唐揚げに南蛮ソースとタルタルをかけたものをチキン南蛮と呼べますか?
ども。
私事ではありますが、兼ねてよりお付き合いさせていただいている.....
といきたいところではありますが、
たなか脳内ツアー第3弾です。笑
先日、近所の某中華料理チェーン店でチキン南蛮を注文した。
テーブルに置かれたチキン南蛮は、私が知っているそれよりもはるかに色黒で、あら?まだ夏もきてないのに
日焼けしちゃってってもう~なんて思いながら口にしてみるとどう考えても唐揚げの味がした。
ふとメニューを見返すと、キチン南蛮の隣に唐揚げがいる。
同様の調理手順で作られた唐揚げに、ソースをかければあら不思議!
チキン南蛮ができあがり!そういうことである。
百歩譲ってそれでおいしければ許せるものであるところが、
タルタルがそれはまあおいしくないこと。
2つ目の唐揚げを食べているときには吐くかと思ったわ!
どうやったら具合が悪くなるようなタルタルを作れるのだろうか。。。
腐ってたんか??(完食しましたが)
さて、相も変わらず病的に様々なことを考えながら生きているわけですが、
そんな私を横目に、つい最近一番の親友が結婚した。
改めておめでとう。
結婚式への参列はこれまでに通算6度ほど、
新婦の両親の表情を見て親心に共感し涙してきたものだが、今回は新郎新婦ともによく知る仲だっことと、
どう考えても一番の大親友だったこともあり、
中座の新郎新婦紹介ムービーで感極まって大号泣していた。
私の知らないところでふたり時間を過ごし、
いろんなことを乗り越えて今この笑顔があるのかと考えていたら、涙腺ダムも簡単に崩壊でした。
嗚咽が止まらないレベルで号泣したのはいつぶりだったのだろうか。
とてもとても結婚したくなりました、はい。
さて、超個人的恋愛相談窓口を日夜運営しているので、今でもいろんな人からいろんな相談や愚痴を聞く。
すでに結婚生活を数年過ごしている友人からもさまざまな話を聞かせてもらっている。
そういった話を聞いていると、結婚式のときの幸せを
忘れてしまったのか…どうしたんだよ結婚できてていいじゃんかよ…と毎回思うのである。
とはいえ、付き合い立ての頃がどれだけ楽しくても時間が経てばいろんなことがあるアレと同じ感じだろうか、教えていただきたい。
結婚していない人間は結婚をしたいと言い、
結婚している人間は結婚なんてするもんじゃないよと口にする。
彼氏彼女がいない人間は彼氏彼女が欲しいと言い、
彼氏彼女がいる人間は関係に悩み別れを検討する。
子どもを欲する一方で子育てに疲れ切ったお母さんもいる。
結局のところ、どこまでいっても『無いものねだり』である。
今回は誰しもが一度は考えたことのあるであろう、
この悪魔のような感情について考えていきたい。
全然かわいくない小悪魔『無いものねだりちゃん』
以後、お見知りおきを。
ところで、中学を卒業してから一度も会ってはいないけど年に一度、お互いの誕生日だけおめでとうLINEをする友人がいる。
決まって、もう〇〇歳かーやばいなーなんて会話をするわけだが、
素直に歳をとることを喜べなくなったのはいつからだろうか。
今年にいたっては32かーやばいなーって送ったら既読スルーされた、しゅん。
31・32はもちろん、
30手前では「やばいよもう30代だよ」
20代後半は「やばいよアラサー入っちゃったよ」
20代前半は「やばいよあっという間に20代も後半なっちゃうよ」
20歳のときは「ハタチ!ふりそでーしょん!!うぇーい!!!」
例年やばいしか言っていない出川哲郎みたいな彼は
