【導入】
ため息が白い朝のあの思いもいつかは消えてしまう、あの時の気持ちをコピーしたいなと感じている今日この頃。さて、本題は「隔絶」ですね。
私の頭の中にはいつも何かから逃げてて気持ち忘れて解放されたいという思いがあってそれを表現していったまでです。
みなさん「感情」について考えてみて下さい
嬉しい、悲しいなどが汎用性の高い感情表現というところでしょうか?…。
さて、あなた達はなぜ「感情」を受動的に感じていると思いますか?
それは他者が存在するからなんですよね。
あらゆる感情の起伏が他者によって齎される。
例えば、簡単な話”嫌い”なんてどうでしょう。
何かされるから嫌い、あらゆる観点に基づいて嫌いという感情が形成される。
前文で述べた事象は他者によって引き起こされることは明白です。
世の中には面倒くさい「感情」というものが存在している。
なにか病的で、言葉に表しにくいですね。
何か語れないくらい息が詰まりそうなくらい伝えたくても伝えられない。
簡単なのに難しくて。
そんな感情を忘れて終わらせてしまいたい。
人間に感情はいらないのかもしれません。
幸せだけの感情があってその分の不幸がある。
不×幸=世界の成り立ちで、欲にのまれて感情が自分自身を変えて、結局誰も幸せにはなれない。
そんな負の連鎖。
「感情」という答えがすぐ変わってしまう
根拠のないものに揶揄されすぎて感覚が麻痺してしまっている。
人と隔絶出来ればどんなに楽か。
幸せと楽は少し違って、幸せは感情によって引き起こされる事象なんですけど、楽は人との隔絶を起こしてからこそ感じられるものなんですよね
【本文】
私達は日々の生活の中で「無意識的」に誰かに、感謝の念や祝いの念などを伝えている。
では、果たしてそれらの「無意識的な行動」に籠もった本心とはなんなのだろうか?
私の自論だが、それらの無意識的な行動は反射的なもので、私達が人生経験で培った言葉の返し方であると考える。
「人生経験で培った言葉の返し方」というと、私達は人に向けて送られる言葉で何をいったら喜ばれるかなど汎用性の高い語彙を身につけているような気がする。
私はそれらの行動を「有意識相反行動」と定義づける。
例えば、芸能人が結婚したときにファンは「おめでとう」などと言うだろう。
しかし、その言葉とは裏腹に「なんで結婚するんだ」なんていう負の気持ちが向けられる。
それらは、嘘の感情を口にしていると言えるでしょう。
可哀想なんて言葉も一例で、可哀想という言葉を使い同情してあげている自己を正当化し本心では、哀れみの心しか持っていないのだろう。
「有意識行動」の問題点は前文のような自己否定に陥ることや自分の感情に嘘をつくことによる自己肯定感の低下が予想されるだろう。
私の普段の考えというと、自分以外の人間が不幸になることを心から望んでいるしこの世の中において、感情が存在する限り幸せ分の不幸も存在している。その連鎖では誰も継続的な幸せを得られないと思う。これは誰もが持っている考え方で、「嫉妬」というやつですか?自分以外の人間が幸せにしていると自己否定して負の気持ちを抱きますよね。
それらのドロドロした感情を比較的明るい嘘の気持ちである「赤色」
本心を歪んだ感じで表現するために「濃い緑」にしました。
感情は躁鬱みたいなもので幸せ周期と不幸せ周期が混在して成り立っている。
どんなにお金があってもお金以外の幸福感を求めるし、欲求と感情には相関性があるので残念なことに誰も幸せになれないんですよ。
前文を読んでもらったらわかるように「有意識相反行動」は自分の感情に嘘をつく行為でありそれらが連鎖されている限り誰も幸せになれないことは明白である。
簡単なことを言うと感情を無くすことで誰も不幸にも幸せにもならないと思う。
