夫婦は、ガラスのひな壇に座る
とある友人が、SNSにこんな投稿をしていた。
「これまで、友人の結婚式には”新姓”で参加してきたが、どうにも違和感があった。今回の結婚式は、古くからの友人かつ理解ある人だったので、お願いして”旧姓”で参加させてもらった。」
同じ結婚式に参加していた私は、この投稿を見てはじめて、自分が無意識のうちに旧姓で招待状に返事を出していたことに気づいたのだが、なにより、同じ場にいた彼女が、そこに参加する自分の”名前”について強い葛藤を抱いていたことに驚いた。
結婚をすると、「女性は」名字が変わる。そのショックを「名前を取り上げられる」と表現する人も少なくない。
私も、女性の権利云々について色々と気にする方だが、(最近は男女の年収格差を調べていて、同じ大卒でも女性の年収が男性よりも5000万も低い事実に驚愕した)正直、名字の件についてはそこまで引っかからなかった。
「なぜこの件に限って、こんなに寛容でいられるんだ」と我が身を振り返ってみる。
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うちの夫、実はつい先日「帰化と姓名変更」というとんでもなく大変な儀式を終えたところである。帰化というのは、簡単にいうと日本国籍に変更することなのだが、厄介な手続きランキングTOP3は免れないはずだ。
もう何度目かもわからない(夫婦それぞれの)源泉徴収書やその他あらゆる書類の提出に、職場への架電聴き込み(があったという)、さらには大使館での面接までフルコースで経験したのち、ありとあらゆる公的・非公的書類の名前を変えるという偉業を隣でやっている夫を横目で見ていたから、「まあ名字くらい変えてやるか」と大きな気持ちで構えられた。
国籍だって選べる世界なんだから(もちろん条件・状況にはよるけれど)、自分が名乗る固有名詞の選択肢くらい、もう少し広がってもいいんじゃないとは思う。とはいえ、旧姓が私の公的書類上の呼び名にならないことについて、私はそれほど抵抗を感じない。
幸い職場では旧姓のまま仕事ができ、名前を呼ばれるほとんどの機会がこれまでと変わらないことも大きいのかもしれない。新姓で呼ばれるのは、もっぱら妊婦健診で通う病院だけなので、呼ばれる名前によって自分の役割を棲み分けられているようにすら感じる。
独立した個として社会と繋がっている私と、家族という共同プロジェクトで社会とつながる私。「私個人」と「家族PJ参画者の私」とで、名前が二つできたようで、私としてはこの使い分けを楽しんでいる。むしろ、いつだって一つの名前で全てを背負わされる男性が気の毒に思えるくらい。人間はいくつかの面があったほうが面白いはず。「旧姓」も、その一つのアイコンくらいに捉えている。
旧姓を手放したつもりは毛頭ないが、ゆくゆくは新姓の登場率が高まり、旧姓への馴染みが薄くなっていくのかもしれない。まあ、それはそれで、慣れてしまえば別に構わないと思っている。
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一方、名字が変わってショックなこともあった。
ひとつに「姓名診断」がある。
名字が変わったせいで私の姓名判断は「大大凶」になってしまった。あまりの急落ぶりに大笑いした後、これは流石に嫌だなと、わりかし本気で落ち込んだ。あれこれ調べて「大大吉」の字画で名前を選んでくれた両親に申し訳ない気持ちになる。
もし生まれてくる子が「女の子」に類する側だったとして、一生懸命に考えた名前が結婚なんぞ「形式的儀式」のために運気を下げられるのは、なんだか釈然としない。名付けのときに必死になるのなら、夫婦両方の名前に対して、より「縁起のいい」名字を選べるようにすればいいのに。
もうひとつ、名字ではないが、なんだかなあと思ったことがある。
それは「世帯主制度」。
入籍したとき夫は外国籍だったため、私が「世帯主」となった。これは正直、なんだか気持ちがよかった。よしよし、私がこの場は引き受けてやるぞ…なんてちょっと誇らしくもあったり。
ところが、彼の帰化が無事終了し「日本人」になった途端、私の”名前”だけが夫の”一段落下”に収まると同時に、彼が世帯主にのしあがったのである。
「外国人」よりも「日本人」が偉い。
「女性」よりも「男性」が偉い。
ファンタジーよりも摩訶不思議、透明なヒエラルキーの登場だ。
ガラスのひな壇といった方が的確だろうか。
この国が閉鎖的な島国であることを、ふとした瞬間思い知らされる。
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女性にせよ男性にせよ、「性別」なんていう、世の中をたった二分にしかできない大雑把な目盛りが、個人の志向やら権利やらを蹂躙する大義名分をもつことが、変な具合だなあと思っている。
特に夫婦という括りになった途端、余計に男女ペアの”社会的優劣”や”ジェンダーロール”を如実に突きつけられる瞬間が増えた気がする。(ちなみに”優劣”という言葉を使ったものの、私は夫に対して”優”も”劣”も感じてはいない)
家を買おうかと諸々の書類を記入したときも、ごく自然な流れで「まずは、旦那様から」と言われた。かたや子育ての分野では「母子手帳」なんて排他的な名前がまかり通っている次第だ。
男性というだけで世帯主になるなんて、理由もなく頼られて立てられて、さぞ気持ちがよかろう、と思う反面、男性というだけで何でもかんでも筆頭にさせられる息苦しさもあるはずだ。女性が生まれながらにして「母性」という神聖なものを持ち合わせていると思うのが、大間違いなのと同じように。
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いまお腹にやってきたこの子が生きていく世界は、ガラスのひな壇なんて無視して、それぞれが座りたいところに自由に居場所を作れる世界になっていて欲しい。「見えないように作られた」不公平なルールなんて、空気読まずにぶち壊すくらいでちょうどいい。
子供は、「親が言うようになる」のではなく「親のようになる」と聞いた。
私たち「夫婦」というチームが、いまの世界の何に違和感を抱き、どこからその違和感が生まれるのか、小さな疑問の芽を、流さず無視せず、地道に向き合うことから始めたい。