諸刃のありがとう
大好きなうさぴーへ
こんばんは。初のおバイトから帰り、なんだか初めて味わう心持ちになってしまったので舞い戻ってきました、まっしろに。なんだか無性に友達の文章が読みたくなってしまう時があり、なぜかみなさんがそろって書いてくれる時期があり、それが重なっているとは限らないので、書き物を見つけてもちょっとの間大事に取っておくことを覚えました、最近。犬から猫へのレベルアップ。それから数年前の自分の日記があまりにも新鮮でおもしろくて、夏休みは日記らしい日記を書いてみようと、自分だけでこっそり書くいうことを始めまして、それでこちらに書くことが少なくなったのもあります。個人情報はもちろん、やっぱり公にしようにもなんとなくできない感情を気にせず書けるので、自分だけの日記もいいものですね。と公にする場で書いているのは、やっぱり自分の中だけでぐるぐる回ってしまうとそれもそれで疲れるのだな、とわかったからです。こんなにちょうどよく、緩く白く心地よいSNSがあって良かったな、と最近つくづく思います。なんだか今日は読点が多くて一文が長いですね。
バイトは、とても雰囲気が良くて楽しそうです。前回面接に行って、今日は説明を受けて見学をして、一度お客さんとしておうどんを食べるというプログラムでした。注文の厨房への伝え方だけでもうパターンやルールがいっぱいあって、本当にわかりやすく教えてくれているのに、猛スピードの微積の先生の講義くらい頭がこんがらがりました。でもおうどんはすっごくおいしかった。おいしいものを作っているお店は内部もいいところが多い、と勝手に信じています。
信じているといえば、私は感謝を座右の銘のような場所に据えていて、ありがとうを素直にきちんと言える人間でありたいなと思っています。小さい頃の痛い失敗は大抵感謝が足りなかったためだと気づいたのはいつごろでしょうか。恵まれていることをつい当たり前だと思ってしまって、時にはうっとうしくさえ思って、母親に何度も、感謝を忘れてるよ、と諭してもらいました。それでも何度でもまた忘れてしまって、でも10回くらい忘れて思い出したころに、さまざまの元凶はこれだと学んだのだと思います。何事も自分で気づくまで真には身につかない頑固者なので、人に注意してもらうことは自分で何か気づきを得るための材料だと思っています。こう思うのって傲慢でしょうか。失敗しそうなとき、失敗したとき、落ち込んだ時、ありがとうを忘れていない?と自分で自分に問いかけることができるようになったのは多分中学生くらい。ずっと言われていたとおりのことだったのに、自分でもう一度わざわざ発見して初めて学ぶんですから、随分時間がかかりますね。
楽しく友達と遊んだ別れ際にバイバイありがとう、と言うのがいつの間にか習慣になってしまって、何度か遊んだ友達にそれが移ってしまったのに気づいたときはものすごく嬉しかったな。ありがとうさんありがとう。けれども最近、やたらとありがとうを言っているばかりなのもよくないな、と思い始めました。もちろん言わないよりましなんですけど、ありがとうに陶酔しすぎて自己目的化してしまうのはどうかと。ありがとうを言うのが習慣になったと書きましたが、だんだん言葉にのせる感謝の気持ちが小さくなってしまっているんじゃないかと気づきました。多分きっかけはquoraか何かの記事で、「両親に涙が出るほどの感謝を自然にすることができますか」というような問いかけを目にして、はたと立ち止まったわけです。たぶん筆者の意図とはだいぶずれているんですけど、ありがとうありがとうなどと言ってはいるけれど、ちゃんと感謝が乗っていないことはない?とそう聞こえて。壁に当たって、感謝はした?と自分で考えて、そうだ、こうこうこういうことにもありがとうだな、という思考回路を何度も踏んだので、ものすごく高速で思考が済んでしまって、ありがとうと思っていない時があるんです、それこそ涙が出るほど悔しいけれど。本当に感謝している時は、そんな思考を経ずとも勝手に頭は下がるし感謝の言葉は漏れるし、なにかお礼がしたいと行動するものじゃないのかな~と思いました。それを表に出す努力はあっていいけれど、ありがとうを言う前にちゃんとそれをあっためる時間を作るようにしようと思う今日この頃です。
それは傍からみてもなんとなくわかるような気がします。つい最近、少し薄っぺらに見えるありがとうを聞いてしまって、自分の周りの人のありがとうがちゃんとしていたことを再確認して嬉しくなりました。逆に、本当に感謝を忘れないひとだな、と尊敬している友人がいます。謙虚で、何かいいことがあると必ず感謝をしていて、しかも心の底から自分でなくて幸運や周りのおかげ、と思っているように見えるんです。でもそういう人が、感謝と謙虚さにつぶされてしまうことがありそうで私は怖いです。だいぶ回り道をしましたがこれが実は今日書きたかったことで、アカデミックライティングなんかでは大きなペケを喰らいそうですね。かなり前にちょっと示唆的な詩を見かけたことがきっかけになっているかもしれません。何かことがうまくいった原因を外側に見つけて自分を褒めないというのも一つにはあるのですが、これはまだいいんです、ある程度自信の軸足がないと感謝なぞできそうもありませんから。そうではなくて、恵まれていることに感謝するあまり、それがプレッシャーになってしまうことが怖いんです。こんなに多くを与えられているのだから、幸せでいなくてはいけない、楽しくなくちゃいけない、くよくよ悩むことは許されない、というような義務感に。だからすごく小さなことへの感謝を探し回って、しばらくは幸せに浸れるのだけれど、いつか何かがプツンと切れてしまったときに、すごく辛くなってしまうんじゃないか、辛い気持ちを自分で認められなかったらそんなに辛いことはないんじゃないか…。もういっそのこと、薄っぺらな感謝に逃げてほしいくらいです。ちなみに私の母親は相当な心配性です。ご安心を。
だからある意味で私は、ぺらぺらの感謝が混じっている分、傲慢な分、安心なのかもしれません、何度も言うように悔しいけれど。安心な私は、一生懸命心を込めてありがとうを口にします。
くねくねとわかりにくくちょっと醜い思考を一緒にたどってくださって、ありがとうございました。酔っていないか心配なので、この記事は一晩寝かせようと思います。
2022/08/17
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