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西の果てにあった閉塞感

連続岐路エッセイ 最終回

 仕事を失うまで、残り二ヶ月を切っていた。
 ちょうどその頃、東京の外れにある大手自動車工場に季節工として働きに来ていた三〇歳の従兄弟が、契約期間を満了して長崎へ戻ろうとしていた。この一年、私は彼に付き合って東京の色々な場所を案内していた。
 三〇歳になるまで長崎を離れたことがなかった彼には「一度は東京で暮らしてみたい」という願望があったらしい。彼は週末の度に都心に出てきては、精力的に色んな街を遊び歩いていた。たった一年間であったが「東京
は楽しかった! 亮兄ちゃん(私のこと)がおるなら、また出て来ようかな。季節工やったら金も貯まるし」と言って長崎へ帰っていった。

 次の仕事は……まだ東京にしがみつくか、そろそろ九州に戻るべきか。私はいくつもの転職エージェントの会社に登録した。就業希望地は東京近郊か福岡市とした。
 木村の父親が少し前に病気で倒れていた。アプリ開発をするのに別に東京にこだわる必要はない。ネット環境とパソコンさえあれば、どこでだって出来る。常々そういう考えを持っていた彼も「そろそろ福岡に帰ろうと思ってる」と話していた。
 エージェントのアドバイスを聞きながら職探しをした。佐賀県の鳥栖市にある製薬会社が総務経理の管理職クラスを求めているということで、そこを狙っていきましょうという話になった。鳥栖は佐賀県とはいえ、博多から電車で三〇~四〇分ほどの場所だ。東京で例えたら大宮とか川越とか船橋とか立川とか町田くらいの郊外という感覚である(都市レベルは前述の街々に遠く及ばないが……)。博多と鳥栖の中間に位置する大野城か二日市あたりに住めば、福岡の繁華街にも鳥栖の職場にも電車で二〇分程度で行ける。実家で何かあったときも長崎までは一時間ちょっと。
 うっすらそういう生活を想像していた。

 頑なに長崎を候補にしない理由の一つに「父の仕事」が関係していた。父は長崎で自分の弟と一緒にある建設業の会社を経営していた。大会社ではないが、グループ全体で五〇人ほどの従業員を抱える、それなりの企業であった。幼い頃はそんな父が誇らしく、自分は会社を継ぐものだと信じて疑わなかった。これまでのエッセイでそこに言及はしなかったが、高校卒業時、大学卒業時、一つ目の会社の退職時、節目節目で「父の会社に入る」という選択肢はあった。しかし、そんな安易な方向に流されたくなかったし、会社の業務内容にも興味を持てなかった。

〝父の会社を継がなければならない〟
 それは呪縛のように私の人生につきまとった。私は呪縛から逃れるように、北九州、東京へと移り住んでいった。父にその言葉を言わせないように、自分一人の力で実績を積み重ねていく……はずだった。
 父も、社長である弟も、七〇歳近い高齢となり、事業を継続するのが難しくなっていた。創業四〇余年、ついぞ有能な後継者は現れなかった。たまに実家に帰ると「もうどこかの企業に会社ごと買ってもらえないかと動いてるんだ」という話を父から聞いていた。
 両親が高齢で近くにいてあげるべきだという義務感。東京で不安定なまま生活していても未来が見えないという焦燥感。長崎には帰りたくないという虚勢。父の仕事は継がないという虚勢。自分はまだまだ東京でやっていけるんだという虚勢……虚勢。頭の中で色んな思いが渦巻いた。私はこれまで虚勢にまみれて生きてきたのかもしれない。

 その頃、別件で父から電話があった。実は仕事を辞めて九州に戻ろうと思ってる、鳥栖の会社に行くかもしれない、という話をした。会話の流れで「そっちの会社はどう? 跡継ぎ見つかった?」と訊いてみた。「いや、全然何も決まらんままだ」という返事が返ってきた。
 このあと何故そう言ったのか分からない。失職までのタイムリミットが近付いて焦っていたのかもしれない。これまでずっと避けてきた言葉が口をついて出た。
「俺が継ぐっていう可能性はあるかな?」
 
 木村が役者として成功していたら、アプリ開発が当たって会社を設立することになっていたら、近藤さんが映画監督として成功していたら、久田がミュージシャンとして成功していたら、叔父の編集デザイン事務所が軌道に乗って大きくなっていたら……。
 私もそれに乗っかっておこぼれに預かることが出来るんじゃないだろうか、呪縛から逃げ切ることが出来るんじゃないだろうか。頭のどこかにそんな都合のいい考えがあったのかもしれない。
 父の会社を継がないことは〝逃げ〟なのだろうか、自分の力で仕事を見つけないことこそ 〝逃げ〟なのではないだろうか。どちらにしろ私はいつも誰かを頼ってばかりで、困難から逃げ回る人生を送ってきたのではないだろうか。

