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上京物語

連続岐路エッセイその③

 卒業後は上京するつもりだという話をしたら、北九州で何となく演劇をしながら暮らしていた一人の先輩が「俺も東京に行って芝居しようと思ってたんだよ」と言ってきた。じゃあ節約のためにも向こうで同居しようかという流れで話は進んでいった。この先輩が木村である。
 木村は特別芝居が上手いというタイプではなかったが、ハートが強く恥じらいのないぶっ飛んだ演技が出来る稀有な役者で、彼だったら東京の演劇シーンでも通用するんじゃないかと思っていた。

 上京直前の一九九九年二月、向こうでの住まいを探すため、木村と一緒に東京へ飛んだ。朝早く北九州から高速バスに乗って福岡空港へ。飛行機に乗って羽田に着いたらモノレールで浜松町、山手線に乗り換えて新宿、中央線に乗り換えて吉祥寺へと移動した。家探しの間、吉祥寺の隣町、西荻窪にある親戚の家に泊まらせてもらうことになっていたのだ。
 ようやく辿りついた吉祥寺で昼飯にしようということになった。ぶらぶら歩いていると、天丼の吉野家みたいなお店があった。〝てんや〟だ。てんやのテーブル席で向かい合った二人は無言になった。朝一番からの長旅と乗り換えの猥雑さ、そしてあまりの人の多さに疲れ果ててしまったのだ。このとき口には出さなかったが「やっぱり東京なんて来なくていい。九州に戻りたい」と私は考えていた。後から聞くと、木村も同じ思いだったらしい。このとき、どちらかが「やっぱ東京住むのやめようか」と言ってたら、ひょっとしたら二人して九州に戻って職探しをしていたかもしれない。私たちの上京はそれくらい覚悟がぬるかった。

 普通は新宿に近いとか、渋谷に近いとかで街選びをするのかもしれないが、私と木村は「演劇の聖地〝下北沢〟に行きやすいところ」という条件のみで物件探しをした。となると、京王井の頭線か小田急線である。明大前、吉祥寺、三鷹台、経堂、祖師ヶ谷大蔵、ちょっと離れて笹塚などの不動産屋を見て回った。サブカルやるなら中央線。そういう認識はあったが「中央線沿いのボロアパートに住んで演劇をやる」というあまりにもベタな選択を私はしたくなかった。(のちに木村はコテコテの中央線『中野』に住んでカルト劇団で活躍する、というベタな演劇人になるのだが)
 現住所が九州となっていて仕事も決まってない怪しい二人組ということで、なかなかアパートを借りるのが難しかった。「登戸か溝の口あたりはどうですか?」なぜか色んな不動産屋で登戸と溝の口を推薦された。この二つの街は東京からわずかに外れた神奈川県川崎市に位置する。どうやら住所が二十三区外となると、それなりに安い物件が増えてくるようだった。いや、俺たちは東京に来たのだから、やっぱり東京に住まんといかんだろう。
 二人とも、そのラインは譲らなかった。結局、世田谷区の千歳船橋という街に、何とか2DKのアパートを借りることが出来た。

 大学を卒業し、東京への引越しを無事終えると、まずは食い扶持を確保しなければならなかった。就職活動よりも日銭稼ぎだ。しかし東京ではアルバイトの倍率も高く、なかなか長期のアルバイトに就くことが出来なかった。短期、中期のアルバイトで食い繋ぎながら、合間合間に映像製作関係、書籍編集関係などクリエイティブ業界の面接も受けたが、箸にも棒にも引っかからないという有様だった。
 上京したての頃はとにかく木村と一緒に演劇を見まくった。どこか自分の嗜好に合う劇団を探すという意味合いもあった。木村は上京前から目をつけていた某カルト劇団に入ることを決めた。私は自分と同世代の人間が作っている演劇をいくつか見て、劇団に所属するのはやめようと考えた。九州でちょっと褒められたくらいでは何ともならないくらいレベルが高かった。自分が勝負できるとはとても思えなかったのだ。

 一九九九年が終わっても、やっぱり世界は滅亡しなかった。その日暮らしに精一杯なまま、あっという間に一年が過ぎ去った。木村は徐々に頭角を現し、劇団内で主要メンバーとなっていった。さらに当時大ヒットしていた恋愛バラエティ『未来日記』や『あいのり』に出たいと言って応募するなど、彼なりの東京ライフを楽しんでいた。映画の自主製作をやっていた近藤さんはアマチュア映画最高峰の舞台で準グランプリを獲って、将来を嘱望されていた。東京には劇研時代の先輩が他にも数人いたが、やはり演劇をやっていたり、出版社に勤務していたりとクリエイティブに生きていた。
 黄金世代とハズレ世代。その違いを改めて思い知らされた。しかし、彼らには成功して欲しいと純粋に願ってもいた。
 俺は何のために東京に来たのだ……。金のないまま新宿や渋谷の繁華街をぶらついていると、厭世的な気分になった。孤独感というものは、むしろ人が多い場所でこそ身に沁みる。この頃は、とてもじゃないが東京の暮らしを楽しむ余裕などなかった。
 もうダメだ、九州に帰ろう。でも長崎はいやだ、福岡くらいにしとこう。私はまたしてもぬるく決意した。しかし、戻るにしたって引越し代すらない。まずは引越し代を貯めよう。最後のバイトのつもりで応募した会社の面接で、私の運命は大きく変わることになる。
 仕事内容は〝スキャナー補助〟。よく分からないが何だか楽チンそうだな、という軽い気持ちで応募したバイトだった。面接時にIQテストのようなものをやらされた。するとその日のうちに面接官から連絡があって「うちの上司が中野君の履歴書とテスト結果を見て、絶対に採用しろと言ってるんだけど、取りあえずまた明日来てくれない? 上司と会わせるから」ということだった。バイトごときで何を大げさな……と思いながら翌日会社へ行くと、事業部長という肩書きの強面の壮年男性に引き会わされた。
「中野、お前はなんでバイトなんかしてるんだ。頭もいいし、ちゃんとした大学出てるじゃないか。なんか目指してるものでもあるのか?」
「いや、そういうわけではないんすけど……。色々受けたんですけど落ちちゃって……」
「じゃあ、うちにはバイトなんかじゃなくて正社員として来い。悪い会社じゃないから」
 こうして、これまでの苦労が嘘のようにあっさりと就職が決まったのである。

