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朝鮮通信使のこと
先日、静岡市で開催されたアースカレッジ2024にいってきました。
誰もがセンセイ、誰もがセイトのキャッチフレーズで国際理解を中心に様々なテーマで講座が開催されるイベントです。私もセイトの一人として参加してまいりました。
1時間目の授業は、朝鮮通信使について学びました。興津地区朝鮮通信使保存会の方が講師で、わかりやすく面白い内容でした。
朝鮮通信使は、足利時代に始まったものですが、江戸時代に朝鮮から12回に渡って来日した使節団を指していうことが多いです。
江戸期の朝鮮通信使は正使を代表とする300人から500人といった大規模な使節団に加えて、護衛や手助けをする日本側の人たちが加わり3000人にものぼる大規模なものでした。
双方が礼を尽くして対応しており、日本側も受け入れのために細かな気配りをしました。
例えば正史に振舞われる料理は三汁十五菜の最高級のものでした。また、大名行列にも許していない、関ケ原合戦で勝利した後に家康が通った近江の道の通行を特別に許していました。大名行列とはちあうことがないよう、その時期に大名行列が予定されている場合には、時期をずらしたり、大名側には中仙道を通行させたりといったこともされていました。
(以下は未整理のおぼえがきです)
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事務所の書庫に御触書宝暦集成がありました。同書の朝鮮人来聘の部に、延享5年(寛延元年)の朝鮮通信使の受け入れに関する記載がありましたので詳しく見ていきます。
延享5年(1748年)の朝鮮通信使は、将軍家重の襲封祝賀を目的として、477名の使節団が来たものです。
延享3年9月には、再来年の4月ころ朝鮮人が来朝する予定なので、諸事、前回の享保のときに倣って準備するようお触れがでています。同月には、通行予定の道に修復を要するところがないか吟味するよう指示が出ています。
翌延享4年4月には、宿泊や休憩をする場所毎に「御馳走人」が指定されています。御馳走人はお世話係で、ごちそうもしたのでしょうが、使節団をもてなす役目で、多大な費用がかかったものと思われます。一行は対馬から壱岐勝本を経て、淀までは海路、その後、京都、彦根、名古屋、浜松、駿府、箱根、品川などを経て江戸に至りました。
延享4年9月には、道中に焼失した家や橋などがあれば、来春までに工事を済ませるよう、町奉行に指示がされています。
その後も繰り返し道中の諸藩に注意を促すお触れがでています。
延享5年3月には、道中の家々などの整備をきちっとして、朝鮮通信使の通行中は木戸や竹垣により、人が通行の邪魔をしないようにすることとか、通行の前日には道の掃除をすることとか、火の用心を念入りにすることなど、事細かに指示されています。
延享5年4月には、6月の参勤交代は木曽路を使うようにとの指示がされています。同月には、使節団の接遇に際して一万石以上の大夫は衣冠重を着て太刀を帯びるように、と服装の指示までされています。
同年5月には、同月2日に献上する鷹が到着するところ見物人で込み合ったり、太鼓などの音で鷹を驚かせないように心得ることなど、いろいろ細かいお触れがでています。また、同月18日には献上する馬が到着するとのことで、同じく見物人で込み合うことへの対応や、太鼓の音で馬を驚かせないようになどとのお触れがでています。
また、江戸城への登城や退散が夜になる場合は西の丸大手門外で衛士にかがり火をたくよう指示されています。
更に登城時の服装や出迎えるメンバーと場所などが細かく指示されています。
6月に入ると朝鮮国王に贈る遣物についての記載があり、また、曲馬見物についての記載があります。曲馬というのは、馬上で様々なポーズをとる曲芸のようなもので、物珍しく人々の興味をひいたようです。