22年11月09日 コレチェキ
【コレチェキ】 別名・愛と憎しみの世界。与える者と受け取る者に分かれて行うボード・ゲームの一種である。主に女性が与える者となり、自らの姿を写したフィルム写真に花やリンゴなどのちょっとした絵を描き加え、受け取る者へ贈与する。受け取る者は写真や絵の完成度に関係なく、与える者またはその者が所属する店に千百円を渡し、感想を述べる。始まりから二分間の経過でゲーム終了となり、受け取る者は贈与された写真を持ち帰ることができる。しかしそれが必ずしも勝利を意味するとはかぎらない。むしろこのゲームの勝ち負けは、ゲームが開始された時点ですでに決定されているのである。(補足)ダイナマイトの代用品。ブルージーンズの原料。女性同士の秘密の会話。小旅行のしおり。ベンチに置き忘れたトレンチ・コートを盗まれること。魂のやりとり。留置所での日々を思い返すこと。八匹の猫の総称。触れたものみんなを傷つけること。パリに住むアメリカ人のこと。天才が見ている世界のこと。月面着陸の嘘。ある夜の出来事。すべての物語のきっかけ。
11月9日。わたしはいつもの格好。シャツとジーンズを身につけ、足元は白色のハイカット・コンバース、顔立ちはハンサム。コレチェキをやりに秋葉原へやって来たのだが、どうも調子がまずかった。UDXのベンチに腰かけながら、スーパーマーケットで買った安いビールで喉を潤す。ザ・クラッシュの『シュド・アイ・ステイ・オア・シュド・アイ・ゴー』をアップル・ミュージックで聴いた。ボーカルのジョー・ストラマーが、「ここに留まるべきか? それとも行くべきか?」という歌詞を約三分間、時折り意味のない絶叫を挟みながら、何度も繰り返し歌っている。ここで留まることができれば、わたしは素晴らしい人生を取り戻せるかもしれない。わたしはコレチェキさえやっていなければ、今頃トヨタのカローラを買えていた。つまりとんでもない金額をこのいまいましい秋葉原という街に使ってきたのだ。くそったれ。じっくり考えてみたが、やはり留まることはできないという結論に達する。わたしはコレチェキ以外から喜びを見つけ出す方法を知らない。それは大学を途中で諦めたからかもしれないし、子供時代の過ごし方に問題があったからかもしれない。わたしは変わり者?
飲んだものを路地ですべて吐いて、わたしは冷静さを取り戻した。わたしのウィークポイントは前科がないところで、それ以外はほとんど完璧な人物と言ってもいい。唯一気がかりなことは、わたし自身の健康の問題。たいていの場合、朝目を覚ますと頭が痛い。ガウンをくるんだままバスルームに入り、便器に向かって何度か吐く。わたしはこの時、気持ちをまぎらわすために女性たちのことを考える。考えたことはすぐに忘れてしまう。うがい薬で口をゆすぎ、鏡を見ると吹き出物ができている。命に別状はない。人差し指の爪が変色している。ずっとだ。何もしていない時に手足が震える。人と会うと気分が落ち込む。寝る前にやはり吐いて、しばらく眠りにつくことができない。医者はわたしに脂っこいものやアルコールの摂りすぎ、それに運動不足を指摘する。医者という生き物は、誰であれ打ち負かしたいという欲望を持っている。わたしは彼らのことが信用できない。死についての妄想。ピアノマンは鍵盤の上に倒れ込みながら死にたいと願う。家族や弟子にその姿を発見され、書き溜めた楽譜とともに往生の逸話を残したいと思っている。わたしの場合はどうか。コレチェキをやりながら死にたい? それとも未完の詩を書いている最中に? とんでもない。わたしは寝ているあいだにサンタクロースに連れ去られ、トナカイの餌になりたいと思っている。嘘だが。
アキカル店の前で順番待ちをしていると、制服に新人研修の名札を付けたメイドがわたしの元へやって来た。彼女のお気に入りの漫画のキャラクターがブラウンの髪の上からわたしを覗いている。彼女はわたしを店のいちばん端の席まで案内し、軽い挨拶を済ませてから注文を聞いた。明るくて愛想のいい子だった。わたしはIちゃんのチェキとコレチェキを頼んだ。
わたしは彼女に話しかけた。「やあ、君は入ったばかりの子かい?」
新人メイドは答えた。「はい。まだ2週間なんです」
「へえ。ところで、アキカル店のシンディは知っている?」
「ええ、知っていますわ」
「シンディはほんとうに仕事のできないメイドなんだよ。わたしの注文を何度も聞き間違えるんだ。わたしはそのたびに彼女に注意してやるんだけど、まったく効果なし。だからこのあいだ言ってやったんだ。お前は役立たずでろくでなしのメイドだってね。彼女は今日出勤してる?」
「シンディさんなら先週やめました」
「……まぁ、誰にだって向きや不向きはあるさ」
「お水を持ってきますわ……」
Iちゃんがわたしのコレチェキを渡しにやって来た。彼女は文字が書けない代わりに、幾つかのペンを使い分けて草木や花の絵を嬉しそうに描いた。その絵はおそらく彼女が幼い頃に見たジャングルの景色であり、そこは彼女の本来いるべき場所に違いなかった。彼女は利己的な研究者たちのせいでコレチェキを描き続ける人生を過ごしている。わたしはもの哀しげな目で彼女の姿を見ることしかできなかった。
