ノンバイナリーとして生きる。

私は昔から、男の子の中に混じって鬼ごっこや闘いごっこをするような、活発な女の子でした。

最初に好きになったキャラクターは、アンパンマンに登場するロールパンナちゃんです。

プリキュアもセーラームーンも観ていたけど、仮面ライダーも好きでした。

ジブリの主人公たちのような、かっこいい女の子に憧れていました。

黒い服を好み、スカートが嫌いでした。
ヒラヒラした可愛らしい服を身につけるのも嫌でした。

幼少期は自分の性別を特に意識していなかったと思います。

両親も『女の子らしくしなさい』『そんな女の子らしくないことするな』なんて言わない人たちでしたから、自分自身に違和感を持つこともありませんでした。

普通の”女の子”とは、確かに少し違ったと思いますが、自分自身のことは“女の子”だと思っていました。

初めて誰かを好きになったのは、多分小学校6年生です。

相手は“男の子”でした。

それくらいの時期に初潮が来ました。
母は「おめでとう、“女の子”になったんだよ」というようなことを言ったと思います。

「生理というのは“女の子”しかならないもの」と学校で習っていましたから、特に驚きはなかったです。

驚きはなかったですが、確かな違和感はありました。
どこか、自分が変わってしまったような。心地の良いものではありません。

しかしそれが、はっきりと「自分は女の子なんだ」と性別を意識し始めたタイミングだったと思います。

それと同時に、他の子と比べて“女の子らしくない”自分にも気づきました。

他の女の子は、男の子と一緒に戦いごっこはしませんでしたから。

そんなこんなで、中学生になりました。

中学校は制服があるので、大嫌いだったスカートを履かなければなりません。

だって私は“女の子”だから。

中学生になってからは、男の子の中に混じって遊んだりすることはなくなりました。

だって私は“女の子”だから。

基本的に女の子の友達と一緒に行動し、女の子と一緒に休日を過ごしました。

男の子の友達もいましたが、やはり前のように男の子たちの中に同化して関わることはできなくなりました。

だって私は“女の子”だから。


いつの間にか私には“女の子”としてしか生きる選択肢が与えられていませんでした。

私には子宮があり、卵巣があり、月に一回排卵があって、痛みを伴う生理があります。

だから、私は自分が“女の子”であることを疑う余地もなかったんです。

自分でも気づかない内に、私は許可していないのに、誰かに“女の子”というラベルを貼られていました。

拒否する選択肢も、余地もどこにもありませんでした。

でも、やっぱりどことなく違和感があったんです。

“女の子”として生きることに。

何故好きな異性を気にすると、気を遣って可愛らしい服を選んでしまうのか?

邪魔なだけなのに、何故髪を伸ばしているのだろう?

全ては多少なりとも“女の子”らしくいるためでした。

それが正しい“女の子”としての選択だと思っていたから。

でもそれは何のために、誰のためにだったのでしょう?

成長するに連れて自分自身に“女らしさ”を求める社会の居心地の悪さを感じていました。


そんな中で“ノンバイナリー”という概念に出会いました。

ノンバイナリーとは、簡単に説明すると、自分をを「男性」「女性」と性別のどちらにもはっきりと当てめない、当てはめたくないという性自認のことです。

この概念に出会ったのは、Twitterでノンバイナリーの方のツイートを読んだことがきっかけです。

その方の性自認に関する言葉がの一言一句が、自分に当てはまったんです。

私の場合、身体的形質が“女性”であることに一切違和感はありません。

生理があることや、胸に膨らみがあることは多少腹立たしいですが、特に拒否感はありません。

つまり、生物学的に“女性”であることは受容しています。

でも別に、今から男性の身体になってもどうってことはないです。

ただ与えられたから、この身体を使っているという感覚です。

私は“男”でも“女”でもない。
ただ、“私は私”である。

この定義は、私を“女の子”としてラベリングするよりも遥かにしっくりきました。

ノンバイナリー”という概念に出会って、ここ数年感じていた自分自身に対する違和感が、スッと軽くなりました。

居心地の悪さも、なくなりました。

本当の自分に出会ったような、そんな嬉しい気持ちでいっぱいになりました。


だから私は髪を短く切ったんです。

だから私は、出来るだけ“男らしく”も“女らしく”もない服を好んで着るんです。

男でも、女でもなく、私は私だから。



それでも全く迷いがない訳ではありません。

「私は本当に、ノンバイナリーなのか?」
「本当にノンバイナリーだと名乗っていいのか?」
「このコミュニティに属していいのだろうか?」
「今この瞬間にも、間違って誰かを傷つけているのではないか?」
「発信することで“お前はノンバイナリーではない”と否定されないだろうか?」

と毎日のように考えますし、やっぱり自分は間違っているのではないか?と怖くもあります。

今もこうして、皆さんにお話しするのは怖いです。

もし受け入れられなかったら?

拒否されてしまったら?


ずっと色々なことを考えてきましたが、こう結論を出しました。

私は性自認や性的趣向は日々揺れ動いて、流動的に変化しても良いのではないかと思うんです。

これはあくまで私の考え方なので、違う方がいるのは当然です。

しかし私は、アイデンティティを形成していく中で自分自身が揺れ動くのは至極当然だと思うのです。

実際、私は今年の最初は自分が“女の子”であることに疑問を持っていませんでした。

色々な概念や、価値観に触れていく内に、ようやく自分にぴったりの物を見つけたんです。

例えそれが数年経って、“やっぱり私は女性だ”となるならなるで、別にいいと思うんです。

そう意味では私は“ジェンダーフルイド”の側面もある気がします。

ジェンダーフルイドは性自認が複数の性のあいだで揺れ動く性自認のことです。


一方で、私はこれまで一貫して性的対象は男性です。

でも、もしかしたらこれも生きていく内に変わるかもしれないな。
と思っています。変わってもいいのだと思っています。

このように、私という1人の人間の中には本当に沢山のマジョリティ性とマイノリティ性が詰まっています。

沢山の概念や価値観や考え方が存在する中で、『これが私だ!!』と言い切ることはとても難しいことです。

しかし、私は自分と向き合っていく中で確実に自分のアイデンティティを確立することができています。

どれもこれも、余すことなく、欠かすことなく、
全て“私”なのです。

自分の中にある違和感を徹底的に解体し、突き詰めて理解しようとすることは時に痛みを伴いますが、自分を愛し、大切にする上では非常に大切な思考過程だと思います。

そうすることで、私は自分自身を受容し、愛することができています。


ここまで長らく私の性自認についてお話ししてきましたが、皆さんにお伝えしたいことは一つだけです。

あなたは、生物学的に“男性”だから、“女性”だから価値があるのではありません。

あなたが“あなた”であるからこそ、価値があるのです。

あなたの価値を決めるのは、あなたの身体的特徴ではないんです。

だから固定観念化された“男らしさ”や“女らしさ”を無理に追い求める必要はないんです。

あなたは“あなた”であるだけで、十分素敵で美しい存在です。

周りの誰もが認めてくれないのなら、私があなたを認めます。

だから、怖がらずに自分自身と向き合ってみてください。

本当のあなたが、心から望んでいる自分の姿は何か。


そうすることで、私たちはより私たちになれるのではないでしょうか?

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ここまで私の拙文を読んでくださり、ありがとうございました。

私はジェンダーについて専門的な勉強をしている訳ではないので、間違ったことを書いているかもしれません。
もしも私が酷く不適切なことを書いているようでしたらご連絡くださいませ。


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