教的自由(第24条第1項)、国家の非宗教性(第24条第4項および第5項)が定められている[10]

日本国憲法(1946年公布、1947年施行)においても、第20条に、

一 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

また、第89条には、

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない。

の規定がある。

政教分離法


信教の自由の限界

編集

信教の自由のうち内心の信仰に関するものについては、思想・良心の自由(日本国憲法第19条)と同じく絶対的無制約と解されている[12]。内心の信仰において邪教か真正な宗教かという判断については、国民の手に委ねられるべきものであって、公権力が決定すべきでないと解されている[12]

これに対して、外部的行為を伴うものについては、信仰の表明としてなされた行為であっても他者の権利や利益に対して現実的・具体的害悪を及ぼす場合にまで絶対的に保障されるものではない[12]。ただ、宗教的行為は内心の信仰と密接に関連するものであるから慎重な配慮が必要とされ、信教の自由に対する制約については、その性質上、表現の自由と同様に厳格な基準が適用される[12]

信教の自由に関する判例

編集

なお、政教分離原則に関連する判例については、政教分離原則の項目を参照。

加持祈祷事件

精神障害者の平癒を祈願するために、宗教行為として加持祈祷行為がなされたが、それによって被害者を死亡に至らしめた行為が、傷害致死罪に問われた事件で、最高裁は憲法第20条第1項の信教の自由の保障の限界を逸脱したものというほかないとして、被告人の上告を棄却した(加持祈祷事件、最大判昭和38・5・15刑集第17巻4号302頁)[13]

剣道履修拒否事件

最高裁は、信仰上の理由により剣道実技の履修を拒否した神戸市立工業高等専門学校の学生に対して、学校側が採った原級留置処分及び退学処分について、裁量権の範囲を超える違法なものであると判断した(神戸高専剣道実技拒否事件、最判平成8年3月8日民集50巻3号469頁)。

輸血拒否事件

最高裁は、 宗教上の信念から、いかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しているエホバの証人の患者に対し、医師がほかに救命手段がない事態に至った場合には、輸血するとの方針を採っていることを説明しないまま、手術を施行して輸血をした場合において、医師の不法行為責任を認めた(エホバの証人輸血拒否事件、最判平成12年2月29日民集54巻2号582頁)[14][15]

青春を返せ裁判

平成13年6月29日札幌地方裁判所で言い渡された統一協会(現・世界平和統一家庭連合)の元信者原告20名の事件(青春を返せ裁判)の判決では、正体を隠した勧誘等を内容とする統一協会の伝道・教化活動について、目的と結果の不当性も認定したうえで最終的に「信仰の自由や財産権等を侵害するおそれ」のある行為であると認定した[16]

オウム真理教と信教の自由

編集

日本の警察は、オウム真理教の教団施設から脱走した信者を拉致する事件が頻発し、東京都内でも1991年(平成3年)秋ごろから相次いでいたが、オウム真理教は『信教の自由』を盾に警察の追及を免れていた。元警視庁捜査官は「本人の自由意思で教団に戻った」と主張されると、警察官は引き下がらざるを得なかったと歯がゆさを語っている。1995年2月の目黒公証役場事務長監禁致死事件まで、オウム真理教事件に関する捜査が進められなかったため、「信教の自由」を盾に、同種の事件が起こる懸念を表明している[17]

