趣味と作品と生活とカメラ
最近のわたしときたら古いフィルムカメラを買い集めては分解し、ピカピカの実用品に仕上げたり、はたまた修理するつもりで壊してしまったり、そんなことばかりやっている。実際のところ、フィルムカメラで撮影するというのは自分が手入れをした結果を見る、という意味合いが強く、写真を撮ることに主眼を置いていることは少ないように思われる。
ただもちろん、修理が完了した、としたうえで気に入ったカメラは普段からポケットに忍ばせておいて、ときおりシャッターを切っている。休みの日には普段、車で通りすぎる町などにわざわざ電車で赴いて、写真を撮るためだけにぷらぷらと散歩していたりもする。元来写真やカメラには興味がなかったのだけれど、自分で直した道具で、自分の思ったように写真を撮るというのは、いつか買ったコンデジでなんとなく写真を撮るよりもずっと面白かった(コンデジでの写真撮影はつまらなかったところ、しかしカメラの基礎知識をわたしにもたらしていたために新たな世界への間口を広げていたのは幸いだった)。
さて、上の写真はわたしが修理の半ばで撮影したものである。こういうとき、わたしはとにかく新しいカメラのシャッターを切りたくて、とりあえず近場に被写体を選んでいるわけであるが、大体いつもこの赤い自動販売機や、送電塔を撮っている。これらの写真というのはフィルムカメラ修理という趣味の、確認作業の一環であり、写真撮影という趣味のそれとは異なる。
一方でこれらの写真というのは、被写体を見つけ、立ち止まり、構図を決め、露出やピントを調整して撮ったものである。この時のわたしというのはよい被写体や風景を探しながらあてもなく歩き回っており、写真撮影という趣味の上での作品作りをしている。
これらには行為を同じくして、目的意識に違いがあるのだけれど、いずれも共通するところがあるとすれば、被写体を一応は選んでいるという点だろう。たとえ急ぎ足でフィルムを消費していようと、じっくりと撮影していようと、その被写体というのはわたしがその時、好い、と感じたものなのだ。長らく、カメラ趣味など荷物は増えるわ、精密機器に気を使うわで面倒なものだとしか思っていなかったものだが、改めて修理、撮影、作品作りをやってみれば、これが意外なほどに熱中してしまうものだ。
というのも、おそらくそれはわたしが普段の生活や、散歩の持ち物として、コンパクトなフィルムカメラを選んだからであろう。そこまで邪魔にならず、頑強な鉄製のカメラはコートのポケットなりカバンなりに放り込んでおいてもよいのだ。ここに趣味の良し悪しというか、ハードルの低さというかがあるのだろう。生活の延長線上にあるカメラが、生活の中にシャッターを落とすことに、大した面倒などないわけで。
そこではっとしたのが、撮影という行為には同じく生活があるのだということだ。わたしが撮る写真とは生活の切り抜きであり、残そうと思った被写体や瞬間なのだ。撮影ついでに散歩をしている気でいながら、実のところ散歩ついでの撮影であり、気に入るなにかを捜し歩いているに過ぎないのだ。それを切り取り、持ち帰れるカメラを気に入るのは、至極道理なのだろう。
かつて、友人たちと夜な夜な集ってはバイクの写真などを撮っていたことがあったの。友人と夜に会っているのだからそれは当然楽しかったのだが、しかしわたしにはそれが長続きせず、自分より上等な一眼レフなどを持っている誰かが良い写真を撮って、それを回してくれればいいと、すぐに飽きてしまっていた。それは件の通り、荷物は増えるわ気を遣うわもあるし、目的や被写体が決まり切っていたからなのだろう。ゆえにつまり、わたしにとっての写真撮影とはなにかのついで、それでいいのだ。
はっきり言ってわたしは、ただ漫然と生きている。そんな人生の中では、どちらかというと面倒なことや辛いことばかりで、死にたいわけではないけれど、この世界に生きていたくないと思うことばかりだ。それでも日々歩みゆくならば、なにか好いなあと思う雰囲気をどこかに探し見つけなければ、たとえそのほとんどが気に入らなくとも共に生きようとする世界とうまくやっていけない。修理にせよ撮影にせよ、あるいは散歩にせよ単なる生活にせよ、それら趣味と目的意識とは生きる過程それ自体ではなく、生きるために必要な気力の彷彿なのだろう。その道中を手中に収められるものこそが、カメラなのだった。
すなわち、撮るとはそれでいいのだ。世界の好きな部分を存分に拾い集ればよい。その絵が作品であれ生活の一瞬であれ、わたしには収まりがいい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?