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ザ ジャズメッセンジャーズ


ザ ジャズメッセンジャーズ
コロンビア
1956/4/5、5/4

1954年にお生まれになったというハードバップだが、1956年になると大手メジャーレーベルであるコロムビアも興味を示し出したのがわかる。ただブレイキーとシルバーのジャズメッセンジャーズとしてコロムビアとの付き合いは、あと未発表に終わった少しのテイクを残して当時はこれだけに終わったが、ちょうど同時期にマイルス デイヴィスがプレスティッジから破格の条件で移籍する話が出て、録音した「ラウンドミッドナイト」が契約終了まで宙に浮いていた点から見て、コロムビアとしては同じくハードバップの象徴となるグループのメッセンジャーズで様子を見ようとしたのかも知れない。マイルス クィンテットと同じ編成だし。知らんけど。
またこの頃はハードバップなんて名称もなかったので、コロムビア側から見れば新しいジャズを演ってる若い黒人どもという認識だったのかも。これも知らんけど。

ただ1954年にはまだ試験段階みたいだったハードバップもここにきたらメジャーレーベルであるやないやとは関係なしで、物凄い自信と誇りに満ちた音楽に成長している様子はありありと聴いて取れるのは驚きだ。シルバーは当然だとしても同じくハードバップの寵児としてメキメキと演奏も作曲も腕を上げていたハンクモブレーも、時代は俺たちのものだと宣言している様である。これはコロムビアに限らず他のマイナーレーベルのレコードを聴いても同じだ。
一体ハードバップはなぜこうも当時まだまだ差別対象とされていたアフロアメリカンの若いジャズミュージシャンに自信を持たせるものに成長して、それがジャズの主流だと言われるまでに評価されたのか、そもそも一体ハードバップとは何なのか?ハードなバップではないことだけは確かな様だが、ここでは従来のジャズ書からはわからない事項を交えて考察して行ってみようと思う。これまでの日本の評論家はハードバップの生まれたのはいつか?と質問されたら、はい1954年です、と答えていれば大変よくできましたと合格点をいただいていたけど、果たしてそんなものでいいのかを探っていく。

前記したとおりハードバップは1954年に生まれたとされている。西海岸で花開いたクールジャズに主導権を持って行かれていた東海岸ニューヨークでプレスティッジよりマイルスデイヴィスの「ウォーキン」、ブルーノートよりアートブレイキー、ホレスシルバー、クリフォードブラウン、ルードナルドソンらの「バードランドの夜」がリリースされたかららしい。その背景としては、その前は東ではジャズミュージシャンがヘロインにまみれていた。それに比べ西は白人だからクリーンで正しい音楽だとされていたおかげで東の仕事場が警察によってほぼ立ち退き状態になった。しかしこの頃になると白人の正しい人気プレイヤーのはずだったスタンゲッツはヤク買う金欲しさにドラッグストアに押し入りあっけなく御用、チェット ベイカーもアート ペッパーもヤク漬けなのが明るみに出て一気に西の評判が落ちた時に、東ではマイルスがヘロイン中毒を克服してまた新しい音楽作りに挑み出したタイミングが一致したからと言われている。何にせよヘロイン絡みのつまらない話である。余談だが、マイルスが克服したのは麻薬ではなくヘロイン限定であるのは覚えていた方がいいと思う。それが1954年。