ジャーナリスト藤田庄市は、殺人を「ポア(救済殺人)」として正当化する教義をもつオウム真理教や、先祖因縁などの宗教的脅迫で財産を奪取する統一教会を例にあげ、「信教の自由」が「精神の自由」を侵害する人権蹂躙は、従来の宗教観の枠に呪縛されていれば見えないと指摘した[18]
生命、家族、財産など人々の生存の自由を脅かす宗教事件の現場を歩いて考えてきたのは、「何が根本的問題なのか」ということである。現代日本という社会的歴史的条件を捨象し、抽象化してしまえば、出家も献身も高額のお布施や献金も、すべて崇高な宗教行為として語ることは可能である。殺人ですら「正当化」できる論理は存在する。 (中略) 政教分離と一体の信教の自由や、権力の干渉に対する思想・信条の自由の問題ならば裁判所も理解しやすかったであろう。しかし、筆者流に言えば、「精神の自由」に対する侵害は、従来の宗教観の枠に呪縛されていれば、それこそ「カルト」に内在する人権蹂躙は見えないのである。宗教事件の底には、信教の自由、精神の自由の問題が横たわっている。自由の範囲を拡大する問題なのである。 — 藤田庄市「オウム、統一教会……「信教の自由」に奪われた自由」より[18]フランス 編集この節の加筆が望まれています。「en:Freedom of religion in France」も参照フランスは、幾らかの宗教団体をセクトと指定し、監視を行っている (政府の文書によってセクトと分類された団体一覧#フランス)。欧州でイスラーム過激派によるテロが続く中、2016年、フランス当局は、イスラーム過激派の伝道を行っていると見られる一部のモスクを強制的に閉鎖した[19]。また、フランス当局は、「世俗的原則のための厳密な配慮」の上で、モスクの資金の透明性の確保することに取り組んでいる[19]。アメリカ合衆国政教分離の原則 Separation of Church and State編集国家と宗教が結びつくとき、個々人の信教の自由に対する間接的圧迫を生じたり、宗教が世俗権力と癒着することで宗教的な純粋さを失って堕落したり、国家が宗教的な激しい対立に巻き込まれてきたという歴史があることから、国家の非宗教性ないし国家と宗教との分離が要請されるようになった[23]。しかし、分離の度合いはまちまちであり、フランスのように完全な分離の立場をとる国々もあれば、イギリスやデンマーク、コスタリカのように国教制度をとりつつ国教以外の宗教に対して広汎な宗教的寛容を認めることで信教の自由を図ろうとする国もある[23]。日本国憲法第20条は第1項後段で「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」として特権付与の禁止と宗教団体の政治的権力行使の禁止を定めている[24]。また、第3項後段で「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」とし国の宗教的活動の禁止を規定している[25]。詳細は「政教分離原則」を参照

信教の自由世界人権宣言に規定される権利




ーロッパにおける政教分離の歴史(ヨーロッパにおけるせいきょうぶんりのれきし)では、ヨーロッパにおける政教分離原則の成立史、すなわちヨーロッパの諸国家政治社会と宗教キリスト教)との関係性の歴史について叙述する。

1801年の政教協約(コンコルダ)の寓意画
ピエール・ジョセフ・セレスタン・フランソワ

ヨーロッパにおいて、政教分離原則の成立は突発的な歴史事象としてあらわれたのではなく、長い歴史的過程のなかで徐々に進行した結果、成し遂げられたものである[1]。したがってここでは、その成立史を近代以前の政治社会にもさかのぼり、国制や宗教政策を軸として社会的背景や政治思想史・宗教思想史との関連も含めて記述し、ヨーロッパにおいて統治機構と宗教組織が分離していく過程として説明する。

ヨーロッパにおける政教分離の歴史


政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)とは、国家宗教団体の分離の原則をいう[1][2]

また、教会と国家の分離原則(: Separation of Church and State)ともいう[3]。 ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し広義には「君主」や「国家」を指す[4]世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている[5]

国家により、フランスなどに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や[4]、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)[6][7][8] などに分かれる。 信教の自由制度的保障として捉えられ[9]、政教分離と信教の自由は不可分である[10]。 本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。

