思い出のビー玉
読んでわかる人はいる気がする。これ、インサイド・ヘッドから得た発想です。
今年の夏、私はNPO法人グリーンウッド自然体験教育センターというところで約2ヶ月間のインターンをさせてもらいました。
その最中に、インサイド・ヘッドに出会ったんです。
そのインターン中はひたすら子どもたちと接し続けていました。そしてその子どもたちの中でも、グリーンウッドの行う「暮らしの学校だいだらぼっち」という年間を通しての山村留学に来ている子たち、そして何よりグリーンウッドのスタッフは、真剣に、、そして全力で毎日を生きていて。自分たちの発する言葉、行動、選択の責任を自分が取る。ということをとても大切にしていました。
そんな中に飛び込んだ私は、今まで自分の選択の色々を人のせいにして逃げてきたこと、自分の弱さ、ずるさ、だらしなさなどなど自分が今まで臭さから蓋をしてきたようなものたちが溢れ出しました。そしてそんな自分は何も積み重ねられていないんじゃないか。自分が送ってきた日々には価値がないんじゃないかというような気持ちになりかなり落ち込んだしまったのです。
そんな中で、インサイド・ヘッドをたまたま観たんです。
そうしたら、自分の中にも確実に、たくさんの人に愛されながら、積み重ねてきた尊い時間たちが思い出のビー玉のようにたくさんたくさんあることに気がつきました。
そんなビー玉も、思い出される回数が減れば減るほどどんどん思い出のゴミ処理場に送られて消却されてしまうことも理解ができました。
今私は旅をしながら、高校の同期、大学の同期、幼馴染と会っては思い出を語っています。
そんなかっこいいことじゃなくて、ただ泊まる場所が必要で助けを求めてるだけなんですけどね笑
でもそんな人たちと思い出話に花を咲かせることが今の自分にとてもかけがえのないことになっているなと昨日実感したんです。
昨日、今日私は高校時代部活が同じで、クラスが2.3年同じだったこのお家に泊まらせてもらいました。夜飲みながら、思い出話にとってもとっても大きな花を咲かせたんです。そうしたら話せば話すほど、高校生の時の思い出がとっても鮮明に映像となって脳裏に映し出されていくことを感じました。
今目の前にいるその友達の当時の姿がリアルに思い描けて。その感覚が愛おしくてたまらなくて。本当に幸せで。
自分の中の思い出のビー玉が消却されず、また温かみ、輝きを取り戻した感じがあったんです。
そんな風にただただ思い出を語り合える心許せる存在がいてくれることが、本当にありがたいことだなと思うし、
高校時代、楽しくて幸せな自分が、居場所があるという大きな安心感と共に、クラスの中に、そして部活の中にいられたことを鮮明に思い出し、感謝が溢れ出します。
そしてそんな中で、間違いなく、全身全霊で近くにいてくれる人たちを大切にするために毎日を過ごしていた自分の姿が浮かび上がってきます。
自分を受け入れるという段階でこれほどありがたい気づきはない。
こんな経験をさせてもらえている今がありがたくて尊い。