 会社は従業員五〇〇人規模の印刷関連業。クリエイティブだと言えなくもないが、どちらかというと技術職だ。私はそこでDTPオペレーター、スキャナーオペレーターとして働くこととなった。パソコンのキーボード一つ触ったことのない私を部長の一声で採用してもらえたのは本当にありがたかった。
 ちなみにこの頃は今ほどデジカメが高性能ではなく、印刷物に使用する画像は全て写真フィルム(ポジ、ネガ)からスキャニングしてデジタル化しなければならなかった。そのため、スキャナーオペレーターはそれなりの知識と技術が必要な専門職として重宝されたのである。
 安定した収入があれば生活も心も安定してくる。職場は築地にあったが、仕事が終わると同僚たちとよく飲んで帰った。月島のもんじゃ屋でビール、築地の寿司屋でビール、有楽町のガード下でビール、八丁堀の立飲み屋でビール、という具合だ。休日には渋谷や新宿に買い物に出掛けたり、パチンコに行ったりと、ごく普通の生活を謳歌し始めた。
 この頃になってようやく東京は面白いところだと感じるようになった。都会だから面白いわけではない、JRと私鉄、地下鉄を合わせるとかなりの数の駅があるのだが、その一つ一つに文化があり特徴がある。色んな顔を持った街がたくさんあるのが面白いのだ。知らない街へ行って終電を気にしながら飲むというのも、都会っぽくて何だか嬉しかった。

 そのまま三〇歳を過ぎた。同居を解消して一人暮らしをしていた木村も演劇活動の一線から退いて真面目に就職していた。休日にファン参加型の企画ものアダルトビデオに出演して「キングオブチ○コとMVPをダブル受賞した!」と自慢するなど、彼なりの東京ライフは迷走していた。近藤さんはホラービデオの脚本を書いたり監督をやったりしていたが、あるときすっぱりと映画を諦めて地元の名古屋に帰っていった(しかし、その一年後に突然東京に戻ってきた)。私は職場ではオペレーターのリーダーとなっていた。私も木村も仕事はストレスフルで、しょっちゅう飲みに行っては「二人で会社かなんか作って一緒に仕事できたらいいよね」と語り合った。
 もう、演劇とかクリエイティブとかどうでもよくなっていた。そんな活動をする余裕も野心もなくなっていた。
 しかし、今の会社に一生勤めるという未来にもリアリティがない。五〇歳にも六〇歳にもなって毎朝満員電車に揺られ、上司に怒られる日々という生活が想像できなかった。
 業界の未来も明るくなかった。少し前から印刷関連の仕事は目に見えて減っていた。デジタル化の波が押し寄せていたのだ。一眼レフのデジカメもプロ仕様の高画素数のものが続々と売り出され、カメラマンがフィルムで撮影することも少なくなっていた。必然、スキャニングの需要は減り、私がこれまで培ったスキャナーオペレーターとしての技術は不要なものとなっていった。
 私を採用してくれた部長は派閥争いに敗れ、数年前に退職していた。部長不在によって社内のパワーバランスが崩れ、仲のよかった同僚たちも次々と転職していった。
 それに、田舎の両親も高齢になってきていた。長崎とは言わなくても、そろそろ九州へ帰らないといけないのではないか。考えれば考えるほど将来に対する焦りが募っていった。

 弁護士や司法書士のような士業をやれば、独立できるんじゃないだろうか。ふと、思い立った。開業できたら東京でも九州でも場所を問わないし、うまくいけば木村や他の友人たちとも一緒に仕事ができるようになるかもしれない。
 色々と調べていくと弁護士や司法書士はさすがに難易度が高すぎるが、行政書士か社会保険労務士なら頑張って勉強すれば資格試験に受かるような気がした。とりあえず時間の融通の効く派遣社員をしながら行政書士の勉強をしよう。そう考えた私は長らくお世話になった会社を退職することにした。
「そんな風に言って辞めていったの何人か知ってるけど、それで資格取った奴なんか聞いたことないよ」
 辞める直前に新しい上司から嫌味を言われた。

 退職から一年後、私は行政書士の試験に合格した。上京してから実に十年の歳月が流れ、私は三十三歳になっていた。

 人生には「あの時が一つの岐路だったんだな」と後になって思い返すことが度々ある。私の場合、三つ目の岐路はこの会社を退職したことだろう。ここにずっと勤めていたら、ストレスと引き換えに将来の安定を手に入れることが出来たのではないか……(この会社は、今現在も順調に売上を伸ばしている優良企業だ)。考えても詮無きことだが、そう思わなくもないのである。


つづく

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