目次











類型

編集

融合型・分離型・同盟型

編集

国教」、「コンコルダート」、および「政教一致」も参照

歴史的条件の違いを反映して、政教分離は国によって様々な形態をとる[11]。1977年にジャック・ロベール英語版)の試みた類型化によれば、国家と宗教の関係には融合型、分離型、同盟型がある[12][13][14]融合型フランス語: la confusion[13])は国教型ともされ、バチカン市国、イスラム諸国のほか、イギリス、イタリア、北欧諸国も含まれる[12][14]
分離型フランス語: la séparation[13])のフランスやアメリカ合衆国などにおいては、国家と宗教が完全に分離され、教会は私法上の組織にすぎず、国はその運営に関与しない[11][12]。ただし、分離型とされる中でも、宗教に友好的ないし同調的なタイプ、宗教に非友好的ないし中立的なタイプ、宗教に敵対的なタイプ(フランス語: la séparation hostile[13]唯物論に立った旧ソビエト連邦など)の3タイプに分かれる[12][15]井上順孝によれば、ピューリタンの影響を受けて建国されたアメリカ合衆国は友好的なタイプ、19世紀を通じてカトリックの影響力が削がれていったフランスライシテは中立的なタイプに該当する[15]。また井上修一によれば、国教を禁じるアメリカ合衆国憲法は中立的なタイプに該当する一方、フランスの政教分離はカトリックから抵抗を受け、第一次世界大戦後の友好的な時代を経て、今日は同調的なタイプに変わってきた[12]
同盟型(コンコルダート型)においては国家と教会は独立しているが一定の協力的制度関係が存在する[12]。同盟型における国家の教会への関与の例としては、司教の任命、司祭の報酬の決定などが挙げられる[13]。ドイツにおいては、教会は憲法上の地位を持って活動するが、政治と競合する領域ではコンコルダート(政教協約)を結んで解決する[11]


国教が定められている国

キリスト教

イスラム教

仏教

融合型(国教制度)マルタ - カトリック(1964年憲法 第2条)
コスタリカ - カトリック (コスタリカ憲法 第75条)
モナコ - カトリック (モナコ憲法 第9条)
イングランド - イングランド国教会聖公会
スコットランド - 長老派教会
アイルランド - アイルランド教会
ウェールズ - ウェールズ教会
デンマーク - ルター派教会1953年憲法 第4条)
ノルウェー - ルター派教会(1814年憲法 第2条)
アイスランド - ルター派教会(1944年憲法 第62条)
フィンランド - ルター派教会、正教会フィンランド正教会
ギリシア - 正教会(ギリシャ正教会
チュニジア - イスラム教
サウジアラビア - イスラム教ワッハーブ派 基本統治法第1条で憲法はクルアーンおよびスンナであると規定
エジプト - イスラム教、ただし宗教政党は禁止されている。
スリランカ - 上座部仏教
ブータン - 大乗仏教


分離型(厳格な分離)アメリカ合衆国
フランスライシテ
トルコライクリッキ
メキシコ
エストニア
スロヴァキア
スロヴェニア
ハンガリーハンガリー共和国憲法
日本日本国憲法第20条) - 戦後のみ政教分離型。戦前は国家神道が宗教でないとされ神道が事実上の国教であった。
オーストラリア - 憲法第116条で信教の自由が保障、国教は禁止


コンコルダート型

詳細は「コンコルダート」を参照オランダ
ルクセンブルク
ドイツ1949年基本法 第140条)
オーストリア
イタリア1947年憲法 第7条、第8条)
アイルランド1937年憲法 第44条)
スペイン(1978年憲法 第16条)
ポルトガル(1976年憲法 第41条4項)


協約方式・寛容令方式・政教分離方式・国教制

編集

また、別の類型としては、国教制:特定の宗教の優位の公的承認を含む(中南米、アジア(仏教、イスラム教)、イギリス、スペイン)
協約方式(コンコルダート、政教条約):国家と宗教とくにローマ・カトリック教会の関係を国家間の条約のように扱う(イタリア、ドイツ)
寛容令方式:優勢な宗教を尊重する(スイス、ベルギー、フランス、ブラジル)
政教分離方式(日本、アメリカ、メキシコ、フランス、トルコ、インド、韓国)


がある[10]。ただし、現実には重複することもあり、完全に形式的に分類できない[10]

政教分離原則

政治の用語、または概念