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はるみぞれと夏の少年 第9話―季節を渡る―

 家主を失くした、風通しの良い屋敷の中で春霙(はるみぞれ)はソファにもたれて少しのあいだ眠り、幽かに夢を見た。
 海のように大きな、青く透き通った湾の岸辺で、水面を蹴る夢だ。彼女はその夢の中で、視界の端まで広がる水溜りがどこかで海と繋がっているのを知っている。風が起こすさざ波が立てる音が、青々とした山に吸いこまれ、木々ははち切れんばかりに肥った葉を擦れ合わせた。彼女はそれを心底豊かな気持ちで聞き入っている。彼女を包むのはまごうことなき「夏」であった。
 春霙の中に、こんな記憶はあっただろうか。いや、これは春霙のものではないだろう。彼女は気づいている。この夢は「夏」の、半夏雨(はんげあめ)が持っていたものだ、と。
 春霙は目覚めた。そしてやはり不快なほど静まった屋敷の中を見渡し、肩を落とし頭を垂れ、炎天の下へとぼとぼと歩き出した。もう日は天高く、地面からうだるような熱気が立ち上る。よく手入れされた庭へ出ると、昨日は凛と前を見据えていた立葵が、心なしか気落ちしたように下を向いている。その中の一つ、薄桃色をした立葵の花の一つが春霙を気遣うようにそちらを見ていた。春霙は手に持っている、春の花を詰めたトランクに先程できた空きを思い出した。
 ――一緒に来るかい。
 春霙は優しく、立葵のシフォンドレスを傷つけないようにして、その一花を摘んだ。そしてそっとトランクの中にしまったのだった。

 春霙は、さっき夢で見た大きな湾を思い出した。そこへ行ってみようと思った。ここへ降り立った時からずっと景色の中にあったあの空より濃い水の傍へ。半夏雨の屋敷から岸辺まではそう遠くなかった。春霙が乗っていた電車の走る線路を越えて、草原を下り切ると真っ白い砂浜が広がっている。波打ち際へ続く砂浜の斜面には、淡い色の浜昼顔が、そして少し離れた場所に浜昼顔より濃い鮮やかな槿が一つ残らず花開いていた。
 春霙は風に揺れるそれらの花が、たった一日しかその柔らかな花弁を開くことができないとは知らない。けれど終わりの気配を彼女は感じ取っただろう。空が途方もなく青く、今日もまた積雲の白さが目に痛い。
 これほど生命力に満たされているのに、この虚しさはなんだろう。

 春霙は波打ち際に近づいた。目の前に広がるのが、切り取られた海のたった一部でしかないのが信じられない心地で海の香りに包まれた。レースアップのブーツを脱ぎ、裸足になるとぬるい水面に足先で触れた。指の股を、砂粒がいたずらにくすぐっては水中を舞いあがる。潮の香りがする水は透明で、けれど沖へ向かうにつれて浅葱色を重ね、そして吸い込まれるような深い群青になる。
 その様子を恍惚と眺めていた春霙は、ふと、沖の方から滑らかな起伏を成しながら波がこちらへ向かってくるのに気づいた。それに乗って何やら小舟のようなものがやってくる。春霙のいる岸辺にまで到達した波は、小雨に似た音を響かせて熱い砂浜を濡らした。臙脂のスカートの裾が濡れるのもかまわず、春霙は小舟を見詰めている。小舟が春霙の目の前まで来ると、沖からの波は止み、早く乗れと言わんばかりに小舟は停止した。
 小舟の中は空で、操舵手らしきものは見当たらない。春霙が小舟を訝しげ見ていると、その背中を乱暴な風が一押しした。春霙はあわててトランクと靴を小舟の中に放り込むと、自身もそれに乗り込んだ。すると示し合わせていたかのように、山の方から涼しい風が吹き下ろしてきた。その風がゆっくりと小舟を押し戻し、春霙を乗せた小舟は岸から離れていった。

