
バイク短編小説〜走れ!SR〜
日高町のキャンプ場にて
北海道ツーリングも終盤のある日、タケルは日高町にあるキャンプ場にテントを設営した。7月の初旬、約一週間かけて道東を巡り、日勝峠を超えてたどり着いたこのキャンプ場はタケルにとって定宿と言っていい場所だった。というのも、ここは苫小牧東港に16時45分に着く新潟〜苫小牧航路を利用する際の北海道上陸初日の宿泊地として、それから17時に小樽港を出港する新潟行きフェリーに乗る際の前泊地としても都合が良いからだった。もちろん、温泉至近、低料金、綺麗な施設という条件も完璧にクリアしている。ただ、今回はいつも利用しているフェリーの予約が取れず、明日函館まで移動して青函フェリーに乗る予定だ。
この日もフリーサイトにテントを設営すると、タケルはすぐそばの温泉に向かった。歩いて5分ほどのその温泉施設に着くと駐車場に停められた1台のバイクに目が止まった。タケルと同じヤマハのSR400というバイクで40年以上も作り続けられたロングセラーモデルだ。タケルが乗るのは1980年代後半のいわゆる2型と呼ばれるモデルで、このSRは2021年に惜しまれつつ生産終了となった際のファイナルモデルだ。そしてナンバーは自分と同じ品川だった。
「ピッカピカだなぁ。」
SR乗りの中にはSRは古ければ古いほど偉いと考える向きもあり、タケルもそれほどではないにしろ年式や荷物の積み方でライダーを値踏みする癖が正直少しだけある。荷物を満載にしているところを見ると、すぐ隣のキャンプ場利用者ではなく、まだこの先走るのだろうか、バッグ類も新品だしリターンライダーかビギナーだろうか、そんな事を思いながらタケルはバイクの横をすり抜け温泉施設に向かった。
温泉入り口の階段に足をかけ、ふと視線を上げた時ちょうど温泉から出て来た先客の脚が視界に入った。黒いレザーパンツにライディングブーツ、白いTシャツ姿の女性ライダーだった。一瞬目が合ったが、お互い軽く会釈をしただけですれ違った。振り向くとどうやら彼女は先程のSRの持ち主らしかった。温泉備え付けの物とは違うであろうシャンプーのいい香りが漂っていた。
ひと風呂浴びてさっぱりすると、タケルはおろしたてのTシャツに袖を通し清々しい気分で温泉から出た。タケルには歳の離れた兄がいる。小さい頃は後をついて行くことすら難しい歳の差だったが、タケルが高校生くらいになると随分大人扱いをしてくれる様になり、良い事も悪い事もひと通りはこの兄から教わったと言ってもよかった。もちろんバイクも兄の影響である。
その兄の言いつけのひとつに
「旅に出るときは新しい下着を身に付けろ」
というひと言があった。バイクでの旅ではいつ何が起こるか分からない。不測の事態になった時に身なりは綺麗な方が良いと、そういう意味だと思って今でも守っている。そのくらいの覚悟でバイクには乗るものなんだと。そして今日は一枚だけ封を切らずに残しておいたヘインズの赤ラベルをおろしたのだった。
タケルがキャンプ場に戻ると、先ほどと比べてもまた少しテントが増えていた。明日から三連休という事でこのキャンプ場もきっと賑わう事だろう。タケルのテントの近くでは女性のソロキャンパーがテントを設営し終えたところだった。どうやら先程のSRのライダーのようだった。
おやっ?という顔のタケルと目が合うと、やはり彼女は軽く会釈をした。そして
「すみません。隣、お邪魔しますね。」
と言った。
「あぁ、どうぞ。さっきお風呂で見掛けましたよ。」
タケルがそう言うと彼女は
「えっ?」
と言って胸の前で腕を組んでタケルを睨むような目つきをした。
「いや、そう言うんじゃなくて、すれ違いましたよね。」
慌ててタケルが言い換えると彼女は
「あ、そうでしたか、ごめんなさい私…。」
とすまなそうな顔をした。