そして僕はハードバップを知るには1954年にアフロアメリカンの社会に何があったのか?それを探るのがハードバップというものの正体を知る一番の近道だと考えた。
その結果、1954年というのはアフロアメリカンどころかアメリカの歴史を一変してしまった画期的な判決が合衆国最高裁より下された年であったのを知る。その判決とはブラウン対教育委員会判決という。
移民国家であるアメリカ合衆国は南北戦争が終結した後の1868年、法律の平等な保護といって全人種の平等を約束した。しかしアフリカより強制的に奴隷を輸入して来た歴史までは変えられず、そこに差別が生まれた。それから28年たった1896年、合衆国はプレッシー対ファーガソン判決を下す。その内容はアメリカ合衆国は人種を「分離すれども平等」というもの。これは周りくどい表現だけど、要は建前は平等だけど白人と黒人は行く学校は別々でいいですよ。公共のバスは白人と黒人は別れて座らせてもいいですよ。白人専用の食堂には黒人を入れささなくていいですよ。という差別を認める判決で、これの行き過ぎがKKKの暴力を認めますよというもの。当然膨大な数の黒人が理不尽な暴行を受け、家や家族や命を無くした。合衆国で最も黒人へのリンチが多発したのは20世紀初頭である。
1951年、カンサス州トピカという町に住む黒人でサンタフェ鉄道の溶接工であり、町の教会の牧師助手をしていたオリーバー L ブラウンという人が連名でトピカの教育委員会を相手に訴訟を起こす。内容は、ブラウンさんの娘は家からすぐ近くに綺麗な学校があるのに、黒人という理由でかなり遠い道のりを危ない目にあってまで黒人の学校に通っている。学校は公立であり、アメリカは平等だというのだから、娘を安全で綺麗な学校で教育を受けさせてやってくれ、というもの。ちなみにカンサス州というのは南北戦争前はカンサス、ネブラスカ法によって奴隷州と認められた州である。奴隷制を廃止した北部とあくまでも奴隷を保有する南部との境界を定めるのに、ミシシッピー川以東はオハイオ川の南北、以西はカンサス州とネブラスカ州の州境としたもので、おかげでぎりぎり南部のカンサスでは戦争中、白人黒人問わず大量の人々が争いに巻き込まれて命を落としている。そんな環境だからか、黒人差別の根は深く、ブラウンさんの訴えは却下となる。しかしこの訴訟はアメリカ国内で多少は話題となり物議を醸したため、全米黒人地位向上委員会、略してNAACPが支援を申し出る形となり、最高裁にまで持ち込まれる。
そして決定的な判決が出たのが1954年5月17日。なんで日付まで覚えられたのかというと僕の誕生日と同じだからだが、最高裁首席判事アール ウォーレンによって「人種分離した教育機関は本来不平等であり、教育機関での人種隔離は違憲」という見解を引き出し、実質上分離すれども平等という変テコ条例は無効となり、それが人種差別は違法という解釈に繋がった。ブラウンさんとNAACPの執念はここに実ったのだ。

以上がブラウン対教育委員会判決の簡単な流れであるが、実はこの判決こそが当時まともな教育も受けられず南部では選挙権も与えられていなかった黒人には大変明るい未来に繋がる希望を照らすもので、これ以降の反差別運動から公民権運動のきっかけとなったのに対し、純血を死守するためにも差別を当然と考えていた南部白人には当然不満を持たれる内容であった。実際にこの後の黒人人権運動や白人による暴力事件の主だったものは全てここから始まったと言っていい。まずその翌年、ジャズメッセンジャーズが結成された1955年には黒人が一致団結した明るい材料として、アラバマ州モントゴメリーにおけるバスボイコット運動の成功。対して白人によるエメット ティル君殺害事件が暗い材料として起こったが、結局これらも後の混沌とした時代への序章として現代にも語り継がれている。言えることはそれだけブラウン判決はアメリカに衝撃を与えたうえアフロアメリカンに希望と自信を与えたものだったということである。この時の大統領が第二次世界大戦の英雄であったアイゼンンハワーで、3年後この法律を無視してアーカンソー州リトルロックの公立高校に合格した9人の黒人生徒の登校を政治がらみで阻止し、町に集団ヒステリーの騒動を起こした知事でチャールズミンガスの言うところの阿呆のフォーバスに激怒して軍隊まで出す騒ぎとなり、強くて正しいアメリカの恥を世界に知らしめる結果となった。

