【短編小説】変化
ただの水を葡萄酒に変えることは神様の子どもがやってのけていたけれど、まさか目の前でサイダーに変える人間がいるとは思わなかった。
「ね、美味しい?」
「……美味しい」
彼が無邪気に聞いた質問に、私は唸るように答えた。彼は猫っ毛の髪をゆらゆら左右に動かしながら、口笛を吹いた。ちょっとうざかったので、その口を上下につまんで静かにさせた。蝉の鳴き声だけが、二人の周辺をやかましくする。数十秒はその状態で見つめ合っていたが、彼が震え始めたところで離してあげた。
「こんな特技があったんだ。どんな手品使ったの、これ。種明かししてよ」
「これはですね、魔法ですよ。伝家の宝刀です。簡単には教えられませんな」
「ふーん」
「まあ、氷は出せないんだけどね」
確かにサイダーを出した後、こいつ氷だけ後で出しやがったな。透明なガラスコップに透明で不揃いな形の氷はサイダーには欠かせない。そういうポイントを押さえていることを褒めてやるべきなのだろうか、憐れんでやるべきだろうか。
彼は鼻歌を歌いながら、私が飲み干したガラスコップにサイダーのお代わりを追加してくれる。水をとぷとぷ注いでから、ふわんと手を回転させるとガラスコップの底から渦を巻いて、しゅわしゅわとサイダーがコップの中に満ちていく。本当に魔法みたい。シンデレラの魔法使いも似たようなことをしていた。彼は杖なしでやっているので、そう考えるとあの魔法使いより優秀なのかもしれない。
私が拍手をしながら「ありがとう」とお礼を伝えると「いいえー」と彼がハミングする。私はサイダーを口に含んで、甘さと炭酸の弾ける感覚を舌で楽しむ。
「そういえば水もいるんだね」
「あー、元がないと変えられないんだ」
「水限定?」
「なんでもいいよ、この世に存在する物質なら。等価交換だからさ。でも、ゴミがサイダーになったところで飲みたいと思う?」
思わない。私は首をふるふると横に振った。元をある程度を用意したうえで、別のものに変える。その工程はおろそかにしない方がいいとは私も思う。
彼はその日、ずっと持ってきた水を私のためにサイダーに変え続けた。氷はどこから持ってきているのと思っていたら、後ろに置いてあるクーラーボックスから取り出していた。用意がいい。
そのうちに私がもういいよ、と飲み干したカップを渡すとまだだよ、と彼は答えた。もう一度同じことを言うと、彼も同じことを言った。彼は何をすれば満足なのか分からなくなっているようだった。彼はサイダーに変えながら答える。
「きみに、与えられるだけ与えたいんだ。そうやって、愛を手に入れたいからね」
「水をサイダーに変えるだけでいいじゃない。素敵よ」
「じゃあ、愛してくれる?」
私は笑って首を横に振った。しゅんと落ち込む彼の髪に触れてから、そっと頬に滑らせる。私の手のひらに、彼は頬をすり寄せた。
「私のことを愛しているなら、私を手放して」
「やだ。まだ行かないで。きみが好きなサイダーをいくらでもあげるから、もう少しだけそばにいて。甘えさせて。変わらないで」
「馬鹿ね、変わることは執着することじゃないんだから。手放していかなくちゃ。いつかあなたの力も別の力に変わるわ。その時に私はいらないの」
「きみがいないなら、変わる必要なんてないじゃない」
彼が私を引き寄せる。胸の中に閉じ込めて、もう逃げられないように抱きしめてくれた。私は彼の胸に頭を寄せて、心臓の音を右耳で聞いた。
「私がいなくても、変わっていきなー」
「やだやだ、怖いよ。水をサイダーに変えるだけが取り柄の人なんて、役に立たないよ。ずっと一緒に、二人でいようよ」
「私の役には立ったよ。あなたの作ったサイダーが今まで与えられた飲み物の中で一番美味しかった。いっぱい飲ませてくれて、嬉しかったよ」
出会ってから、二人だけの世界だった。
二人だけで生きていこうとさえ思った。
変わらない二人でずっと生きていこうと手をつないで決めたのに、その手を私は離してしまった。そして二度とつなぐことはできない。
「……きみも変えられれば、よかったのになあ」
「サイダーに?」
「きみという愛ごと飲み干して見せるんだ。いいでしょ?」
「調子いいこと言っちゃって」
彼の猫っ毛に触れるのが好きだった。彼の無邪気な笑顔が好きだった。私を見つめてくれるその瞳を私だけのものにしたかった。私は抱きしめられたまま目を閉じる。
蝉の鳴き声が遠ざかっていく。
からん、と氷が解ける音がする。
彼の足元で、茹だる暑さに百合の花束は物言わずしおれていった。
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