結局のところ20歳の誕生日以降変化なく、やばかったわけである。
(もちろん誕生日祝いとかはうれしかったけどもね)
ではなぜハタチの誕生日がうれしいのか。
自我も芽生えていない幼少期は置いておいても、
20歳ないし18歳という誕生日が極めて特別だったからである。
「『自由』という権利の解放が待っていたから」
これに尽きるだろう。
お酒やたばこ、選挙権やDVDショップの暖簾をくぐって良くなるなど
大小あれどそれまで憧れていたさまざまな大人の世界に仲間入りできるわけだ。
ハタチ以降、誕生日を迎えて変わることはおそらく何もない。
はい、あとは『自由』の名のもと、己の人生を己で決めて生きてくださいねとなっていく。
それ以降の誕生日は度重なる老化を再認識させられ、
実際は『自由』と引き換えに手にした
「納税」「勤労」「教育」という三大『義務』に苦しんでいくこととなる。
4月新入社員がどっと押し寄せ電車が満員になるように、”学生”というモラトリアムが終ってからは淡々と日々を過ごしているわけだ。
毎年ハタチのときと同じテンションで誕生日を祝えている友人がうらやましい。
学生の頃は大人はお金もあって自由で楽しそう!と漠然に憧れていたものだが、当の大人たちは思っていたほど自由には生きていない。
お金はなかったけど時間と自由があった若いころが良かったなんて思っているもので、ここでも『無いものねだり』ちゃんのご登場となる。
さて、中には16歳くらいから働いて親元を離れている人もいるとは思うが、多くの人は大学生になったから、就職したからという理由で親の庇護から抜け出す
『自由』を手にしたことだろう。
複雑に絡まりあった色々のおかげで、私にその自由はなかった訳だが、ついにその自由を(半ば強引に)手にする運びとなった。
今回はそんな大転換日を控え、思うところあり筆を執った次第であります。
当然のごとく、大親友に報告したところ、
「めちゃいいじゃん!ひとり暮らし自由で最高じゃん!」とコメントいただいた。
あの頃憧れていたひとり暮らしは「遊びにきた友人や彼女の笑い声で毎日が騒々しい」暮らしだったわけだが、遊びに来てくれそうな友人たちは軒並み身を固め、
”一国一城の主”となっているにも関わらず、誰が喜んで1Rのくそ狭い家に来るのだろうか。
得られるものは、何をしても誰にも何を言われない自由と、金が無くなる苦しみと少しばかりの寂しさくらいである。
………寂しさは多分少しじゃ済まないか。
ひとりでなんか暮らしたくないよ、楽しくふたりで暮らしたいよ
どう考えてもコスパもいいしぃぃぃ!!
vs
あれこれ言われないぞ?自由最高だろ?
のゴングが鳴り響くと共に、
『無いものねだりちゃん』がはい、こんにちは。
仕事の愚痴や転職話なんかを聞いていると、もはや、
世の中の悩みのすべては『無いものねだり』で説明がつくのではなかろうか、と思うことさえある。
・仕事内容は楽しかったけど、残業が多くてイヤ。
定時退社で自分時間を楽しみたい。
・定時退社できるけど、職場の人間関係がイヤ。
もっと和気あいあいとコミュニケーション取りながら仕事したい。
『無いものねだりちゃん』はきっとどこでもドアを持っている。
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なぜ、人々は無いものをねだるのか。
読んで字のごとく、『無い』から『欲しくなる』わけだ。
設問1)
無いものねだりする理由として、『無い』から『欲しくなる』を証明せよ。
懐かしの背理法だ!!