「素敵な絵をありがとう、Iちゃん」
「ガル! ガルルッ!」
Iちゃんは何かを伝えようとしていた。しかしわたしにはさっぱり理解ができない。
「どうしたんだい、Iちゃん」
「ガルル……ガル……」
「お腹が痛いのかい? それとも頭かな?」
「……」
「悪いけれど、わたしは理解できないよ」
「……ガル……ガルルッ!」
突然の出来事だった。彼女がわたしに向かって一直線に飛び付いたかと思うと、鋭い前歯がわたしの左腕に喰らい付き、ひねって避けようとするわたしの上半身を前足の爪で押さえながら、わたしの腕を喉の奥までふくんで噛みちぎろうとした。わたしは焼けるような痛みで意識が飛びそうになり、ただひたすら腕を振って抵抗したが、彼女の大きな口が離そうとしなかったため、わたしは右ストレートを彼女の鼻にお見舞いした。Iちゃんは一発で気を失った。わたしは新人メイドを呼びつけ、会計を済ませてから店を出た。「警察を呼んだっていいんだからね!」
わたしはドラッグストアに入り、消毒液とアスピリンを買った。アキカル地下のトイレの水栓で傷口の血を洗い流し、アスピリンを4錠飲み、暗くなった地上へ出た。風が冷えていたが、額から汗が止まらなかった。路地で煙草に火をつけ、アスピリンをさらに4錠飲み、歩道で横になって少し眠った。起きると21時だった。わたしは本店7階へと向かった。
本店7階にはMちゃんがいた。いつだったか憶えていないが、彼女が自分自身について話してくれたことがある。Mちゃんは彫刻家である父親とスパゲッティを茹でるのが上手い母親の元にひとり娘として生まれ、中流階級の幸せな家庭で育った。しかし彼女が17歳になった頃、彼女の母親はキッチン・テーブルにコレチェキを1枚だけ残して、突然どこかへ消えてしまった。彼女の父親はひどく落ち込み、酒の量が夜毎に増え、アトリエに閉じこもって月に一度しか家に帰らないようになった。たった一人だけ家に残されたMちゃんは、孤独を打ち消すために自らのホームページを開設し、事実とは異なる華やかな私生活を綴ったブログを始めることにした。
Mちゃんの嘘にまみれたブログは、現代の理想的な家庭の象徴として、あらゆる世代の女性から人気を得ていった。彼女は自分の書いた文章があでやかな評価を受けるたびに心が躍ったが、その人気は突発的な流行に過ぎず、彼女のブログはすぐに人々の話題から消えてしまった。再び有名になりたい彼女は、毎日更新していたブログをぴたりとやめ、今度はフェミニズムの活動に精を出すようになった。彼女はSNSを使って仲間を募り、自宅のリビングでジェンダーレスを促進するための意見交換会を毎晩開いている。
わたしはMちゃんのチェキだけを注文した。やはりコレチェキは頼まなかった。Mちゃんとの撮影はすぐだった。わたしたちは映画『スクール・オブ・ロック』で、主演であるジャック・ブラックのギターソロを模したチェキを撮った。
「ねえ、あなたって、会うたびに顔がやつれていっているわよ」とMちゃんが言った。
「眠れないんだ。夜は考えなきゃいけないことが多くてね」とわたしは言った。「君の方こそ、血の巡りが悪そうな顔付きに見えるよ」
「あら、あたしは健康よ。今朝もスムージーを作って飲んだの。今夜は自宅でパーティがあるけれど、ダイエット・コーラとグルテン抜きのピザを出す予定よ。それに糖質は身体に悪いから最近控えているし——」
「オーケイ。つまり君は健康ってことだね」
「さっきからそう言っているじゃない!」
「そうかい。だったら君がコレチェキを描いたご主人様の顔を見てみなよ! みんな虚ろな目をしているね! 君が健康だったらこうはならないだろう?」
「何ですって?」
「君は自分のコレチェキに無責任なんだ。自分が有名になることしか考えていないんだ」
「……いいわ。あなたの言う通りね。たしかに、あたしは誰かのためではなく、自分のためにコレチェキを描いているわ。でもそれって、ふつうのことよ。実際にあなただって、あたしのためにコレチェキを注文したことがないじゃない」
「わたしは客なんだ。その分のお金は払っている」
「……わかったわ。今回はあたしの負けよ。次あなたが来たら、あなたのためにコレチェキを描いてあげる。赤色のペンを多めに使ってね。それで満足かしら?」
わたしはチェキの代金を置いて店を出た。どうしようもない一日が終わり、わたしはひどく疲れていた。メイドカフェがきれいな緑色の海に見えるのは、骨の無いクラゲのようなメイドが大勢いるからだ。そしてばかな観光客たちがたくさんやって来る。わたしはやつらとは違う。コレチェキについて誰よりも真剣に考えていて、誰よりも苦しんでいる。わたしは変わり者?
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