友だちがいなくても、自分がいる
学生時代の頃、私は「友だち」作りに精を出していた。
むしろそれしか考えていなかった。
なぜか?
周りの目が気になるから、ただそれだけだった。
あいつは1人でいる寂しいヤツだと見られるのが死ぬほど嫌だった。
そう思うようになったのは、ある言葉を言われたからだ。
「友だち」がいない私を見て、かわいそうと言った人がいた。
そんな風に言われた自分を惨めだと思うようになってしまった。
1人でいる私はなんて寂しくて惨めなんだろう、と
それからはずっと、私に注がれる全員の目がかわいそうと言っている気がしてならなかった。
人の目から逃れる為に「友だち」を作ろうと意気込んだのだ。1人でいてかわいそうだと見られなければ誰でもよかった。
愛想笑いをして自分の気持ちを押し殺して人の言うことを聞いていたら、ある程度「友だち」を作ることができた。
私のことを多くの人が優しいと言ったけれど、言うことを聞くことが優しさではないとその時は分からずにいたので、愚かにも私は喜んでしまっていたのだ。
「友だち」といる時は人の目が怖くなくなったし、安心感はたしかにあった
が、
ちっとも楽しくなかった。
私の運がたまたま悪かったのかもしれない。その「友だち」との相性が合わなかったかもしれない。
でも、
どんな「友だち」といる時もつまらなかった。
原因は他でもない自分自身だ。
本来私は1人でいることが好きだったのに、周りの目を何より恐れて自分の気持ちを無視して「友だち」を作った。
社会に出てから心が楽になった1つの理由は、「友だち」を作らなくてもよくなったことだ。
「友だち」よりも大切にしなければならないものがこんなにも近くにあったのに、私は気づくことができなかった。
“自分”だ。
悲しいときも、嬉しいときも、腹が立ったときも、苦しいときも、いつもそばにいるのは自分だ。
生まれてから死ぬまでずっと一緒にいなければならないのは自分だ。
周りの目から惨めに見られることよりも、自分自身が惨めに思ってしまうことの方が危険である。
内側の本当の気持ちを知ることができるのは、家族や友だちや恋人ではなく生涯自分だけなのだから。
「友だち」が全くもって不必要だとは思わない。
しかしたとえ「友だち」がいなくても、いつもそばには”自分“がいて誰よりも理解してくれる存在だということを忘れてはならない。
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