見たところ歳格好はタケルと同じ20台後半くらいに思われたが、ソロツーリング初心者で不安なのか、元々そういう気質なのか感受性が豊かと言うより少し外からの刺激に過敏なタイプのようにタケルは感じた。ことツーリングに関してはそこそこベテランと自負しているタケルからすると、どこか構ってあげたいような、そっとしておいた方が良いのか、判断しかねる相手ではあった。
それでも彼女はタケルのバイクに興味を持ったのか
「このバイクは…?」
と話しかけて来た。タケルのSRはカフェレーサースタイルと言って低いハンドルや薄いシート、短く跳ね上がったマフラーなどで改造されていて、彼女には一見SRかどうか分からなかったようだった。メタリックブルーに塗装されたタンクにはYAMAHAのロゴすら無い。
「あぁ、君のと同じだね。僕のはずいぶん古いけど。」
「私、今年の春に免許取ったばかりなんです。まだバイクやキャンプの事、全然分からなくて。」
そう言う彼女にタケルはお世辞のつもりで
「そうですか、でも皮パンもお似合いですよ。」
そしてお茶でもすすめようかと思い
「ティーバッグで良かったら…」
と言ったところ、彼女は何を勘違いしたか
「ティ、Tバックじゃありませんから!」
と顔を赤くしてテントに戻ってしまった。
「えぇ?」
まるで変態とでも思われたようでタケルはしばらく呆気に取られていたが、
まぁ、こんな事もあるか、女の子に話しかけるってのはやっぱ難しいや、
と気を取り直し焚き火台に火を起こした。そしてやっと缶ビールに口をつけたその時、隣のテントからジーンズに着替えた彼女が出て来て恥ずかしそうに言った。
「すみません、Tバックでした…」
思わずタケルは口にしていたビールを吹き出した。
「Tバックだなんて言ってないよ!ティーバッグで良ければお茶でもって言ったんですよ。」
タケルがそう言うと彼女は
「えぇ?だってお風呂で会ったって言うし、皮パンがお似合いだなんて言うから私てっきり…。」
とまたもや顔を赤くするのだった。
これにはさすがにタケルも大笑いした。
「君、面白いなぁ。」
その後ふたりはすっかり打ち解けて、互いの食材を持ち寄っての夕食から焚き火を見ながらの会話も弾んだ。彼女はユウコと名乗った。
「木綿の子と書いてユウコって。古風なんです。好きな名前だけど。」
「木綿、いいじゃん。」
「俺、小さい頃から肌が弱くて、だから今でも着る物は殆ど綿100%なんだよ。木綿とは肌が合うんだな。」
「肌が合う…」
ユウコがまた顔を赤らめて
「またそんな…私やっぱおかしいですね。」
と自嘲気味に笑う。
「まぁまぁ。でも常に警戒心は持っていた方がいいんじゃ無いの?ソロキャンプブームでバイク女子は熊とオッサンに気をつけろなんて言われてるし。」
「そうなんです。昨日もキャンプ場でこう、髭面のおじさんみたいな熊に話しかけられて…。」
(熊みたいなおじさん、だよね)
タケルはもはや突っ込む気もしなかったが、他愛も無いことを一生懸命話すユウコに対し好感は増して行くのだった。
そんな話題から次第に会話は日常の事へと移っていった。タケルは戸越にある包装資材の会社に勤め、西大井のアパートで一人暮らしをしている。ユウコは大森にある会社に勤めていて住まいは蒲田だと言った。思いの外近くにいた事にふたりして驚いた。お互いツーリングが終盤を迎え現実に引き戻されることを考え始めているからだろう、次第に話は仕事のことになった。
ユウコは生活雑貨の企画販売会社に勤めており、通販部門のチーフなのだと言う。会社名を聞いてもピンと来なかったが、商品名を聞くとタケルも利用している物だというのが分かった。
「じゃ、タケルさんのせいで私達いつも残業してるんですね。」
