水仙

大好きなうさぴーへ

初めて見たときは、その人は隣のテーブルに座っていて、上下紺色のジャージに身を包んでいました。体育会っぽい文字が刻まれています。食堂ではおかずだけ頼んでいて、自分で持ってきた大きな四角いタッパーにはなんと混ぜご飯と思しきものが。そして、背筋をピンと伸ばして、左肘をついて顔の前に掲げた洋書に耽っているのです。文字はよくみえなかったけれど、あれは洋書にしかない縦横比とサイズです。

一昨日その人が、反対隣のテーブルにまた一人で座っていました。今回はご飯も頼んでいて、同じ洋書を読んでいて、私が友達としゃべりながらご飯を食べている間中ずっと、上の空でご飯を口に運ぶだけでハンバーグは一口も進んでいませんでした。ジャージではなかった気がするな、何を着ていたかは忘れました。窓から差す日に、端正な顔立ちが浮かび上がっていました。

時々こういうことがあります。もちろん恋愛対象ではなくて、本気で惚れたとかじゃ全然ないしなんの発展もしないのはたしかなんですけど、あ、いいな!と思ってしまってそれから見つけるたびになんだか嬉しくなっています。敢えて例えるならば、なんとなく配信をみていて推しをみつけてしまったとき(つまりこの人推せてしまうと思ったとき)に似ています。決して知り合いたくはありません、話したいわけでもありませんが、彼が読んでいる本を読んでみたいとは思います。

なんの繋がりもない話をします。最近、何が自然なのかは人によって違うのだなと思いました。生き抜き方というか考え方が前より不自然に見える人が、前より生き生きとして健康に見えるのです。私が見て歪んでいると思っても、それで実際その認識が正しくても、ただ「自然」の認識が違うだけでその人には一番合っているやりかたなのです。いえ、もしかしたら「自然」であることが自然だという前提が食い違うような人もいるかもしれません。それで、私がゆがめてしまっていると思っている生き物たちも、彼らにとっての「自然」が今の生活だったらいいな、その自然がよりすばらしいものになればいいなと思います。今の生活を自然と感じるということは根本からゆがんでいるということだろうと今までは考えていたのですが、その「不自然な」人があまりにもハッピーに見えたので考え直しました。ゲシュタルト崩壊しそうなのでこのへんで。

2024.11.30

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