そう考えているうちにも私はどんどん不幸になっていく、幸せを考えると幸せの基準が高くなりギャップに追いつけなくなる、現代で言う蛙化現象がそのいい例。
そんな醜い感情を捨てるためにも隔絶を推奨していきたい。
「有意識相反行動」を無くすには「隔絶」に限る。
有意識相反行動をなくすべき理由としては、前文を読んでもらったらわかる通り自分に嘘をつくのをやめれること、正直に生きることによって誰もが当たり前の考え方として少数派が多数派へと保護される主張となること。簡単な話、黒人差別や障害者差別などが可視化され、「差別」が差別という言葉で表わされる以前の普通になる。また、私が心底嫌いな偽善者共が消えることを望んでる。
ですが、そんなのは机上の空論で人の感情を簡単には変えることはできませんし、何より「有意識相反行動」は私達が人生で培った合理的な考え方なわけですからそのようなことは望めないでしょう。
では、「隔絶」とはなんなのだろうか・・・・・
それは、人との関わりを絶ち自己の存在をなくすこと。
そして「有意識相反行動」を自ら目をそむけること。
誰の幸せも自分の不幸もみたくない、結局は人とかかわらなければ感情の起伏も偽った考えも捨てることができる。人は人と関わることでどんどん不幸になっていく。
差別や人の目を気にして生きるのは疲れました。
また、他者と比較し自己を否定し自己を肯定するために他者を否定する。そんな感情の連鎖で人間が存在する限り誰も幸せになることができない。
みんな死んでしまえというのが私の考えなのですがそのような考えは合理的とは言えないでしょう。
それらの葛藤や人間関係の無意味さを不規則で今にも崩れそうな感じで表現しました。
今にも溶け出しそうで心が溢れてしまう欲的な思いです。言葉に蓋をして感傷に浸った感じですか?ね。
その状況を打破するための考えが「隔絶」。
前文でも述べた通り感情と欲が存在する限り誰も幸せになれません。
なので、自分を楽にさせる方法こそが今の私達には必要なのではないのだろうか?
それを体現した行動が、「自殺」すること。
消えてなくなれば何も考えなくていい。
私の頭の中はいつも、死にたいという気持ちでいっぱい。
何度も死のうと思っても少しの勇気が足りない。
真の隔絶は少し勇気を出してみないとわからない。
眼差しが嫌いでしかたない。
どうせ私への嘲笑の気持ちしかないのだろうと
なにより死にたいが私のアイデンティティみたいなものなのでね
自殺することは悪いことだと捉えられがちだが社会から隔絶され感情を感じなくなった人は非常に幸せであると思う。
どっかの誰かが言っていたようにそれぞれの幸せの形を認めていくことこそが真の多様性。
多様性はそれぞれが自由に幸せに生きれるように定義された言葉だ。
私なりの解釈は、感情を捨てその根源となる社会・人との関係を絶つことによって真の幸せを感じることができる。ましてや、他者の感情負担を減らして少しでも楽にさせてあげられるかもしれない。少し背中を押してきっと迎える。はじまりのため息。夢見心地な隔絶真理と向き合う私でいいのだ。こう書いているとやはり私はみんな嫌いなんだなと思う。誰も真の私を理解してくれなくてこの心自体が浮いた作品に表れている。浮いている浮いている。世の中に私が呑み込まれて私が私じゃなくなる。だから文字で私を伝えたいと、この作品に思いを込めた。
そんなところで、どうですか?
「隔絶」できたらどんなに楽か。他者に対する憎悪の気持ちを捨てられたらどんなにいいか。考えてみてください。
これが私の「隔絶」。
今日よりも明日の方がいいかもしれない
抽象彫刻というより言葉を語りきりたかったです。ドロドロして澱んだ私の心そのものを表したというのが核心です。もっと綺麗な人の心を作品にしたかったです。優しくて暖かい愛を作品にするべきだったのかもしれない後悔1つと隔絶する私のため息。