新しいことに挑戦しない、これが私の生きる道
新しいサービスや新制度、流行りものの話題が出るたびに、こう考える人は少なくない。
「今盛り上がってるらしいけど自分には関係ないや」とか、「どうせすぐ廃れるんじゃないか?」と。
特に、年齢を重ねてくると、こうした理由がどんどん洗練されていく気がする。新しいことに挑戦しない、受け入れないのが、いつの間にか一つの「スタイル」になってしまうのだろう。
やらない理由を積み上げる
新しいことを避ける理由は、次々に見つかるものだ。
「今の生活に必要ない」「これ以上手を広げても時間がない」……現状維持を選ぶのは楽だし、安心感もある。
「始めるまでが面倒だ」「自分には向いていない気がする」……未知の手間を理由に、小さな努力を後回しにしてしまう。
「ちょっとだけ試してみたけど、どうもピンと来なかった」……少し触れただけで全体を否定し、細かい点を挙げて「こういうところがダメ」と結論づけてしまうこともある。それが本当に全てを損なうほどの問題なのかは考えないままになる。
少しカッコつけて、「自分はそれを知った上であえてやらない選択をしている」風を装うこともあるだろう。
「仕組みはだいたい分かるけど、自分の場合はメリットあんまりないんだよね」なんて言いながら、本当はほとんど知らない――そんなことも珍しくない。
こうして、「やらない理由」はどんどん積み重なり、やらないことが正しいように思えてくる。
後悔は後から押し寄せる
ただ、どれだけ理由を重ねても、後悔がじわじわ顔を出す。「あの時やっておけば良かった。」という思いは、あとからやってくるものだ。
そして、「今でももしかしたら遅くはないのかも」とも思うが、どうしても踏ん切りがつかない。
あの時やっていれば得られたはずの利益を仮定し、今からやって得られる利益との差分を損失として考えてしまうからでもある。
過去の過ちは素直に認められない。認めることは、その仮定であるはずの損失が現実になることを意味する。認めなければ、得られたはずの利益なんてものは存在せず、つまりは損失も発生しえない。箱の中の猫がどうなっているかのような話。
でも、多くの場合は、今からだって遅くはない。未来の自分が振り返ったとき、「あの時に動いていれば」と思うタイミング。それが案外今日なのかもしれない。
そんなことが頭の中をエンドレスでぐるぐると回り続ける。
言い訳を手放してみる
やらない理由を正当化し続けるのは、心の防衛本能だろう。やらなかった結果を直視するのは、やっぱり怖い。
でも、正当化しても失った可能性は消えない。「やらない」が「できない」に変わる瞬間があることも否定できない。
特に、年齢を重ねると、「自分のやり方が確立している」という安心感から、新しいことを試さなくなる。けれど、その結果「挑戦しない」が当たり前になってしまう。
未来の自分に聞いてみる
だから次に「やらない理由」が浮かんだら、「本当に今やらなくていいのか?」と未来の自分に聞いてみるといい。
未来の自分が「よくやった」と思うか、それとも「なんであの時やらなかったんだ」とぼやくのか。それを少し想像してみるだけで、選択は変わるかもしれない。
まあ、そうは言っても、やらない時はやらない。それでも仕方ない。でもせめて、その選択が未来の自分にとって「仕方ない」と思えるものであれば、それでいいかもしれない。
そういうことにしておけば、これから先も、いい感じ。
今年ついに、初めてふるさと納税しました。
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