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はるみぞれと夏の少年  第14話 ―巡る春を拒む―

 驟雨が呼んだ霧が、世界を白い幻へと誘い入れた。
 春霙(はるみぞれ)が歩いてきた道すら濃霧によって隠され、彼女は自分が今どのくらいまで登ってきたのか把握できていない。しかし彼女のすれ違う樹木の幹はだんだんと細くなってきている。彼女は確かに上へと進んでいた。雨と霧の中で春霙は、裸足の半夏雨(はんげあめ)が、音もなく駆けていく幻を目にした。彼女の肌に当たる雨が痛みを伴い始めたのは、その頃だ。雨は霙へと姿を変えた。

 食むことすらできそうな淡紫の濃霧は、霙の重みに耐えきれず少しずつ彼女の進むべき道を明け渡した。同時に緩やかになる傾斜、彼女は空を仰ぐ。ようやく見えた空には重たい灰雲が垂れこめている。そこから、霧の覆う地表へと霙が降り注いでいる。
 それが雪へと変化するのに、時間は要しなかった。春霙には雪を見た記憶がないのだろう。だから彼女は、初めて鼻先をかすめた氷の花を見て空が崩れてきたんじゃないかと愕然とした。けれど雪の、肌に触れる感触があまりにも優しくてまた泣きそうになりながら、心を持ち直した。こんなに優しく崩れゆくものがあるんだと彼女は知った。雪は一切の音を、足音すら静けさの中に抱えこんだ。
 どっしりとした幹の、栂や葉が茶変した檜はいつの間にか姿を消した。けれど細く頼りなさそうな白樺は、雪に色彩をもらっていつまでも道の両側から彼女を見下ろしていた。森の中の、昔誰かが踏みしめた一本道だ。今は何者も通らなくなって久しい。大葉子の見る影もない。
 ふと春霙の耳に、茅の葉がこすれ合うような、硝子越しに聞く雨のような音が届く。音のする方へ目を凝らすと、東に広がる木立の先に、山間の沢が見えた。川が、先の雨で勢いづいたのだろう。雪の降る中ここまで音を響かせている。川の水は曇天の下で、春霙にも見えるほど透きとおり、川底は春から夏へ向かう雨の色をしていた。その色に誘われて春霙は久しぶりに、自らの屋敷とその庭を偲んだ。
 渋茶の桜の幹から伸びる枝に、風の溜息みたいな花弁が透明な空を抱く、柵のない庭。散る花は意識を惑わせる幽かな芳香をまとって、叶わない残酷な夢を私に見せたあとで、傍の小川に落水する。頬に触る草花は、月明かりを編んだレースのようだった。そこに佇む私の屋敷、かつての私の家……。
 ああ何故だろうか。春霙はそれが上手く思い出せない。扉の形はどんなだったろうか。柱の手触りは、机の模様は、毎日約束事みたいに体を沈ませていた、ベッドの匂いは?
 春霙の指先は凍り始めていた。しかし彼女は足を進めることを止めない。もう冬はすぐそこにいる。規則正しい寝息のような雪風が、木立の間を駆けだした頃、彼女はそれを確信した。その確信だけを力にして、春霙は雪を踏んだ。
 風は春霙を拒むかのように勢いを強めていった。地面に積もった雪すら舞い上げて、やがて吹雪になった。雪をまとった烈風が春霙のあどけない髪を嬲る。
 春霙は考えた。この先にいるまだ名前の知らぬ誰かについて。きっと彼は何かに怯えている。静穏、平安、それすら彼を傷つける。だから拒絶するしかないのだ。
――どうかそんなに拒まないで。悲しい。私はきっとあなたと仲良くなれるのに。

 踏みしめてきた道はもう雪の下だ。いたる所で倒木が目につくようになった。しまいには雪の上に生える木々は全て、風下に向かって薙がれたように倒れていた。中程で乱暴に折られているもの、根こそぎ倒れているもの、無事な木は一つとしてなかった。春霙は胸の底まで冷えるようだった。ここは今よりもさらに強い風が吹くのだ。竜の息吹のような颶風が。
 冬の底のありかを目指し続けた春霙の目が、吹雪に守られるようにして建つ灰色の砦を見つけた時、彼女の髪は雪に染まりつつあった。周りにはもう木々が育てない程の風が吹いていた。春霙は風に抗い、トランクをきつく握りしめ、砦にゆっくりと確かな足取りで近づいた。近づくほどに、彼女に悲しみと安堵の表情が広がっていく。
 砦の唯一の入り口である鉄の扉は、冷たく堅く閉じ、痛々しく錆び付いていた。誰かを送り出すことも、迎え入れることも遥か遠くに途絶えたのだ。沈痛な面持ちで春霙が見上げる砦は、かつて誰かによって造られたのが信じられないくらいに静寂を飼い殺していて、無機質だ。灰白色の岩が粗野に積み上げられただけの、崩れかけの小さな砦。今はただ、家主の眠りが安寧であることを願うだけの悲しい守り人。かつて塔だった場所。冬の先まで見通すことだってできた。
 春霙は、茶褐色に錆びてざらりとした手触りの扉に両手を押し当てた。そして歓迎も受けぬまま、その扉を精一杯押した。長い年月が絡まり芯まで冷え切った鉄の扉は、新たな来訪者にようやく気づいて軋み、小さな悲鳴をあげた。そのうち限界を迎えた蝶番が鈍い音をたてて壊れ、腐食した扉は内側へと傾く。灰のがらんどうに耳障りな断末魔を響かせて、鉄の扉は役目を終え動かなくなった。

 そうして彼女はようやく、僕の眠る塔へと足を踏み入れたのである。

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