とユウコは意地悪そうに笑った。ウェブデザインや企画の仕事を希望して入社したのに通販部門を任されてしまった事、それから自社サイトはもちろん、楽天やAmazonといった大手通販サイトからの受注データを社内の出荷データに連携させる普段の仕事のことや、勝手に大手通販サイトのポイントキャンペーンに乗っかって社内業務をかき回す自分勝手な営業とのやり取り、それからカスハラまがいの苦情処理などに疲れたと、ユウコはため息をついた。
「お客さんは早く早くって急かすくせに、無事届いてもお礼の言葉はこっちまで届かないし、仕事をしていてもこの先に何があるのか分かんなくなっちゃって。」
仕事の話になるとユウコは急に年相応に大人びた雰囲気になった。さっきまでの早とちりでおっちょこちょいな横顔は姿を消していた。
「で、バイクに乗り始めたって訳?」
タケルが聞くとユウコはちょっと複雑な顔をした。
「うーん、そう言われればそうとも…。まだ分かんないです。バイクに乗って、その先に何があるのか。」
「俺なんかはバイクに乗っている事自体が楽しいから、その先なんて考えた事無いなぁ。何が待ってんだろうね。」
そう言いながらタケルはある事を思いついた。
「明日、苫小牧から大洗行きのフェリーに乗るんだよね?」
「ええ。」
「で、君は蒲田の自宅まで帰る。俺は明後日中には西大井のアパートに帰る。」
タケルが何か企んだ子供の様な顔で言う。
「俺は明日函館まで移動して青函フェリーで青森に渡るんだけど、大洗まで競争しない?」
「えぇー?そんな事出来るんですか?」
「やって見なきゃ分かんないよ。元々明後日中には家に帰る予定だったんだから、いい勝負になるんじゃない?」
「何か、面白そうですね。」
「決まった!何を賭けようか?」
少し考えてユウコが
「負けた方がその後の夕飯を奢るって言うのは?」
と言うとタケルも応えた。
「オッケー、いいよ、乗った。」
道中連絡が取れるよう、ふたりはLINEを交換して互いのテントに戻った。
フェリーを追いかけて
翌朝、ふたりはそれぞれに朝食を取り、やはりそれぞれのテントを撤収した。タケルは時々手を休め不慣れなユウコのペースに合わせて片付けをし、同じタイミングでチェックアウトした。
そしてタケルは函館を、ユウコは時間に余裕があるので一旦富良野を経由して苫小牧を目指して出発した。キャンプ場を出た先の交差点でタケルは直進、ユウコは右折、手を振ってそれぞれの方向にバイクを走らせる。
タケルは元々の予定では函館にほど近い北斗市のきじひき高原でキャンプをして翌日のフェリーで青森に渡る予定だった。しかし、それでは翌日中に東京に戻れてもユウコの乗るフェリーの大洗着午後2時には間に合わない。そのため今日の夕方のフェリーに乗って青森に渡るよう予約を変更するつもりだが、その分出来た余裕でユウコに何か贈り物を用意したくなった。
例年の北海道ツーリングでは帰りの便に小樽港発のフェリーを使う事が多かった。小樽の街には北一硝子というガラス細工の有名なお店があり、一度立ち寄った時にはガラス工芸品の美しさにタケルも感心したものだった。とはいえ贈る相手がいなきゃ意味が無いとそれきり立ち寄った事がなかったのだが、そのお店を今覗いたらきっと今までと違う気持ちで見る事が出来るのではないか、そう思ったらどうしても小樽に行きたくなったのだった。
今までバイクは自分のために走らせて来た。それはそれで充分楽しかったし、これからも変わらないだろう。けれど、こうして誰かが待っている所に向けてバイクを走らせると言うのがこんなに充実した気分になるというのも新たな発見だった。
小樽の北一硝子でタケルは蜻蛉玉といわれるガラス細工の編み込みブレスレットを買い求めた。ディスプレイには赤と青のブレスレットがペアで飾られていたが、いきなりペアのブレスレットを贈るのも何だか憚られて赤いひとつを包んでもらった。