解1)
①無いものねだりする理由を、『無い』けど『欲しくならない』とする。
②私は花粉症ではないが、花粉症になりたいとは思わない。
このとき、一般的にも『不要なもの』=『欲しくない』が成り立つため、仮定が誤りであることがわかる。
③背理法使えず。残念。
解2)
①無いものねだりする理由を、『有る』けど『欲しくなる』と仮定する。
②私はお金をいくらか持っているが、もっと欲しい。
このとき、一般的にも『足りない』=『欲しい』が成り立つため、仮定が誤りであることがわかる。
③背理法使えず。残念。
どうやら、読んで字のごとく、『無い』から『欲しくなる』わけではないらしい。
これに関しては、数学脳が蘇ってきて書いてみたけど特に意味はない。笑
みなさんも無いものねだりのベテラン経験者として、
ねだる理由が「無いから」とか「有るけど」とか
そんなシンプルなものではないことは容易にわかるだろう。
ここで『無いものねだりちゃん』の登場シーンをざっくり振り返っていきたい。
・お酒の飲めない未成年
・お金はあっても時間のない大人たち
・ひとりが寂しいぼっち青年
・嫁にあーだこーだ言われたくない旦那
・休みのないブラック企業の社員
・コミュ障ばかりのプロジェクトメンバー
これらに共通して言えそうなのはみんな『何かしらの不自由を感じてそう』ということである。
自分が思い描く『理想』と『現実』のギャップを感じた時、きっと『ねだる』のである。
『現実』において「有る」とか「無い」とかは関係がない。
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すべての悩みが『無いものねだり』で説明がつくとして、
このままでは友人に悩み相談をされたときに、
「あーはいはい、無いものねだりだね、あきらめよ」としか返せない男の爆誕となる。
友人を失いたくはないので、『無いものねだり』との付き合い方を考える必要がある。
とはいえ、『無いもの』=『理想』と『現実』のギャップ をねだってもしょうがないのも事実である。笑
『不自由』を感じなくて済むように動くしかない。
が、『無いものねだり』思考が根付いていると、動いた結果他の『不自由』を感じるようになるのは目に見えている。
私も偉そうに人のことを言えないので。笑
友人の話を聞いているとき、自分でも知らず知らずのうちに、どうしたらその悩みを解消できるかを一緒に考える一方で、でもこういう面ではいいじゃん満たされてるじゃんと返す場面が多い気がする。
常にそう考えられるようになれば、もしかしたら
悩みの多くは悩まなくて済むのかもしれない。
それはそうだけど、でもこうしてほしいじゃんーーーというのがいわゆる悩みというわけで。そんな話を永遠するのが楽しいわけで。
人間っておもしろいよね。
もちろん改善すべきところは改善するために動くことも大事な上で、
ギャップばかりに捉われることなく、今という『現実』に『何が有るか』を考える方がよっぽど重要なんだと心のどこかでは分かっている。
『無いものねだり』に対抗する術は
『有るもの誇り』だったというわけです。
おっと対偶か??笑
「知足者富、強行者有志。」
いわゆる『足るを知る』ということが大事なわけで、
老子の偉大さを痛感させられる。
一人の人間の人生なんて一瞬なわけで、先達に学ぶべきことは多々ありますなほんと。
要は、頼んだチキン南蛮がたとえ唐揚げだろうと、
「足る足る」がかかっていれば十分ということで。
・・・今回はこれが言いたかっただけですwww
長々と申し訳ありませんwww
結論の出ない無駄話を永遠するの楽しいじゃん?
『無いものねだり』がこの世からなくなったら、それはそれでつまらなさそうだななんて思ったり。
毎週のようにサイゼのドリンクバーで5時間くらい無駄話したいよね。
あー小エビのサラダ食べたい。
【追伸】
設問2)
すべての悩みが必ずしも『無いものねだり』な訳ではないことを証明せよ。
解)
①すべての悩みは『無いものねだり』で説明がつくと仮定する。
最近の私の悩みは欲しいTシャツを黒にすべきか白にすべきかどうかであるが、
この時、「誰もお前の服の色興味ないわ」と「黙ってグレーにしとけ」が成り立つ。
②『無いものねだり』でもなんでもないため、仮定と矛盾。
③よって、背理法よりすべての悩みが必ずしも『無いものねだり』な訳ではないことが証明された。
ということで、今回の話は暇人の独り言だったということで。
長々とありがとうございました~~