演劇廃人
連続岐路エッセイその②
演劇をやりたいと言いながら具体的なイメージがまったくなかった私は、大学の演劇研究会に入って、その本気度にまず驚かされた。生っちょろい部活動などではなく、それはほとんど劇団であった。会場は外部のホールを借りる、照明は自分たちで回路図を書いて吊りこんでいく、舞台装置や小道具、衣装などももちろん自分たちの手作りで、搬入から舞台の設営までには二、三日の期間を要する。そしてチラシ、ポスター、パンフレットのデザイン、版下作り、印刷会社への入稿、パンフレットに載せる広告の営業、脚本作り、役者の演技指導などなど、演劇をするためのすべての行程を学生の手だけで作り上げており、そのクオリティは私の想像をはるかに超えていたからだ。
このサークルは年に三回、春、夏、冬と公演を行っていた。そのうちの春公演だけは学内の教室を借りて舞台を作る。新入生を勧誘することが主な目的だからだ。入学式の壇上に上がって新入生相手に下手なサークル紹介演説をするよりも、まずは公演を見てもらう方が手っ取り早いという考えからだった。
入部希望者は三日間の春公演が終わってバラシ(舞台の解体)をする日に初めてサークル活動に参加することとなる。何をしたらいいのか分からないままバラシの手伝いをして、会場を完全に元の教室に戻したらようやく打ち上げが始まるのである。
いや、大事な儀式を忘れていた。打ち上げの前には名言が飛び交う「反省会」というものがあった。この反省会も形式上やるだけではなく、皆が今公演を行うにあたって感じた不満や改善点などを本気でぶつけ合い、激論を交わすのだ。若いから言うことも熱いし、熱くなったらついつい個人の人格攻撃みたいになったりもする。そのうち泣き出しちゃう女子とかいる。そこだけ見たらかつての学生運動で危険視された〝総括〟と変わらない。
いつの時代も若者は討論や他者批判、自己批判が大好きなのである。
さんざん舌戦を繰り広げた後にようやく打ち上げが始まる。ここまで来ると、先輩方の気も緩んで楽しく酒を酌み交わし始める。何故か部室に置いてあるフォークギターをかき鳴らす人がいる。泡盛を大量に飲まされてひっくり返ってる人がいる。反省会の熱そのままに議論を続ける人たちもいる。
確認しておくが、これは九〇年代半ばの話だ。学生運動華やかなりし六〇年代、七〇年代の話ではない。
「中野くんはどんな芝居が好きなの?」
「今回の公演を見てどう思った?」
いきなりそんなこと聞かれても何と答えていいものか分からなかった。自分の中で比較対象になるような演劇も見たことないし、好きな芝居なんてものはなかった。あまりに知識に乏しすぎたのだ。
「あ、いや、なんか皆さん上手だなって……」
そんな当たり障りのない言葉しか出てこなかった。
反省会から打ち上げへの流れの中で見る先輩たちは会話の質、レベルが高かった。みな博識で自身の考えをしっかり持っており、私の目にはとても魅力的な大人に映った。
無気力だった私は「ああ、ここでやっていくのは無理かもな……」と弱気にもなったが、優しい先輩たちが「今度うちに飲みにおいでよ」「どの講義が楽に単位取れるか教えてやるよ」などと言って、私をすぐに仲間として扱ってくれた。見知らぬ土地で初めての一人暮らし。友人も親戚も頼るべき人がいない中で、彼らの懐の深さが身に沁みてありがたかった。先輩方に早く認められるようになりたい、そう思った私はずぶずぶと演劇の魅力に……いや魔力(と呼んだ方が正しいだろう)に取り憑かれていくことになる。
演劇研究会でちゃんと活動するようになると、北九州市が地方都市の割にはかなり演劇がさかんな土地であるということ、私が所属する演劇研究会は九州内の学生演劇の中でもトップレベルであるということ、そのときの先輩方は劇研の長い歴史の中でも、第何次目かの黄金世代であるということが分かった。
それからは演劇漬けの日々であった。生活の全てが演劇中心となっていった。先輩たちと同じレベルの議論ができるように研鑽を重ねた。卒業して何年も経つというのに、稽古場を訪れては先輩風を吹かすOBたちから「君たちの世代は意識が低い」と言われ続けた。