 数日後、父から電話があった。
「鳥栖のごと中途半端なとこで働くくらいやったら、うちに来て会社ば継げ。社長や他の役員にも話したけどお前にやったら是非継いで欲しかって言いよる」
 その言葉は、長年の呪縛からの解放と、逃避行の終焉を告げるものだった。
 何かを成し遂げたわけではなく、錦を飾るでもなく田舎へ帰る私は、十七年もの間、東京で何をしていたのだろう。自分の将来から目を背けて、ただ刹那的にその日その日を楽しんでいただけだったような気がする。「一度は東京で暮らしてみたい」そう言って、一年限定の東京生活を楽しんだ従兄弟と何も変わらないじゃないか。私はそう自嘲した。

 二〇一五年初め、二〇数年ぶりに長崎に戻って暮らすこととなった。一度外へ出ると、街の魅力を再認識する。若い頃は何とも思ってなかった建物が、実は歴史的に重要な建築物であったり、海や山、港や街並みが一体となって織り成す風景が他の土地では見られないほど一際美しかったり、この歳になると改めて新鮮に感じることも多かった。その新鮮さが嬉しくて、休みの日には色んなところへ出かけていった。
 野母崎という長崎の中でも最も西に位置する岬がある。眼前に広がる東シナ海はどこまでも水平線だ。昼間は太陽の光をきらきらと反射して美しく、夕方は水平線に陽が沈んでいく様が神秘的な、どこか浮世離れした景勝地
である。
 その岬の高台からぼんやりと海岸線を眺めていたときのことだ。突然、得体の知れない恐怖に襲われて息が詰まりそうになった。
 ――この先には何もない
 長崎は西の果て、どん詰まりの地。ここから先へはどこにも行くことが出来ない。もちろん、船や飛行機を使えばどこにだって行けることは分かっている。海岸線の先には大陸があるということも分かっている。しかし、とてつもない恐怖をこのとき感じたのだ。それは、長崎の閉塞的な地形のせいだけではない。都落ちして恥ずかしげもなく父の会社に入社した、自分の人生に対する閉塞感もそうさせたのだろう。
 フラッシュバックする若かりし頃の衝動。
 この場所から出たいという衝動。ここで終わりたくないという衝動。もっと新しい世界を知りたいという衝動。都会で暮らしたいという衝動……。
「逃げ回ってばかりいたお前の人生の終着点は、やはりここなのだよ」
 誰かが嘲笑ったような気がした。
 いや、それは他ならぬ自分自身の心の裡から漏れ出た諦念であった。

 今となっては渋谷のオクトパスアーミーもHMVも、小倉のそごうもラフォーレも無くなってしまった。歌舞伎町を歩いても怖い目に遭うことは無くなったし、立ちんぼがいたエリアには韓流アイドルのグッズ屋さんが立ち並んでいる(今思い返すと、その辺りだったのだろうと思う)。クラブは条例違反の摘発により閉店を余儀なくされるところが相次いでいる。小倉の紺屋町や堺町はかつての賑わいを失い、閑古鳥が鳴いている店も多いと聞く。長崎の銅座や思案橋も似たようなものだ。
 木村は来年早々にも地元福岡に戻るつもりで、市内にマンションを探しているという。アプリ開発も軌道に乗ってきたようだ。近藤さんは私が東京を離れた一年後に地元愛知に戻った。職探しでは相変わらず、すったもんだあったようだが、なんとか就職できたらしい(そして休日にはコスプレイヤーの撮影にご執心のようだ)。久田は実家の家業である布団工場の経営に奮闘していることだろう。彼のことだ、また突拍子もないアイデアで変わり布団でも作ろうとしているのではないだろうか。
 時間は確かに流れているし、街も人も変化している。みな四〇代のいい歳こいたおっさんだ。〝俺たちの東京〟は終わったのだ。

 人生には「あの時が一つの岐路だったんだな」と後になって思い返すことが度々ある。今回がこれまでで一番の岐路だっただろう。長崎に戻るという決断も、ひょっとしたら後になって悔いるときが来るかもしれない。
 しかし、今はこう言える。田舎に帰って両親の近くで暮らすのもいいじゃないか。無職になるくらいならコネを使って会社に入ってもいいじゃないか。誰しもが諦念を抱えながら生きている。私の人生はまだまだ続いていくのだ、と。

おわり

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