知の泉で喉を潤すことにした
高校3年生の冬に漢字検定準1級を取得した。幼稚園生の頃から本の虫で、その甲斐あって漢字は得意になった。漢字に関しては勉強するのもさほど苦にならず、私の強みだと確信に近いものを持っていた。大学に進学したら絶対に1級を取得しようと思っていた。
準1級取得から2か月後、大学1年生の春。全国各地から集まってきた同期と雑談する中で、一人の男の子が発した一言に、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「俺、漢字検定1級持ってるよ。」
その時初めて、自分が井の中の蛙だと知った。高校までは大した挫折を経験することもなく、努力は報われるものだと信じていた。勉強は得意だったので「成績で一番を取る」ということに対してのこだわりもあった。
ところが大学に入学した途端、プライドを持っていたはずの漢字では遥か先を行かれ、高校まで成績の良かった英語でも日の目を見ることは無かった。どんなフィールドにおいても上には上がいることを知った。それは小さな田舎では分からない世界だった。
塀に囲まれた蛙だった私は完全にへそを曲げ、以来、漢字検定1級の夢を追うことはしなくなった。
学びを諦めたあの時から十数年が経つ。実はその間に何度か頑張ろうとした。就職してすぐ、勢いに任せて1級を受検したら30点も取れなかった。200点満点の試験での、30点。まさかここまで歯が立たないとは。あまりの落胆で、膝の力が抜ける。勉強しないことには為す術がないと痛感し、3、4年前に再び受検しようと参考書を手に取ったこともあったが、どうにも勉強するモチベーションが続かなかった。
学生の時に漢字検定を受けたことのある方も少なくはないと思う。2級や準2級であれば、持っておくと就職で有利に働くこともある。一方、準1級以上になると日常では出会うことの少ない漢字ばかりになり、完全に趣味の域へと姿を変える。1級の勉強に至っては国語辞典にさえ載っていないような言葉たちをひとつずつ手探りで拾い集めていく、果てしない作業になる。校閲だとかそういう特別な職業に就かない限り、あまり役に立つ場面はないのがこの1級という正体。
「仕事に生かせるわけでもないし、あまり生活の役にも立たないし。」
長年これを言い訳にしていた。だけど頭のどこかでは「10代の頃から取り損ねたままの資格」と引っかかっている部分もある。きっと40代になっても50代になっても「そういえばあの時諦めたんだよね」とひたすら気にし続けるのだろう。いい加減そんな日々に終止符を打ちたくなって、今年こそは受検しようと重い腰を浮かせることにした。
改めて漢字検定のホームページを見てみると、2022年度の第1回の試験では、1級の受検者が全国で847人しかいないことが分かった。4桁もいないことに少し驚く。合格率は9.1%、81人だって。
調べながら、ふと思った。81人しか合格者が出ない試験って、かなり難関なんじゃないの…?
なぜ大学生の時に受検を諦めたのだろう。少し調べればやりがいのある試験だと分かったことなのに。なぜあの時、頑張れなかったのだろう。後悔が次々と頭をもたげる。
でも、これまでの人生を振り返ってみると、諦めてきたことや指の間からすり抜けていったものたちが山のようにあることに気付く。漢字検定1級取得もその山の中に埋もれていた。年齢的に叶わなくなってしまった夢もある中で、今からでも回収できる夢はひとつでも多く拾い集めた方がいいんじゃないかな。1歳でも若いうちに。その方がきっと豊かな人生になる、そんな気がしてきた。だから、”もう遅い”なんてことはない。
続けて試験日程も調べてみた。試験は年3回行われる。6月と10月、それから2月。今から勉強したら、1年後の2月には間に合うだろうか。
来年2月の試験日はちょうど私の誕生日と重なることが分かった。誕生日に受検して、合格を目指す。これならモチベーションに繋がりそうだ。私、頑張れそうだよ。
これまでモチベーションの上がらない理由だった「生活の役に立たない」という点についても、最近では考え方が変わってきた。
コロナ禍になって世界中の人々の行動が制限され、「不要不急な外出は避けてください」と繰り返し叫ばれる中で、「文化・芸術活動は不要不急なのか」という議論がなされるようになった。確かにそれが無くなったからと言って死に直結するものではない。けれど、娯楽を奪われた日常の何と仄暗いことか。外出を制限されたあの頃、私たちの日々からは彩りが消えていった。
漢字検定の勉強もどこかそれに通ずる部分がある。一級の試験に出てくる漢字なんて、不要と言ってしまえばそれまでのこと。「何の役に立つの?」と聞かれても、今の私にその答えは導き出せない。
一方で、学ぶことは知的好奇心を満たす旅のようなものだ。その旅の存在を知っていること、勇気を持って旅に出ることは、もしかするとすごく贅沢なことなのかもしれない。
今から一歩、足を踏み出す。この旅はきっといつか、私の喉を潤すに違いない。
さて、一年後に答え合わせをすることにしようか。