そういうことを考慮すると、この判決が下った1954年に始動したハードバップはこの時のアフロアメリカンの心情をまともに表した音楽だったのではないか?そしてこの空気感こそがハードバップが持ったものではないか?
調べてみると、「バードランドの夜」は1954年2月、「ウォーキン」のウォーキンセッションは1954年4月の録音だから、共に判決より1~2ヶ月ほど前に行われている。しかしコロナ禍において自粛要請が伸びるのを井戸知事が発表する前にはほぼ全ての兵庫県の商売人が冷ややかに予知していたのとは逆で、時代が変わりそうな空気感を察知してこれらが演奏されたのではないか?マイルスの自叙伝にはこの判決が出た時の話は全く触れられていないけれど、このセッションには興奮させられて最高だったと何度も述べられている。その代わりエメットティル君の事件は胸糞悪く、白人嫌いに拍車がかかったとある。だとすればマイルスも何か感じていてそれが新しい何かを生んだのではないかなと思う。それに今と違ってのんびりしていたこの時代、リリースはかなり過ぎてからだったのも想像はできる。ひょっとして判決を聞いたアフロアメリカンの若いジャズミュージシャンが、この新しい音楽を聴き、これからは白人の顔色を見ずに我々黒人にしか出来ない音楽を演奏してもいいのだという考えを持ち、それがハードバップの普遍の精神としてこの後1963年のアラバマ州バーミンハムでの教会爆破事件まで、9年におよび突っ走って行ったのではないか。言うなればハードバップとはこの判決を受けた時代に敏感なアフロアメリカン達の気持ちの高揚をジャズで表現されたものではないかと僕は思う。それゆえに日本人が好きな懐メロとして演らされたハードバップにはそういう心情が薄い分あまり入っていけない。これだけハードバップが好きでもだ。

もう一つ、ハードバップと同意語とも言える1カテゴリーにファンキージャズというのがある。僕はミュージシャンではないし、ジャズファンであるより音楽ファンとしてのスタンスで本書を書いていきたいので音楽理論的には解説しない(できない)のだが、どうやら54年よりももっと前からの黒人音楽が元々持つブルースフィーリングを復活させたものらしい。そしてその元祖かどうかは知らんが、流行るきっかけとなったのが、ブルーノートから発表されたホレス シルバーのPreaharとDoodlin’だという。そしてこのブルースフィーリング溢れる曲調もまたハードバップの大きな要素として当時のアフロアメリカンの心に染み込んで行った。
しかしこの2曲、ホレスがブルーノートのオーナーであるアルフレッド ライオンに聞かせたところ、こんな古めかしいもの売れないよ、という返事を返されたらしい。しかしホレスの絶対に自信があるからという言葉に折れたライオンがリリースに踏み込み、結果は結構な評判となった。
ライオンという人は周りが心配するくらいの人の良さで、そもそもミュージシャンには余計な口出しはしないという人だったらしいし、同じくレーベルの看板であるアート ブレイキーに何か一言でも言うと、お前は黙ってレコードを売っていろと叱られていたという。
しかし大事なことはそんな良い人でもライオンは白人でありレーベルの社長である。だから偉大なるハードバップの第一世代でも、これまではそんな人に若い黒人ミュージシャンは意見など言わせてもらえなかったのではないか。まあだからライオンの柔軟性は偉大なのだが、この時代はそんな常識も覆す勢いをジャズミュージシャンは持ったのだろう。僕は何もそんなことまでブラウン判決の成果にこじつける気はないが、これも判決と共に時代が変わったと同時に黒人ミュージシャンが自信を持った結果のものではないかと考えている。

水道筋に移転したDoodlin’には僕が集めたジャズやアフロアメリカンの歴史書が自由に閲覧できる様になっている。その本の中にはハードバップの特集を組んだものが3冊ある。ジャズ批評社61の「特集ハードバップカタログ」同じく81の「ジャズ1950年代フィーチャリング ハードバップ」そしてスイングジャーナル1994年臨時増刊の「新解釈!!ハードバップ熱血辞典」である。
この本を読んでくださっている方々ならスイングジャーナル?そんなもんあかんやろ!という声がもう聞こえてきそうだが、実はその通りで、ジャーナル以外の2冊も評論家の岩浪洋三氏以外はハードバップの歴史でこのブラウン判決に言及するどころか、ハードバップが生まれたのは1954年だと連呼するばかりで、ではなぜ1954年なのか、それに1954年に何があったのかを記している気配もない。一体どこが新解釈なのだ、著名なジャズライターやジャズ喫茶の親父が好きなレコードを並べているだけで以前と全く変わっていないではないか。
僕は何もここで自分の主張が正しい、なんて言うつもりはないが、こういう今までのジャズ評論家の書いてきたことを考えたら、ハードバップの歴史と正体を文献で知るには、目次にハンク モブレーやソニー クラークの名前など一切出ないアフロアメリカンの歴史書を紐解くのが正解なのではないかと思う。

小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建をもくろむ日々。


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