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かつて林業地はどんな姿だったのか?波瀬林業を識る。

三重県の林業地と聞かれたら、おそらくだいたいの方は尾鷲林業と答えるだろう。私も今日までそう思っていた。都道府県で2カ所も有名な林業地があるところはほとんどないと思われる。しかし、しっかりと調べれば”土地の記憶”がある林業地は、複数あることがわかる。やはり1番のところが伝わりやすい。

尾鷲林業といったら吉野や天竜と並ぶ、人工林の3大美林になる。余談になるが、この3大美林は、人によっては智頭や北山が入ることがあるが、今回は図解知識ゼロからの林業入門の23Pを参考にした。

私も尾鷲林業の方のところに、押しかけたことがあるが、とても美しい森林だった。だからはじめは今日は尾鷲林業について紹介しようと思ったのが、ページ数が多く断念したのであった。(ちなみに私の日々の投稿は1時間から1時間半の間に企画から調べて書き上げることにしている。)

本題前にとても脱線してしまった。申し訳ない。


三重県のもうひとつの林業地、波瀬林業地とはどんなとこだったのだろうか。



波瀬林業は、三重県のほぼ中央に位置し、西は東吉野村に接する飯南郡波瀬村を中心とした林業地になる。

この地域は和歌山街道として吉野と伊勢を結ぶ交通の要路であった。そのため波瀬林業の発生、発展には吉野林業が大きく影響する。自然条件もよく、スギ・ヒノキの適地である。

その歴史は古く、当時からして250年前には酒造家の先祖がスギの植林をはじめたのが起源となり、明治時代には1,200㏊の造林地があったとされる。

その後大正時代に、吉野地方から資本が投入され、急激に植林が加速した。それまでは大規模山林所有者が雇用労働型の林業経営中心に発展してきたが、資本が投入されたことで小規模山林所有者も植林を行うようになり、さらに発展していった。


卸先は、かつて吉野林業とおなじく樽丸用材を中心に生産したときは、大阪方面に出荷していた。ただ昭和にはいり、自動車の発展と国道の整備により、流通経路が変化し、松阪市中心に出材するようになる。

植栽本数は従来より㏊あたり5,000本であったが、一時期植栽本数が急激に上がり10,000本になった。しかし昭和34年に雪害を経験し、密植の厳しさを知り5,000本に戻った。


波瀬林業は吉野の影響を大きく受けている林業地になるため、実生苗を植栽することがほとんど。つまり地域にあった育種が重要となる。

しかし昭和にはいり波瀬林業は、苗木の供給を他地域に依存をはじめる。結果、系質の悪化がはじまったという。地元業者による育種が進めることで更なる発展が期待されるとのことだった。


波瀬林業は吉野と伊勢をつなぐ地として、吉野林業の系譜にはいり発展していった。しかし土台となる育種部分が他者に任せたことで、陰りが見えるようになった。

いまのようすをしりたいと思う。


本日も読んでくださりありがとうございました。

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