時計を見ると時刻はすでに午後1時に近かった。現時点で函館までの最短ルートよりすでに約50km遠回りしている。後はどこにも寄らずまっすぐフェリー乗り場を目指そう。ブレスレットの入った小さな箱をタンクバッグにしまい、タケルはSRに跨った。低いセパレートハンドルのSRではちょうどタンクバッグを抱えるような乗車姿勢になるが、7〜8cm角の小さな小箱、この大切な贈り物をまるで守るかのような格好になり、SRがいつもと違う別の乗り物になったかのような錯覚をタケルは感じていた。
一方のユウコは予定通り富良野方面にバイクを走らせていたが、ちょうど見頃のラベンダーも、楽しみにしていたパッチワークの景色も何だか心に響かない。
そわそわして気持ちが落ち着かないのだ。もっとのんびりするつもりだった富良野を早々に引き上げ、SRを苫小牧に向けて走らせた。でもこのまま走ると苫小牧のフェリーターミナルに早く着き過ぎてしまう。ツーリングマップルを開いたユウコは新たな目的地を見つけた。二風谷のアイヌ関連の施設に立ち寄ってみよう。
二風谷では資料館でアイヌの文化に触れ、民芸品のお店では木彫りの工芸品に目を奪われた。中でも木彫りの魔除けをあしらったブレスレットが気に入った。青い柄の木彫りはタケルのSRと似た色合いで、両側に結び付けられたターコイズは12月生まれのユウコの誕生石だ。これをタケルに贈ったら喜ぶんじゃないだろうか。隣には同じデザインで赤メノウをあしらったブレスレットもあったがいきなりペアというのも気が引けて青いひとつを包んでもらった。
18時過ぎ、タケルが被るヘルメットのインカムが本日何回目かのLINEの受信を伝えた。タンクバッグ上面の透明なマップケースの中にあるスマートフォンの画面を見ると、ユウコから「乗船しました…」とのメッセージの冒頭が表示されている。
「向こうは順調だな。」
タケルはその時点で国道5号線の森町付近を走っていた。走行自体は順調なのだが、思わぬ誤算があった。18時函館発に乗れれば随分楽になるとは思っていたが、小樽経由にした時点でそこは諦め20時半の便に予約を変更しようとしたところ、その便がなんと満席だったのだ。ちょうど夏の三連休に当たった事が裏目に出た。次の便は23時半出港、青森港着は午前3時半である。
しようがない、青森に渡ってからが勝負だ。フェリーの予定がズレたなどと言えばユウコは無理しないでいいよ、と言うに違いない。休憩時の連絡で順調に走ってます、とだけ伝えSRのヘッドライトを点灯させるとタケルは変わらぬペースで走り続けた。
ユウコの乗ったフェリーは定刻の18時45分、茨城の大洗港を目指して苫小牧西港を出港した。部屋は往路と同じ2人用個室の1人使用である。ドミトリー形式の安価なベッドに女性専用ルームの無いさんふらわあでは割高ではあるがこの部屋が一番安心できる。とは言え、タケルと知り合った後の今では男性と同じフロアでもどうってことはないような気さえしていた。
そもそも自分は異性からどう思われているのか、どう見られているのか気にし過ぎていたのだと思う。営業の社員の意地悪な対応も、クレーマーの高齢男性からの罵詈雑言も自分が女性だからこんな目に遭っているのだと勝手に思い込んでいた節もある。しかし実際は男も女も、若者も年寄りもみんなそれぞれ表には見えない問題を抱え、何とか折り合いをつけて生きているのだ。
タケルのおおらかな性格と自分に対する態度がユウコの男性に対する免疫を強くしてくれているのか、船内でリラックスした服装に着替えた後でも周りの男性の視線が以前より気にならなくなっていた。
23時半函館発の青函フェリーに乗船したタケルは2等の広間で身体を横たえて休んでいた。身体はそれなりに疲れているのだが、頭はすっきりと冴えている。
青森に着くのは午前3時30分。そこから茨城の大洗港までは約600km。
高速巡行が苦手なSRでも正味8時間もあれば走り切れるだろう。とすると休憩に使える時間は2時間半か、100kmに一度30分は休める計算だ。
うん、余裕余裕、でも無いか?
