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ゴーストワールドの住人

コロナに罹患して暇だったもので、古い映画を見あさっていたら、とんでもない名作に出会った。
ソーラ・バーチ主演の2001年の作品で『Ghost World』だ。

お化けの世界って言うくらいだから、何やら青春ホラーものの話かと思って蓋を開けたら楽しくてしょうがない。
簡単にストーリーを言うと、高校卒業したての女子2人組で、いつも人間観察をしては毒づいて暇つぶしをしている。おふざけで中年男を誘い出しイニード(ソーラ)の方が段々その中年に惹かれていき、一方で親友のベッキー(無名時代のスカーレット・ヨハンソン)は自立し始めて、ぽつんとひとりぼっちになってしまうというお話だ。

イニードは母親がなく(多分離婚して出ていったか)、あまり干渉し過ぎない父親と二人暮らしなのだが、部屋の中は地下アイドルかってくらい沢山の洋服と、ぬいぐるみやら人形?お面やらが所狭しと飾られており、インドの変なダンス音楽やパンクロックで踊り、鏡に向かって自分探しをしている。親友のベッキーが訪ねてきていることにも気づかずに「やべ見られた!いつからいたの?」って、とにかくその振る舞いや仕草が可愛くて仕方がない。
アメリカ人特有の胸とお尻がボボんと突き出していて、アヒルみたいな感じで歩く姿が印象的で、どちらかというと親友のベッキーの方がセクシーで圧倒的に男受けしそうな容姿なのだが、おっさんになってくるとこの年代の自分に自信が持てずに虚勢を張る女の子の方がなぜだか惹かれてしまう。
前半は色んな脇役が出てはネタが尽きず、髪を緑に染めてパンクファッションを試み、お前はシンディーローパーかってバカにされてブチギレ、すぐさま革ジャンを脱ぎ捨てて髪を黒に戻し、中盤から後半になるに従って彼女の心がみるみるすり減っていき、帰路をアヒルみたいにトボトボ歩く姿がどうにも切なくて美しい。
一方的に親友を連れ回し、一方的に中年オタクを煙に巻き、一方的に父親を拒み一方的にその他大勢をバカにする。

私も経験があるのだが、女の子ってどうして気になっている男性に対して他の女性と付き合うよう計らっていながら、いざ他の女性とうまくいきそうになると嫉妬していて、今までは全部嘘でした、私のことはどう見ていたのとちゃぶ台をひっくり返すようなことをするのか・・
これが本人もコントロールできない徐々に好きになるということか。
男の感覚からすると無自覚に女遊びをしているのではなく、そこにはある種の自己責任を常に抱えてのぞんでいるのに対し、この女の子の恋愛に対する責任転嫁・責任放棄の行動は理解に苦しい。
多分シーモア(中年)もそれなりに年を取って、笑われることに慣れている。自分はこの世界でそれほど気持ちの悪い存在ではないということを自覚していて、何やら不幸が重なった彼女のどさくさの告白についてはほくそ笑んだに違いない。
逆の立場なら、だったら何で私の恋人探しの手伝いをしてくれたんだと女は男を問い詰めると思う。
でも男がそう問い詰めることは暗黙の了解で省略される。
男女平等で男女同権ってのは根本的にあり得ないのだ。
つまり女性の方がやはり自立的に生きられないという点において、未熟であり神聖であると思う次第だ。

今でこそ、中二病やアスペルガー症候群って言葉があるが、多分誰もがこんな経験ってあるんじゃないかと思う。
私も同じ歳くらいの時に、暇さえあれば一方的に親友の家を訪ね時間を潰していると、突然彼は求人誌を眺めてはこれだと応募先へ電話をし、明日から就業が決まった。
その時素直におめでとうと言ってやれなかったと記憶している。
今思えば彼も私が側にいることで、当て付けってわけではないが、この機に乗じて一歩踏み出すことで、日々の自堕落な生活から踏ん切りをつけたかったのだろうと思う。
この時の「あー置いてかれた」って感じは覚えている。その親友ともその日を境に離れてしまい、また友達ができては別れ、またまたできては別れを繰り返していくうちに、どこかクールなお付き合いでしかなくなっていく。

人付き合いって、結婚もそうだが、同じ価値観を共有できる瞬間はほんの一瞬で、どちらかが一方に合わせることでしか成立せず、合わせるというストレスを微塵も感じないのだとしたら、その人はよっぽど美人でわがままを押し通せる幸運の橋を渡っているに過ぎない。
そして、自分の心が現実に傷付くことって当時はとても絶え難いことだが、もしその風景を空から俯瞰できたとしたら、やはりかけがえのない青春だったのだとこの作品はそんなことを伝えたい気がした。
つまり、バス停で来ないバスを待っているおっさんは幽霊で、シーモアも半分幽霊で、ベッキーは幽霊になること拒否し、イニードは幽霊になることを選んだ。
結末は賛否両論あるが、私はそういう物語と解釈した。

ソーラ・バーチは女優なのだから、こんな俯瞰視もできた上で演じていたのかもしれないが、この作品を機に徐々に露出が減ってしまい、一方のスカーレット・ヨハンソンは大スターとなり、ソーラが2015年に復帰するまであの可愛いアヒルちゃんの成長を覗き見できないことは大変惜しい。
だったら彼女も俯瞰ではなく等身大でカメラに写されて、次第次第に自分の心も憑依し、現実の心とも折り合いを付ける時間が必要だったのかもしれない。
役者だってゴーストワールドから離れれば生身の人間なのだから。

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