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自他の境界線を引く練習

 SNSを始める以前にはあまり意識したことがなかったのだけど、SNSを始めて主に名劇など古い作品で二次創作絵を発信するようになってからはっきりと認識するようになったことがある。

「自他の境界線を引くこと」

 SNS活動を始めてからというもの、リアルでは出会ったことのないレベルの悪意あるタイプの人に幾度か遭遇し、それでこの自他の境界線を引くということを意識するようになりました。彼らのおかげで、私は明らかに“境界線が曖昧”になりやすいタイプであることがわかりました。

今までネット上で経験してきた少々厄介な事例というのは、私自身が自他の境界線が曖昧であったことが大きな原因だったのです。

・タメ口を強要してきて言いなりになってしまう
・相手が思っていることを、あたかも私も同じように考えているかのように誤解されてしまう。

これらは境界線が曖昧、相手に自分の領域への侵入を許してしまっているごく一例なんですが、この境界線がきちんと引けない問題により、人間関係ではトラブルを引き起こしやすいことがわかりました。

SNS始める以前からリアル生活でも、思い返せば子ども時代からずっと境界線が常に曖昧であったかと思います。
それまで自他の境界線を引くという概念を知らなかったので、このこと自体を認識ができずなんだかモヤモヤする感じでした。

小学5年生の頃に仲良くなった子が、相手の境界線を当たり前のように侵すタイプだったのですね。

・宿題は私がやりたくないんだからアナタも一緒にやらないでよ(私は嫌だった。それ以外にも漢字は使わずひらがなしか使ってはいけないとか強要される)
・吹奏楽に興味があるし楽しそうだから一緒に吹奏楽部入ろう(私はやりたくなかったしそのことをハッキリ伝えたけどダメだった…)
・◯曜日は夕方から習い事があるので遊びはそろそろ切り上げないとって言っても聞いてくれない
・〜が気に入らないから、一緒に変なあだ名付けてイジメよう(もちろん私は心底嫌だったし絶対に話は聞かなかった)

小学生当時は自他境界線を知らず、この子のやっていることや言ってくる内容にモヤモヤしていてなんだか気分が悪かったのですが、このことを誰かに説明して助けを求めることが出来ませんでした。
今となれば明らかに悪影響が強い、友達とも言えない人だったのすぐさま離れた方がいいタイプだったのですが、それも出来ないでいましたね。

どうしてかというと、その子の言動の背景が見えてしまっていたからですね。遠くから越してきてこの近辺に友達は少なく、またご両親からもあまりかまってもらえていないのか寂しい思いをしていることが分かってしまってたからです。

しかし……こういう性質がまさに「境界線を侵す」タイプの人を引き寄せてしまうんですね。自分で言うのもどうかと思いますが、あまりにも優しいが過ぎる。

いくら寂しいからと言っても、人がやりたくもないことをいつも当たり前のように強要してくるようでは、少なくとも友達ではありませんし、関わるべき相手ではありません。



ネット上でも同様のことがあって、ようやく自身の境界線が引けない(主に他者に自分の境界線を踏みこえさせてしまう)問題をハッキリと認識することが出来ました。

ネット上での経験により、大きな気づきを得られたため、ひとつリアル生活での長年続いた問題が解決しつつあります。

私と私の母との関係も、そもそも境界線が曖昧だったのです。
しかし、これはある意味仕方がなかった部分も大きいと思います。
母も父が若くして亡くなってからずっと不安だっただろうし、母はあまり労働に向いているタイプではなかったから、仕事等の愚痴を聞くのは私が母に聞いてもらうのではなく母の愚痴をいつも私がきくのが当たり前でした。

実家にいた頃はそれを不満に思ったことはなかったのです。当然のことと思っていました。これも親孝行の一つと思って。

しかし……。
ここでもその“ある意味優しいが過ぎる”性質が完全に仇となってしまいました。

その後、私がまだ10代後半くらいの時から、忘れもしません。

母の姉(私からすると叔母)からお金を貸して欲しいって言われた。10万円。

私はこの時に完全に、しっかりと強く問い詰めるべきであったと、今でも思います。人生、生きていればそういうこともあるかと、そこまで大ごとには考えませんでした。しかし、いくら近しい関係とは言え、いや近しい間柄であるからこそたった一度金銭の貸し借りが発生した時点でもうその関係は破綻する可能性大なのです。