厳しいが無理な予定ではないと分かったところで急に睡魔が襲って来た。タケルは眼を瞑りそのまま眠りに落ちていった。
日付の変わった0時過ぎ、ユウコはなかなか寝付けずにフェリーの展望ラウンジにいた。外は当たり前だが真っ暗で船が今どの辺りを走っているのかも分からない。今頃タケルはどうしているだろう。0時半に青森に着くと言っていたからそろそろ支度をしているだろうか。寝過ごしてまた函館に引き返したりしていないだろうか、いやさすがにフェリーでそれは無いか、そんな事を考えたら何故かおかしな気持ちになってひとりでクスクス笑ってしまった。
30歳手前の独身の女が夜中にフェリーのラウンジでひとり思い出し笑いをしている。こんな状況の自分を客観的に見ている自分がいる。しかも見られている側の私もまんざらじゃ無い。昨日出会ったばかりのタケルとこの先どうなって行くのかまだ分からないが、確実に言えるのはバイクで一人旅をして、タケルと出会って、ほんの少しだけれど自分は変わり始めたと言うこと、いや、まだそんなに変化は無いのかも知れないがこの先まだ自分は何者にもなれる。
そんな気がした夜だった。

走れ!SR
午前3時30分
定刻通り青森港に着岸したフェリーからタケルは愛車SRと共に降り立った。あとは大洗に向けて走るだけだ、頼むぜ、SR。
港を出ると三内丸山遺跡のすぐ横を通り青森インターから高速に乗る。東北道の終点だが気分は起点である。夏とは言え7月中旬の明け方の東北、思ったより気温は低い。北海道で着ていたそのままの革のシングルライダースを通るわずかな風が心地良く、タケルはSRを順調に走らせて行った。
走り始めてまもなく、東の空がうっすらと明るくなり始めていた。
翌朝午前7時、ユウコはデッキに出て夏の日差しを浴びていた。生成色の麻のワンピースが潮風を受けて軽やかにはためいている。麻の衣類は嵩張らず皺も気にならないので、この旅でもホテル泊の際の外出着として持参したが実際着たのは今日が初めてだった。レザーパンツやライダージャケットと違う軽い着心地が気持ち良かった。
今頃タケルはどの辺りを走っているのだろう?フェリーは確か時速40kmくらいで走ると聞いたから、もしかしたら既にタケルに追い越されているかも知れない。低いハンドルのSRに前傾姿勢で乗っているタケルの姿をユウコは想像した。
がんばれバイク少年、無理しないで安全運転で。
東北道長者原SA 午前8時
タケルは青森からここまで300kmを1時間毎を目安に小休止を挟みながら走って来た。しかしフェリーで仮眠したとは言え1時間も眠れたのだろうか、ここに来てドッと疲れが出て来た。ここは大洗までのちょうど中間地点、残り300kmで6時間あれば余裕だろう。タケルはここで少し長めの休憩をする事にした。SAの隅でタケルは芝生の上に身体を横たえた。空冷単気筒エンジンの振動とエキゾーストノートが掌と耳にじんわりと残っている。目を瞑っても夏の朝の日差しが瞼の裏を熱くする。首に巻いていたスヌードを顔にかけるといつしかタケルは眠り始めていた。
お昼前、ユウコは早めの下船準備を始めていた。14時大洗着のさんふらわあは昼のレストラン営業は無い。軽食でも口にしようかと思ったがこの後またハイウエストのレザーパンツを履くかと思うと食事をする気になれなかった。