 風に髪の毛を弄ばれながら、振り返った春霙の目には半夏雨(はんげあめ)の住んでいた屋敷が遠く。屋敷が背にした稜線の向こうから、入道雲がぽっかりと真っ白な頭を覗かせている。彼女はその「夏」を切り取った景色を見ながら、あの場所へ再び戻ってくることを決意した。背負った分厚い本の重みを肩に感じながら。

 湾の水底は浅く一定であった。水の透明さゆえに目を凝らさなくても、空色に揺らめく水底が見えた。独りでに進む小舟の行き先は、おそらく春霙が次に訪れるべき場所なのだろう。魚一匹見当たらない水中を光の波紋だけが駆けまわる。ここでは用無しとなってしまっていたショールを頭から被り、日除けにしながら春霙は微かに山脈を望むだけとなった周囲を見渡した。小舟は湾を横断していく。時折りどこからか波が沸き起こり、小舟をぐんと前へ進ませた。
 春霙の静かな心はずっと半夏雨のことを考えている。耳で聴きとれる声を聴いたのは、彼が初めてだった。だから春霙は、半夏雨のことをこんなに考えてしまうのかもしれない。今度会えたら、他愛のないお喋りをしよう。一番高い木はどこにあるだとか、川に潜ったことはあるかとか。そういうことを考えながら、春霙はまた少し目を閉じた。


 そして強い風に再び目を開いたとき、あたりは夕暮れの闇が立ち込める黄昏時となっていた。ほんの少し、のんびりとまばたきをするような気持ちで目蓋を降ろしたつもりだった春霙は、小舟の浮かぶ水面が不穏に波打ち、どす黒く染まっているのに目を見開いた。透き通って見えた水底はすっかり見えなくなっている。
 空は茜色に染まり、灰がかった細い雲がはるか上空で千切れていく。雲が見たことのない速さで流れ消えていくのを見ていた春霙は、目を閉じるまで自分の頭にかけていたショールが、無くなっていることに気がついた。いそいで舟のへりにつかまり周囲を見渡すが、うねる波は素知らぬふりで小舟を突き動かすばかり。不安定に傾いで安定しない小舟の中で、春霙はトランクを胸に抱きかかえて波が静まるのを待った。ただただ気まぐれな風が、春霙の指先からまた熱を奪っていく。

 世界は夜を迎えた。
 ひとしきり荒れた波と風は、星がちらちら瞬き始めると急に興ざめしたようにその動きを止めた。水面は凪ぎ、春霙の乗る小舟の波紋だけが音もなく広がり消えていく。嘘のように静まり返った水鏡に星が明かりを落とし、仄暗い水底が再び姿を見せた。青白く光る若い星が、春霙を幾分か落ち着かせた。
 小舟は肌寒い夜をつつましく進んだ。やがて遠くからきいきいと、金属が擦れあうような音が聞こえ始めた。それが小舟の進行方向から聞こえてくるのだと春霙が気づくと同時に、前方に小さく揺れる朱色の灯りが現れた。
 弧を描いて揺れるその灯りは、人が手を振っているようだ。春霙は、小舟がようやく対岸へ渡ったのだと理解した。小舟が進むにつれて灯りは大きくなり、それがカンテラに入れられた火だと目視できる頃、小舟が速度を落とし春霙の前に現れた時のようにゆっくり停止した。
 小舟が泊まった小さな船着き場から、小舟の上の春霙に手を差し伸べたのは、半夏雨と同じ髪色の少女だった。カンテラの灯りが少女の瞳の中で閃いている。春霙はその手を取ると、トランクと共に舟を降りた。
 足を降ろした瞬間、春霙は、辺りが嗅いだことのない香りで満ちているのに気づいた。潮の匂いでもない、「夏」とも違う、物悲しい匂い。
 少女は春霙の手を握ったままにっこりと笑った。
 ――こんばんは。
 その声は春霙に、半夏雨の声を思い出させた。少女は春霙の風に乱れた髪を、慣れた手つきで直した。
 ――ずっと向こうから風が吹いていたから、誰かが来るんじゃないかと思って、待っていてよかった。寒かったでしょう。
 少女は名前を秋微雨(あきついり)と名乗った。
 カンテラの灯りが泳ぐ彼女の瞳は緋、春霙の知らない、寒に当てられた葉の色。

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