この後の展開は何度か過去noteでも書きました。
仏の顔も三度までとはよく言ったものです。
私はその後の再びどころかもう30回以上はあっただろうか。

全ては最初にキッパリと強く問い詰めなかった私が悪い。
が、母自身も境界線が曖昧で自身がそのことに全く気がついてもいないので、その後何度も母とこの件でバトルすることに。
そして、それらやり取りが積み重なってトラウマとなり、今の私の精神不安定さにつながっている。

お正月で、各家庭実家に帰省したり親戚同士集まってワイワイやったりの家庭も多いことでしょう。
私の家の場合、おそらく今後もう2度と、かつて毎年盆と正月に恒例であった叔母たち親戚含めてワイワイやる集まりは開催されない。する気にもならない。

それでいいと思う。それだけのことをしてきたのだから。

今回は母と2人、蟹スキ鍋を食べたくらいです。弟夫婦は別件で忙しかったので少し挨拶程度でした。お正月はみんな色々ですね。

今回のお正月実家帰り、朝目が覚めた時には手足が冷え切っていて感覚がない感じがして、まだ私にとっての「グリーン・ゲイブルズ」は取り戻せていないんだなと思いつつ、帰省のドライブ中では妙に頭が沸騰して怒りが込み上げてきて感情的には忙しいお正月でした。

この記事のタイトルは「境界線を引くこと」についてですが、まだまだ未熟で練習している最中なのです、私も、おそらく母も。

今回の帰省では新たなトラウマ案件は積み重ならなかった。
と言うより、私が「自他の境界線を引く」という意識をハッキリと持つに至ったために「そうさせなかった」が正しいかも。本当に、どうしてこんなことを毎回言わなくてはならなかったのか意味が不明すぎるんですが、不安から今回も念押ししておいた。今後同じことが二度と起こらないように。

・言っておくが、叔母がお金で困っても貸すようなことは絶対にしない(かつて私自身も叔母のかなりの借金を肩代わり、その以前にも連帯保証人になるように母に強要された。この時も私の境界線が弱かったことが原因の一つである)

・名義になってる軽トラは自分でも使っているのか?(ほぼ叔母夫婦が仕事で使用している軽トラを、何故か母が購入費用全額出し名義人となっているため問いただしている、今後はその息子に名義変更する予定とのことで安心した)

ここのnoteに書ける内容はごく一部にしか過ぎないけれど、自他の境界線が曖昧で他者の侵入を容易に許してしまうことの弊害はかなり大きいと感じているので共有したいと思いました。

もしも、自身が自他の境界線を引くことが苦手であっても、それに気がつくことが出来たなら十二分に救いはあります。最近就寝直前に毎日読んでいるゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門には“気づき”こそが重要であり幸福への始まりだと書かれています。何か問題があったとして、「何が」問題であるかに気付けたならあとは実践すればいいだけですからね。

これまで実家関係ではひたすら不信感を積み重ねてきてしまったのだけど、
これからは今日のような話し合いを通じて、今までとは真逆な「信頼感」を積み重ねていけばいいだけです。時間はかかるだろうけど必ずそれはできる。

少し前に心療内科にかかって気休め程度に漢方薬処方していただいたり、それ以前にも簡単なヴィパッサナー瞑想療法の手ほどきを受けたり、アダルトチルドレン自助グループミーティングに参加したりと色々やれる範囲で活動をしてきましたが(普段の名劇ファンアート描いて発信活動も、ロミ空交流会活動も趣味でありながらもこれらの活動と同様に癒し目的もある)

これらは全て対症療法に過ぎないと私は思っていて、あくまで補助的なものであり、本当の問題にはいずれ向き合わなければならないのだと思います。
それが何であるかを気がつくのが、時には非常に難しかったりするのですが(思い込みってことも多々ありますね)
もしも問題の本質に気がつくことが出来たのなら、もう問題は解決したも同然。

私はこの正月三が日で、これまでの長年の積み重ねもあって、ようやく希望が見えてきています。人間生きてさえいれば、今日この瞬間からでも、いつからでもよりよい生き方をすることは出来るものですね。


正月三が日の3日間とも毎日違う人に会い、人付き合いが億劫になりがちな私としては非常に疲れているので、1月4日最後のお正月休みくらいは家で引きこもってゆったり絵でも描いて本の続きを読もうと思います。
ようやくアンシリーズの続きが読めるかな〜✨📖

このアンシリーズというのは、毎日を誠実に前向きに生きようとする幸福な物語なのですが、家族関係に深い闇を抱えている人間にとっては少々読み難い部分もあったりするものです。しかし、この感覚も今後は徐々に変わっていくでしょう。

今年のセリアのカレンダー&手帳は赤毛のアンです!そして伝記以外は積読になっている、アン関連の書籍たち……😅


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