あっという間に一年が過ぎ去った。才能を持った先輩たちが引退し、有望な後輩たちが続々と入部してきた。脚本が書ける者、光るセンスを持つ者、高い演技力を持つ者。いよいよ我々は〝谷間の世代〟として追い込まれていった。
言われっぱなしでたまるか。私はどうやったら自分たちの同期で面白い演劇が作れるかということばかり考えていた。東京へ観劇のために旅したこともあった。金がないから青春18きっぷを使って、丸二日かけて上京した。
滞在中、時間と金が許す限り演劇を見漁った。今をときめく堺雅人が早稲田の学生時代に主演した公演もその中にはあった。この時期には映画もたくさん見たし、小説もたくさん読んだし、ミュージシャンのライブ映像もたくさん見た。何でもいい、観客をあっと驚かせるような演出が出来ないものか。その足がかりをつかみたかった。
三年の月日が流れ、いよいよ私たちの引退公演が近付いていた。同期も後輩たちも会長となっていた私に気を遣って「中野さんのやりたいことをやってください。全力でサポートします」と言ってくれた。入学以来、演劇のことしか考えずに暮らしてきた集大成だ。私は自分のやりたいように芝居を作っていった。二時間を超える作品の一つ一つのシーンがどうしたらもっとよくなるか、演技なのか、仕掛けなのか、音楽なのか、舞台装置なのか、どこをどういじれば感動的なシーンになるのか、暇さえあればそんなことばかり考えていた。
結論から言うと、その公演は劇研史上最高の観客動員を記録し、好評のうちに幕を閉じた。大成功である。
しかし私自身は己の底を見た気分だった。あれだけの時間、頭の中にある引出しからアイデアを搾りに搾り出してこの程度かと。これまで三年間、劇研に入って、ほとんど私のわがままに振り回された同期たちが、これで引退となってちゃんと昇華できたのかと。
私たちがやっていたのは劇団ではない。あくまでサークル活動だ。時が来ればバラバラになってしまう者たちの集まりなのだ。私と芝居がやりたくて集まった人たちではないのだ。
「お前らは黙って俺についてくればいい。俺がいい芝居を作ってやる」
口に出したことはないが、どこかにそういう思い上がりはあった。
みんなが楽しくやらないで何がサークルだ、と思う。
〝ハズレ世代〟と言われた私たちがここまでやったのだ、胸を張って後輩にバトンタッチしていいのではないか、とも思う。
しかし今でも同期たちに対しては申し訳なかったという贖罪の気持ちが残っている。
劇研を引退すると、次に考えないといけないのは就職のことだった。この頃には完全に〝演劇廃人〟となっていた私は、この先演劇以上にやりがいを持てるものがあるとは到底思えなかった。
しかし、演劇をやるには多大な時間と労力を犠牲にすることになる。そもそも自分にはプロの役者、もしくは演出家、脚本家として食っていけるほどの才能もないだろう。ただ純粋に演劇がやりたいというのは、まだまだモラトリアムの海に浸かっていたいという甘えの裏返しであり、現実逃避であった。
それでも、そこ以外に拠りどころがなかった。考えた挙句、演劇じゃなくてもいい、クリエイティブ業界の一端に携わっていけないものか、演劇活動は仕事以外に時間が取れたらやっていこう。そういう結論に達した。
いずれ東京に――。
高校生の頃に思い描いた大都会への憧憬はいくぶん薄らいではいたが、クリエイティブな仕事を探すには、やはり東京である。九州にいたんじゃ話にならない。数年前に上京していた劇研の先輩(現北九州書房メンバーの近藤さん)に連絡を取って「こんな状態で東京に行ってもなんとかなるかな?」と相談してみた。すると彼は「何とでもなるよ」と答えた。
その言葉を鵜呑みにしたわけでもないのだが、私は特に当てもないまま上京を決意した。
人生には「あの時が一つの岐路だったんだな」と後になって思い返すことが度々ある。私の場合、二つ目の岐路はこの頃だったのだろうと思う。大学時代、演劇ばかりにかまけてないでちゃんと勉強していれば、ちゃんと就職活動をしていたら、ちゃんと己の浅はかさと向き合っていたら……。考えても詮無きことだが、そう思わなくもないのである。
つづく
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