それに競争に勝っても負けても夜はタケルと食事だ。お昼を抜いても、と思った時に気がついた。そうか、帰宅途中に何処かでご飯を食べるのか、それならジーンズの方が良いのかも知れない。ユウコは空いたベッドの上に置いていたレザーパンツをバッグに仕舞い、ワンピースからジーンズに着替えた。Tシャツもいつものヘビーオンスのものではなく、ワンピースと重ね着も出来る首の広く空いたカットソーにした。こんな事ならおしゃれなサンダルを持って来れば良かった。デニムパンツにサンダル履きで上からワンピースを着れば一応コーディネートは完成するのに。
そんな事を考えているうちに船内には間もなく大洗港到着を知らせるアナウンスが流れ始めた。
「頼む、SR頑張ってくれ!」
その頃タケルはまだ高速道路上を走っていた。一瞬気を抜いたつもりが長者原のサービスエリアでタケルは小一時間以上眠ってしまったのだった。さらには焦りからか仙台の手前で常磐道への分岐をやり過ごしてしまうというミスも重なった。郡山ジャンクションから磐越道に入り、常磐道に入ったあたりで時刻は昼を回っていた。あと100km、2時間以内で何とかなるだろうか。
「まんま『走れメロス』じゃねーか、自分で仕組んどいてこりゃねーぜ。」
前を走るファミリーカーを追い越しにかかる。眠気を払うためにシールドを外したジェットヘルメットでは後方確認のために横を向くと負圧で一瞬息が出来なくなるが、そんなことには構いもせずタケルはひたすらアクセルを開けた。
定刻通り大洗港に到着したフェリーからユウコがSRと共に降り立つと、ターミナルのそばでタケルが大きく手を振っているのが見えた。
「お待たせー!」
ユウコも大きく手を振ってタケルのもとにバイクを走らせた。
「いやー、勝たせてもらったぜ。」
「お疲れ様、夕飯奢らせてもらうね。」
というユウコに
「14時着って言ってもバイクが出てくるまで少し時間があるのな、助かったよ。」
タケルはそう言って笑った。
約束の夕飯は一度帰宅してから出直そうという事になり、ふたりは東京方面にバイクを走らせた。フェリーターミナルを出る前にお互いのインカムをペアリングし、道中は会話を楽しみながらのランデブーである。
タケルは道中の顛末を、まるで走れメロスみたいだったと面白おかしく話した。ユウコはユウコでフェリーに乗り遅れないようにと気が気でなくて富良野も全然楽しめなかったと冗談めかして言うのだった。
そしてその分少し遠回りして立ち寄った二風谷でタケルへの贈り物としてブレスレットを購入した事をユウコはまだ黙っていた。食事の時に渡したらタケルは喜んでくれるだろうか。
ひと時会話が途切れたところでタケルもまたひとり想いを巡らせていた。今回のユウコとの出会いは、彼女の
『隣、お邪魔しますね』
というひと言から始まったと言って良い。キャンプ場では良くあるシチュエーションではあるが、どちらかと言えば人見知りと言っていいユウコがよく自分から話しかけたものだとタケルは思った。恥ずかしそうに頬を赤らめるユウコを思い出し、後で赤い蜻蛉玉のブレスレットを手渡したら彼女はどんな顔をするだろうかと思いを巡らせた。
しばらくの無言にユウコが
「もしもし?インカム繋がってる?」
と訊くとタケルは
「あ、ごめん。キャンプ場で話しかけられなかったら、と思うと不思議だなぁって考えてたんだよね。」
「うん」
「やっぱ、同じSRだったから?」
「んー」
タケルの丈の短いシングルライダースから覗くTシャツの白い裾を見ながら
『Tシャツが真っ白で素敵だったから』
というのはまだ言わないでおこうと思った。ユウコは
「そうね。」
と笑うと、途切れた車の隙間を突いて追い越し車線に出て加速した。
「あ、置いてくなよ!」
追いかけるタケルのSRから弾き出される排気音がインカム越しに聞こえた。